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芝生(しぼう)追分〜旧帷子橋(保土ケ谷宿。その2)

 右手が「八王子道」(その昔は「古東海道」の一部でもあった、という)、左手が旧「東海道」。
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【追分】 (歴史の道)
≪標柱左側面の説明文≫
 追分は一般に道の分岐点を意味しますが、ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所です。
≪標柱右側面の説明文≫
(歴史の道)
 八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政六年(1859年)の横浜開港以降は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれています。

《八王子道》
 「絹の道」の愛称で親しまれているこの道は、かつては「神奈川往還」または「浜街道」と言われていました。
 安政6年(1859)に横浜が開港し、その後、鉄道が発達する明治の中ごろまで、輸出用の生糸が多数運ばれたルートのひとつです。八王子周辺地域で生産された生糸は、八王子宿に集められ、この道を通って横浜に運ばれて行きました。その、生糸取引で短期間に巨額の富を成したのが「鑓水商人」です。
 現在、「絹の道」は御殿橋のたもとから、「絹の道碑」の前までの約1.5キロメートルが市の史跡に指定されています。このうち、特に昔の面影をよく残す未舗装部分は文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれました。
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 峠の一番高いところには、かつて道を行き交う旅人や村内の安全を祈って、道了尊を祀ったお堂がありました。現在は取り壊されて、跡地が大塚山公園として整備されています。
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HPより)

 しかし、「八王子道」は、ただ「絹の道」という役割だけではなかった。
《資料1》
町田市自由民権資料館(http://www1.ttcn.ne.jp/chikyuh-kotabi/machidajiyu.htm)より

街道は物資や情報と共に思想も運ぶ

 神奈川(横浜)開港で幕末から明治初期にかけて、多摩や秩父地方から町田経由で横浜へ向かう街道は、輸出生糸の輸送路として活用された。この経路は現在俗に絹の道と呼ばれるが、それは物流ばかりでなく、新しい思想を多摩秩父地方へ伝える経路にもなった。
 また横浜開港の結果、町田一帯は外国人の遊歩区域として解放区に指定された。そのため幕末期には多くの居留外国人が町田を訪問している。1865年には、後年トロイ遺跡の発見者として世界的に著名なシュリーマンも来訪している。彼は八王子訪問の途中、原町田で一泊して見聞記録まで残している。
 このような環境に置かれた武蔵・多摩地方の富裕商人や地主階層は、人権論などの西欧政治思想に触れる機会を得た。もともと学問の素養があった彼らは、維新後、明治政府が納税や徴兵義務などの報国面ばかりを強調し、憲法制定・参政権付与・国会創設などの国民の権利面は何ら考慮しない状態に不満を持っていた。
 これら富裕な人々が運動の指導者となり、集合・結社・思想・討論・出版の自由を求めて自由民権運動へ向かっていった。。町田は地理的にも歴史的にも、その運動の先進的な一中心地となった。この目的を実現するためには、各人が相応の見識を持つことが必要とされ、そのための学習活動が活発に行われた。
 その指導者の一人・村野常右門は、剣術と自由民権思想の教育を目指して、1883年に凌霜館を開設した。「町田市立自由民権資料館」は凌霜館跡に建てられ、多摩の民権/町田の民権として運動を紹介するばかりでなく、全国の自由民権運動の資料も展示している。
 自由民権運動はやがて、地域活動から全国的な運動となり、参政権や憲法制定運動に発展して行く。その間、思想上や運動上の対立を繰り返し、政府の弾圧も受けながらも、少しずつ目的を達成して行った。
 彼等が百年前に要求したことは現在では、ほとんど達成されている。しかし、もし彼らが今の町田の現地に立って、町とも田舎ともいえないような雑然とした風景を見たならば、彼らの理想とした社会と比べて、どう感ずるだろうかと思わず考えてしまう。

《資料2》東京都 - 東書KIDS(kids.tokyo-shoseki.co.jp/kidsap/downloadfr1/htm/jsd38773.htm)より

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 1871(明治4)年の廃藩置県(はいはんちけん)により,ほぼ現在の23区を行政区域とする東京府が成立しました。しかし,多摩地区や伊豆諸島は,神奈川県などに属していました。伊豆諸島は,明治に入り韮山県(にらやまけん),足柄県(あしがらけん),静岡県を経て,1878(明治11)年に政府の力が行きとどく東京府に編入されました。一方,神奈川県管下にあった三多摩は,1893(明治26)年4月に東京府に移管されました。これは,東京府民の人口増加による水源確保(府民の飲料水として利用されていた玉川上水(たまがわじょうすい)の水源管理を確実にするため)をねらいとしていました。また,当時,三多摩では自由民権運動が盛んで,神奈川県の政界で自由党が有力な地位を占める基盤ともなっていました。そのため,三多摩の自由民権運動を抑圧するねらいもありました。これにより,ほぼ現在の東京都の範囲が確定されました。

《資料3》

『武相自由民権史料集』全6巻
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本書は、武相地域(現神奈川県に東京都多摩地域を加えた旧神奈川県域)を、自由民権運動が展開した当時の運動領域と位置づけることによって、「三多摩」や市町村など現在の行政区分に左右されてきた研究状況を克服し、旧神奈川県域の自由民権運動を俯瞰することを目指したものです。また、いわゆる自由民権運動史料だけではなく、幕末維新期の多様な史料、明治20年代の政治運動史料、民権期における地域指導層の社会観や諸活動に関する史料をできるだけ多く収録しました。利用される方々が、本書を通じて、武相地域の自由民権運動をより多角的かつトータルに把握できるよう心がけています。
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HPより)


 他にも「新撰組」など、実に興味ある話題が尽きない、街道の「八王子道」です。

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来た道(旧東海道)を振り返る。

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「保土ケ谷宿案内図。

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「松原商店街」。活気にあふれた商店街。八百屋さんを中心にお店の人の元気な声が響く。段ボール箱で買っていくお客さんも。それほど長くはない通りにお店がひしめいている。
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「国道16号線」から商店街を振り返る。

 「16号線」を渡ると、「江戸方見附」跡の標識が。ここからが「保土ケ谷宿」の江戸側出入口。

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(歴史の道)【江戸方見附跡】
 「東海道分間延絵図」によれば、芝生(しぼう)の追分から国道16号を越え天王町にいたる途中に保土ヶ谷宿の江戸方見附がありました。保土ヶ谷区郷土史では、天王町391・393番地先(現在の天王町1丁目11−3付近)にあったとされています。
 江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています。このため「土居」(どい)とも呼ばれています。こうした構造から、見附は本来簡易な防護施設として設置されたことがうかがえますが、同時にまた宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。
 ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれ、保土ヶ谷宿では外川神社付近の上方見附まで19町(約2キロメートル)になります。大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。
     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

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商店街を進む「旧東海道」。
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現「帷子橋」からの「帷子川」。

《歴史》

平安時代:袖ヶ浦と呼ばれた入り海が、現在の横浜市保土ケ谷区東端部まで湾入しており、現天王町付近の河口は帷子湊(かたひらみなと)と呼ばれ、橘樹神社付近は「かたひらの宿」「かたひらの里」として栄えた。
江戸時代:河口に河岸があり、薪炭などの物流の地として栄えた。
1707年(宝永4年):富士山の大噴火による降灰で川筋が埋まり、河口も下流へ移動。現浅間町付近に新河岸が成立、旧河岸と対立を深める。
1732年(享保16年):川幅と河身の改修工事が行われる。こののち、明治時代にかけて袖ヶ浦の埋め立てが進み、平沼等が成立。埋め立て地に帷子川本流と新田間川・派新田間川・石崎川・幸川が残され、さらに一部はその後埋め立てられた。
明治時代:絹のスカーフの輸出増大を受けて、染色・捺染工場が集まる。八王子からの「絹の道」が通り、天王町が栄えた。
1923年(大正12年)9月 関東大震災後:国の復興事業として改修工事が行われる。
1958年(昭和33年):台風22号(狩野川台風)による水害
・・・

《名称の由来》

 現在の横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、かつては「かたひら」と呼ばれていた。その地を流れていたので「かたびらかわ」と呼ぶようになったともされているが、名称の由来については諸説ある。(以上、「Wikipedia」参照)
 
※かたびら【帷子】
〔あわせの「片ひら」の意〕
?裏を付けない衣服。ひとえもの。
㋐装束の下に着るひとえの布製の衣服。
㋑夏用の麻の小袖。薩摩上布・越後上布などが用いられた。 [季] 夏。
?几帳(きちよう)・帳(とばり)などに用いて隔てとする薄い絹布の垂れ布。
?経帷子。

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「帷子橋」から来た道(旧東海道)を振り返る。

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「環状1号」からの見た、旧東海道に架かる「帷子橋」。

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相鉄天王町駅。

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 相模鉄道線の「天王町駅」ホーム下をくぐると、「天王町駅前公園」に旧帷子橋跡のモニュメントがあります。
 また、公園入口に『江戸日本橋より八里』と刻まれた石柱が立っています。(「八里」は42?。)
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【旧帷子橋跡】 横浜市地域史跡(平成10年11月9日登録)

 江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之内 保土ヶ谷」は特に有名です。
 大橋や新町橋などとも呼ばれていた帷子橋について、『新篇武蔵風土記稿』の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には、「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ高欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられ ます。
 昭和三十九年(1964)七月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王町駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋の跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。

     横浜市教育委員会

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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→が「帷子橋」。現在のモニュメントの橋の架かる方向と微妙に異なっているようです。

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保土ケ谷宿散策案内図。

gooニュース最新政治ニュース一覧

 以前にも載せたことがありますが、「gooニュース」の9時過ぎ。
 朝刊代わりに開く人も多い時間帯。それにあわせるかのような記事一覧。このところ、「goo」として、昨今、まったく変わらない編集方針。

・小渕優子氏抜てきに期待も…自民・幹事長ポスト(読売新聞)
・「50年後に人口1億人」維持へ 政府、総合戦略を策定(朝日新聞)
・内閣改造は“反主流派”を生む可能性が高い(ダイヤモンド・オンライン) 8月28日 08:00
・石破氏、地方創生相の方向 大島氏、復興・環境相で調整 (産経新聞)
・石破氏、強気の理由 安保相を固辞 一転、入閣の方向 (産経新聞)
・石破氏「首相は気力・体力続く限り」(産経新聞)
・公安調査庁、調査官2000人に増員へ 五輪テロ対策強化(産経新聞)
・沖縄知事選 公明、自主投票の公算 仲井真氏と会談、物別れ(産経新聞)
・外務省概算要求 英などに「ジャパンハウス」、500億円上乗せ(産経新聞)
・政府、大熊・双葉町の復興構想 帰還困難区域除染など支援(産経新聞)

 同じ時間に記事の内容詳細を紹介。 
 これだけ徹底しているのは、すごい。読者のニーズに合わせているのか、または世論誘導か?
 「産経」新聞などは、イシハラ支配下にあった都庁内の一部の役人くらいしか熱心に読まないと思っていたが・・・。
 産経は、時流に乗って、今、威勢がいいのですね。

 ※ほぼ同時間帯での「Googleニュース」は、以下の通り。

・週刊文春の広告、朝日新聞社が掲載断る(朝日新聞) ‎
・藤井市長、語らず 美濃加茂市議会、事件追及相次ぐ(岐阜新聞)‎
・小渕優子氏抜てきに期待も…自民・幹事長ポスト (読売新聞)
・安倍首相:石破氏処遇に苦慮「総務相兼創生担当相」案浮上(毎日新聞)
・沖縄振興概算要求、過去最高の3794億円(読売新聞)‎

古東海道(旧古町橋)〜JR「保土ケ谷」駅西口(保土ケ谷宿。その3。)


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安藤広重保土ケ谷宿・「新町橋」付近。(神明社HPより)

 もっと昔の東海道はもう少し西寄りの山側をとっていたという。「古東海道」。
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「旧古町橋」跡。帷子川に架かっていた橋。今の相鉄天王町駅南にある旧「帷子橋」は、「新町橋」とも言われていた。街並みを古町から少し東に移し、新町へと東海道の道筋を変化させた、と思われる。

歴史の道【旧古町橋跡】
《江戸時代初期の東海道》
 現在知られている「旧東海道」は、慶長6年(1601)に保土ヶ谷宿が成立した当時のものではなく、慶安元年(1648)に竣工されたもので、それまでは追分(宮田町1丁目)から上方方面の東海道はここを通っていました。 現在、追分から神明社あたりまでの道筋は判明していますが、そこから境木までの道筋には諸説あります。
《古町通》
 このあたりには江戸初期まで屋敷や寺が多くありましたが、新道の造成に伴い屋敷は新道沿いに移され、新しい街並みを形成しました。ここから追分へ至る道は「新町」(現:岩間町、帷子町)に対比して「古町通」と呼ばれ、元禄年間の書物には「古町通屋敷跡」の字(あざ)が見られます。
《旧古町橋》
 この場所には江戸時代初期の東海道が帷子川をわたる「古町橋」がありました。慶安年間の新道の開通にともなって架けられた旧帷子橋は、これに対応して、「新町橋」と呼ばれていました。また、かねてから暴れ川として氾濫を繰り返していた帷子川の改修が昭和38年(1963)に決定され、帷子川の流路は北側に変更されました。それにともない、現在の古町橋は昭和41年(1966)に、ここから約120メートル北に架設されています。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

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この絵図では、すでに東海道は現在の通りの道筋になっていて、「古町橋」は、「神明社」の参道になっているようだ。

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その付近から古東海道の南方向を望む。南に「神明社」の大きな敷地がある。

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「帷子川」旧流路跡。旧帷子橋(新町橋)から西の道路。

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「古東海道」右奥が「神明社」。正面遠くに小さな祠。

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祠の脇にある道標「古東海道」と記されて、交差する道の道標には「相州道」とある。
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「古町橋」。赤い直線が「東海道」。その東にある川が「今井川」。


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「環状1号」線が旧東海道。しばらくJR「保土ケ谷駅」付近までは広い道路に沿って進む。宿場としておそらく多くの店などが並んでいたと思われるが、道路の拡幅などによって現在はその面影はない。

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「大門通り」交差点。西の山側は、一帯が寺町になっている。

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今井川。東海道(現・「環状1号」)に沿って南西に向かう。1880年代の頃の水路とほとんど変わらない。

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街道筋で見かけた古い面影を残す家屋。表通りには、この一軒くらいしか残ってないか?

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旧中橋跡。

歴史の道【旧中橋跡】
《今井川の改修》
 かつて今井川はここで宿場を横切っており、「中橋」が架けられていました。その川筋は慶安元年(1648年)に新しい保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。しかし、その流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することになりましたが、なかなか改善されませんでした。
 しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852年)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の借用を代官に陳情し、認められるとただちに現在の川筋に改修されました。
《保土ヶ谷宿と品川台場建設》
 今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上することを申出、3000立坪(約18,000m3)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

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「環状1号」をしばらく進むと、右の道が旧東海道保土ケ谷宿の中心部へ。左は、「保土ヶ谷駅」西口方向。

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来た道を振り返る。

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品川宿や川崎宿で見てきたとほぼ同じ道幅の旧東海道。

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1880年代のようす(「同」より)。

旧東海道らしい道。そして、地名「ホト」「ホド」・・・。(保土ケ谷宿。その4。)

 ここに来るまで見てきた旧東海道沿いの「松原商店街」や「相鉄天王町」駅の人通りもあって賑やかな雰囲気と違って、かつての宿場らしい街並みを期待すると少しがっかり。商店も少なく、道路沿いは、マンションなどが建ち並んでいます。

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振り返って「環状1号」を望む。

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「宿場まつり」出店募集のポスターがあちこちに貼られ、町おこしの計画が。

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宿場らしく当時あったところに記念碑がたてられています。ここは、「助郷会所」跡。
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自販機の壁面。なかなか親切な解説。


歴史の旅【助郷会所跡】
 助郷村々の人馬を手配するため設けられたのが助郷会所です。

自販機の解説文

 各助郷村の代表はここに出勤して問屋場の指示に対応するとともに、村が手配した人馬が不公平な割り当てを受けたり、不当に使用されないよう監視する場所でもありました。

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「問屋場跡」。

歴史の道【問屋場跡】

問屋場

 宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。宿場ではこの業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていました。問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。

助郷

 宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定された村を助郷村といいます。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀後半頃に次第に制度化されていきました。享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は全部でおよそ40か村、現在の保土ヶ谷区のみならず、旭・西・中・南・港南・磯子・戸塚等の各区域に及びました。こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。

高札場

 高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

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「高札場跡」。

歴史の道【高札場跡】
 宝暦十三年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅二間半(約四.五メートル)高さ一丈(約三メートル)の規模でした。
 宿場の高札場には一般の法令等に関するものだけでなく、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲出されました。

 「保土ケ谷税務署」の案内用の大きな看板の脇に立っています。

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「金沢横丁道標4基」。
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解説板。

「金沢横町道標四基」 横浜市地域有形民俗文化財(平成元年12月25日登録)

 この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれました。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在残っています。
 四基の道標は、それぞれ次のとおりです(右側から番号を付す)。

?円海山之道[天明三年(1783)建立]
 左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。
 建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門です。円海山は「峯のお灸」で有名でした。
?かなさわ、かまくら道[天和二年(1682)建立]
 左面に「ぐめうし道」と刻されています。
?杉田道[文化十一年(1814)建立]
 正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。
 句碑を兼ねた道標は珍しく、また作者の其爪は江戸の人で河東節の家元です。
?富岡山芋大明神社の道[弘化二年(1845)建立]
 建立者は柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏。
 芋明神は、富岡の長昌寺で、ほうそうの守り神として信仰を集めていました。
     平成五年三月 横浜市教育委員会

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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→のところ。
 この道を東南にたどると、金沢、横浜へ通じる道となっている。

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 山越えをして「金沢道」となり、南西に向かうと「弘明寺」(ぐめうし)を過ぎ、現「上大岡駅」方面になる。

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横丁を入ったところにある「保土ケ谷宿番所」○に「程」の字が。「保土」が「程」に。「程が谷」がかつての表記。

 「程が谷」のいわれ
 地域に神社の所領として置かれた荘園の一種である「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」から転訛したという説。

 鎌倉時代、当地を支配していた畠山重忠一族の榛谷重朝(はんがやしげとも)が、所領を伊勢神宮に寄進して土地管理を委ねられていた。
 この伊勢神宮の荘園は榛谷御厨(はんがやみくりや)と呼ばれ、「はんがや」が「ほどがや」へ転訛したという説がある。かつては程ヶ谷のほか、程谷、ほどが谷、などとも書いた。
 1601年(慶長6年)徳川家康が定めた東海道の駅制により東海道五十三次程ヶ谷宿が成立し、江戸時代は宿場町として発展した。

 一方で、凹地などの窪んだ所という意味の古語である「ホト」のような谷という説。

 日本各地に「ホト」「ホド」の音を持つ様々な表記の地名が残っているが、民俗学者の柳田國男の主張する説によれば、これらは女性器に似た形の地形だったり、女性器に似た特質(湿地帯)を持っていたり、陰ができる土地(「陰」部から)などの特徴から名付けられたとされる。アイヌ語で川や河口を生殖器になぞらえるのと類似している。
 「ホト」「ホド」の音を持つ地名は、安寧天皇陵の名前の由来となった地名「美保登」(みほと:奈良県)などがあったが、更に和銅6年(西暦713年)に発令された諸国郡郷名著好字令(全国の地名を好ましい意味の漢字で書きなさいという命令)などを経ることで表記が変わっていき、一例を示すと
 保戸 保戸沢(ほどさわ:青森県)、保戸野(ほどの:秋田県)、保戸島(ほとじま:岐阜県、大分県)保土 保土塚(ほどづか:宮城県)、保土沢(ほどさわ:岩手県、静岡県)、保土原(ほどはら:福島県)、保土ヶ谷(ほどがや:神奈川県、程ヶ谷駅として開業した駅がこの名に変更されたため区名などがこちらで定着)程 程森(ほどもり:青森県)、程田(ほどた:福島県)、程島(ほどじま:新潟県、栃木県)、程原(ほどわら:島根県、山口県)、程ヶ谷(ほどがや:神奈川県(≒保土ヶ谷))
のような形で全国に散見される。
 特に、ここ「程(保土)ヶ谷」は、柳田國男が「ほどがや」の「ほど」は「ホト」に由来するいう説をとった際の有名な例。(以上、「Wikipedia」より)

 ※JR「保土ケ谷」駅は、1931年(昭和6年)10月1日に「程が谷」から、保土ヶ谷駅に改称された。

 実際に歩いてみると特に西に急角度で折れた辺りの街道の両側には山が迫って狭間のようになっている。もともとはこの辺りの地名ではなかったか。実は、「ホト」が女性器を意味することは周知のことなので、多分「保土ケ谷」の由来はかくありなん、と思った次第。ただ、「ホド」にわざわざ「谷」を付する必然性があったのか、多少気になるところではある。
 一方の「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」から転じたというのは、かなり無理筋の印象。地形から来ているとみた方が正しいと思う。

本陣跡。一里塚。・・・。(保土ケ谷宿。その5。)

 直線道路をしばらく進むと、JR東海道線の踏切。
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「東海道踏切」。


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明治後期(「今昔マップ」より)。「元町」の地名があるようにこの辺りがもともとの「保土ケ谷」。

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現代。

 現在、この付近の東海道筋の住居表示は「帷子町」「神戸町」等。「保土ケ谷宿」は、「元町」→(「古町」)→「新町」と北に広がっていったと思われる。
 ちなみに「元町」と表記してある付近では、標高約16メートル、北側は高いところで約50メートル、南側は40メートルとなって、まさに「狭間」である。
 北から進んできた東海道は、「本陣」付近で、西にほぼ90度右折し、今井川に沿って進む。今の「国道1号線」、「東海道本線」も同じルート。

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「本陣跡」から北を望む。前の通りは「国道1号線」。

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「本陣跡」。

歴史の道【本陣跡】
 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の33軒の脇本陣がありました。
     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

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「本陣門」。

 この辺りから「保土ケ谷宿」の核心部で、「脇本陣」大金子屋、藤屋、水屋などの跡碑が置かれている。
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歴史の道【脇本陣(藤屋)跡】
 天保年間の藤屋(四郎兵衛)の規模
 建坪119坪(約293?) 間口6間半(約11.8m) 奥行18間(約32.7m) 室数14 玄関付
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

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歴史の道【脇本陣(水屋)跡】
 天保年間の水屋(与右衛門)の規模
 建坪128坪(約423?) 間口8間(約14.5m) 奥行16間(約29m) 室数14 玄関門構付
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

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歴史の道【保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設】
本陣・脇本陣

 公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。

茶屋本陣

 正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。

旅籠屋

 はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。

茶屋

 往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所


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歴史の道 【旅籠屋(本金子屋)跡】
 天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模
 建坪79坪(約261?) 間口7間(約12.7m) 奥行11間半(約20.9m) 室数13
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所
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格調の高い構え。
 
 国道を渡った右側には「茶屋本陣跡」碑。

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「今井川」。国道(東海道)に接する付近のようす。

 その先の川沿いの緑地にあるのが、「一里塚跡・上方見附跡」。
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歴史の道 

一里塚跡
 街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。

上方見附跡
 保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。
     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

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「東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚」説明板。

保土ヶ谷宿の松並木
 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されてきました。
 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。
 この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に 松などの木々数十本を植えました。
保土ヶ谷宿の一里塚
 松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4Km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられました。保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から8番目に位置し、この附近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。
 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方)」の相当する大きさの 塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。
     平成19年3月 東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会 横浜市保土ヶ谷区役所

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東海道分間延絵図(1800年頃)

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榎。Image may be NSFW.
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松並木。

 こうして「保土ケ谷2丁目」から横浜駅西口行きのバスに乗り、戻ってきました。歩いた道筋を遠目で確認しながらのバスでした。
 「品川」「川崎」「神奈川」「程(保土)ケ谷」と、これでやっと4宿。次から武蔵国から相模国へと移る。

「水戸街道・四つ木陸橋」での逆走車との遭遇。

実録・高速道で逆走車と直面した! 生死を分けた5つのポイントとは!?(産経新聞) - goo ニュース

 もう何年か前、明るくなりはじめた早朝(ライトを点灯するほどではなかった)。水戸街道と平和橋通りとの「四つ木陸橋」の長い上り(「日本橋」方向)にさしかかった時、二車線(中央の車線の色は車線変更禁止の黄色)の右側(私の車の右側前方)を走っていた車が突然、私が走っている左車線に移った! おいおいルール違反だぞ、と。上りなのでスピードは出てはいなかったので追突の心配はなかったが。

 すると、陸橋の頂の向こうから走ってくる車があった。逆走車。
 こちらは左側車線だったので難を逃れた。もし右側を走っていたら正面衝突、間違いなし! なぜなら、車線変更禁止を忠実に守り、自分はその車のように車線変更することはなかっただろうから。
 陸橋上は低く厚い壁を挟んで、上り・下り(「水戸」方向)二車線。幸い早朝で、右側車線を通る車もなく、他の車を巻き込むようなことはなかった。

 すれ違いざまに走り過ぎた一瞬、逆走車の、若そうな運転手の顔は引きつっていた。何しろ、壁を挟んで自分が本来進むべき道路が見えるのだから。
 こちらもびっくり、少しスピードダウンしてバックミラー越しに見ると、その車は陸橋を下りて、あわててすぐ右の路地に曲がった。車がいたらさぞかし驚いたことだろう。・・・

 それから何度もそこを通る。
 逆走車。おそらく下り線を行くつもりが、「四つ木陸橋」の上り車線にどうして誤って入ってしまったのか? 腑に落ちない。自転車で通った時、じっくり観察しても、まず紛れ込むことはありえない路面標示。京成「四ツ木駅」方向からの道で来たとしか考えられないが、道路の流れからも普通は、間違いようがないはず。

 いまだに怖い、それでいて、表現はおかしいが、夢のような不思議な体験でした。
 

保土ケ谷一里塚〜権太坂。・・・(戸塚宿その1。)

 「保土ケ谷一里塚跡・上方見附跡」(保土ケ谷2丁目)から「権太坂」へと向かいます。案内図に沿って、国道1号線から脇道に入ります。

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旧東海道。激しく車が行き来する国道1号線とJR東海道線に挟まれた道路。静かな住宅街。
 この途中に、「元町橋跡」の標柱が立っているらしいが、見落としてしまった。バス停「元町橋」近く?
 名のごとく、この辺りが、「元・保土ケ谷」地区。
     
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「元町ガード」という標識のあるT字路を左折して、「今井川」に架かる現「元町橋」を渡り、しばらく行き右折すると、「権太坂」に。
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い○が現在の「元町ガード」交差点。

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「旧東海道・権太坂改修記念碑」。坂を登りはじめてすぐ左。

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けっこう急な上り。ママチャリのご婦人は自転車を引いて上っていました。下りは危ないほどスピードが出て若者が通りすぎて行きました。

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前に見えるのが、「保土ヶ谷バイパス」の「新保土ヶ谷IC」と「狩場ICとの間」を渡る陸橋。
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保土ヶ谷バイパスは丘陵地帯を切り開いて造った道路。

 「権太坂」は急坂の難所であったため、1894(明治27)年には、新しい権太坂経由の幅の広い東海道が開通している。
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国道1号線。「権太坂上」交差点付近。

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明治末期ころ(「今昔マップ」より)↓が旧東海道、赤い線が新東海道。

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現代(「同」より)。

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竹藪。

 「横浜光陵高校」の石垣の角に「権太坂の石柱と説明板」が立っていました。
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横浜市地域史跡(平成15年11月4日登録)「権太坂」
 この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい登り坂でした。
 日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。
 「新編武蔵風土記稿」に、名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、とあります。また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。
 旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所ともなりました。
     平成十六年三月 横浜市教育委員会

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振り返って望む。左手が「光陵高校」。
 もともとこの高校、横国大の付属国立高校として計画されたようです。県立の進学校。 

 ところで、校名の由来:
 山手分校時代の学生・職員達によって命名された。県立高校で地名に由来しない校名が付けられたのは1960年代当時は非常に珍しかった。権太坂に因んだ「権太坂高等学校」という校名も候補の一つであったが、女子生徒陣の猛反対に遭い実現しなかった。(以上、「Wikipedia」より)

 「女子生徒陣の猛反対」というのが、興味深い。「陣」というから集団で猛反対したのでしょうか? ほぼ真向かいには、「権太坂小学校」があります。

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広い敷地をもつ学校。

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下校中の女生徒。最寄りの交通手段は坂上か坂下のバス路線? 毎日この坂を上り下りするだけで、体力も精神力もつきそう。

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「歴史の道 権太坂」の説明板。

歴史の道【権太坂】
 権太坂はかつては今より勾配もきつい相当な急坂で、江戸から上方へ上る旅人が初めて出会う難所として知られていました。松並木が続く景色もよかったため多くの浮世絵にも描かれています。しかし、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)の鉄道開通により 旧道は通行量も減って道幅も狭くなりました。権太坂にはもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代に本格的に道が改修されて、宅地開発が進むまで往時の街道のおもかげを残していました。

「権太坂」の名前の由来に2つの説

その1 「老人の返事」説
 ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名をたずねたところ、自分の名前をきかれたと思いこみ、「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になったということです。
その2 「本当は権左坂」説
 昔、権左衛門という人が代官の指図によりひらいてできた坂道を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのころか「権太坂」と呼ばれるようになったということです。
さて、あなたはどちらを信じますか?(調査協力/権太坂小学校 平成15年度卒業生)
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

 しばらく緩やかな坂道を10分ほど進むと、丁字路に突き当たる。その正面に「境木中学校・境木小学校」がある。右角には「境木中学校前バス停・折り返し場」。
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「投込塚之跡」の碑。
 T字路を左折ししばらく行くと、投込塚の碑があり、碑文の他に庚申塔など三基の石碑が建っている。

 投込塚之跡

 此の地は権太坂投込塚と称し、旧東海道品濃坂につぐ難所であって、往時旅人の行倒れせし者多く、之を埋葬せる処也。偶々当地区開発に当り、多数の白骨を発掘現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て之が菩提を弔ひしもの也
      昭和三十九年四月建之

 「碑」の前の通りをそのまま進むと、新道(「国道1号線」)の「権太坂上」という標識の交差点に出る。左折して新道を進むと、「保土ケ谷」方向になる。


境木。焼餅坂。品濃一里塚。・・・(戸塚。その2。)


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旧東海道。東戸塚駅方向に進む。

 少し行くと、右手に大きな屋敷が見えてくる。
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向かいの広場にある「境木立場跡」の説明板。

歴史の道 【境木立場跡】
立場茶屋
 宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

 「保土ケ谷 初代広重」、「『江戸名所図会・境木』を着色模写した「横浜往古絵巻」、「牡丹もち」の画が添えられている。正面の立派な門構えの屋敷が「若林家」。

 境木立場跡のすぐ先に「境木地蔵」がある。
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 武蔵国と相模国の国境(現在は保土ヶ谷区と戸塚区の区境)になっている。
 木柱の正面に『武相国境之木』、左面に『↑これより 武蔵国 保土ヶ谷 一里』、右面に『↓これより 相模国 戸塚宿 一里九丁』と書かれている。
 台座には「日本橋九里九丁」、「京都百十七里」とあり、、台座の周りには、日本橋から三条大橋までの宿場名がずらり。

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「歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺案内図」。「追分」から「品濃一里塚」までの旧東海道の道のりが現在の地図と古地図と照らし合わせながら説明されている。

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正面を入った細い道が旧東海道」。「境木地蔵尊前交差点」付近。

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道標。「右 環状二号線」、「左 東海道」とある。

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「焼餅坂」の説明板。

 旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。
 武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。
 このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています。

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「旧東海道」の説明板。

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坂の途中にある「焼餅坂」の説明板。

「焼餅坂」
 焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160メートル)の坂道でした。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたので、「焼餅坂と名づけられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちざか)とも呼ばれています。
 戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。

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 焼餅坂を下りきり、小さな橋を渡ると上り坂となり、まもなく両側にこんもりした森が現れる。
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説明板。

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標柱「品濃一里塚」と「←戸塚 →保土ケ谷」と白ペンキで書かれた石の道標。

右塚の手前から右の細道を登ると塚の裏側が「品農一里塚公園」になっていて、塚の頂上を見ることが出来る。
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 頂上には広場があり、特に解説等はなし。眼下は鬱蒼とした木々で覆われ、視界はよくなかったが。  
 もちろん、当時の旅人は塚の上に上って辺りを見回すなんてことは出来なかったはず。

「品農一里塚」
・・・一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
 ここ品農の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品農村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていた ようです。
 このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和41年に県の史跡に指定されました。 
    平成7年6月 横浜市教育委員会

 「保土ケ谷2丁目」にある「一里塚」は、日本橋から8番目の「一里塚」だったので、距離にして約4?ということに。
 日本橋を出て保土ケ谷までは海沿いのさほど急勾配の道はなかった。保土ケ谷宿からのこの道は、「権太坂」「焼餅坂」などの難所続き。さぞかし昔の旅人も苦労したに違いない。今でも「箱根駅伝」では、最初の難関の上り(もちろん、新道だが)。
 10,11番目の「一里塚」の跡は、戸塚の宿にあるので、そこまでは行ってみよう。

 しかし、足も疲れてきたので(理由は後ほど)、途中省略。戸塚宿の東のはずれ、「江戸方見附跡」から先を続けます。

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明治末のようす(「今昔マップ」より)。赤い→が「旧東海道」、青い→が「新東海道」。「境木」付近の標高は約70メートル。そこから山道を上り下りしながら「戸塚宿」に向かう。約40メートルのアップダウンの道のり。

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1980年代のようす。宅地造成・開発が進み、旧道は廃れ、定かでなくなる。

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現在のようす。

江戸方見附跡。吉田(戸塚)一里塚跡。・・・(戸塚宿。その3。)

 さて、「戸塚宿」の北東のはずれ。
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「江戸方見附跡」碑。ファミレス「フォルクス」の前に建っている。

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「旧東海道・江戸方見付跡」

 江戸時代に、戸塚の宿で町並みを形成し、二十町十九間を宿内とし、その両端に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。
 貴賓の送迎はこれから行わ(は)れ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。

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 見付とは、宿場の出入り口のことです。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。 旧東海道の宿場に設けられた見付は、宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようです。参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えました。
 (戸塚区役所)

 写真を撮っていると、食事をしている人たちがこちらを見ている。お客の顔が写ってもまずいし、ちょっと撮影には逡巡する感じ。

※ 戸塚宿

 相模国鎌倉郡(今の神奈川県横浜市戸塚区)にあった。日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模であった。当初、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であったが、戸塚にも宿屋が増え、客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対を押し切り、幕府公認となった。
 吉田町、戸塚町、矢部町の三町からなる。見附は、現在の吉田町ダイエー前と戸塚町大坂下にあり、品濃町と原宿町に一里塚が残る。大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝であった。幕末の黒船来航の際には、避難民が逃げてきたといわれている。
 (以上「Wikipedia」より)

 戸塚宿の成立は、慶長9(1604)年で、隣宿である藤沢、保土ケ谷の宿が成立した慶長6(1601)年に遅れること3年でした。日本橋から数えて5番目の宿場町で、起点の日本橋からは10里半(約42km)の距離にあり、朝江戸を発った当時の旅人の一番目の宿泊地として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せていました。
 戸塚区内では旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7kmあります。その中で戸塚宿は、2つの見附跡に挟まれた約2.3kmの範囲とされており、今も戸塚区の中心地として賑わっています。
(以上、Image may be NSFW.
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HPより)

 早朝に日本橋を出立した旅人が約10時間近く歩いてくると、この宿場が一泊目。道中には「多摩川」の渡し、権太坂などけっこう難儀しそうなところを通過してここまでやってくることに。

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「戸塚宿」方向を望む。

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「元町」交差点。

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「吉田一里塚跡」。ここが、10番目の一里塚。

 吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から十番目の一里塚で、日本橋から約40?になります。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を渡ってあともう一息といった場所です。

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「戸塚一里塚跡」。

 旧東海道の一里塚は江戸日本橋から10里で、慶長9年、街道の附属施設として1里ごとに造られたが、国道拡幅により遺跡保存となった。
     戸塚観光協会
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沿道には古い家並みも残っている。

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足下には、箱根駅伝のモニュメントがはめ込まれている。現在は、不動橋交差点から「バイパス」を走る。

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「柏尾川」に架かる「吉田大橋」。この橋を渡ると「戸塚宿」の中心部に入っていく。

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「安藤広重の東海道五拾三次之内・戸塚『元町別道』」。
 程ガ谷より2里9町。日本橋を早朝に旅立ち,品川,川崎とあまり急がずあるけば,このあたりで旅の最初の夜がおとずれる。広重のこの図は,現在の東海道線戸塚駅より東へ7,8町いったところで,この‘こめや’の看板は現在も保存されている。図の中央に石の道路標があり,左鎌倉道とあるから,このあたりから鎌倉へ通ずる道があったのであろう。この図には異版があり,ウマからおりようとしている旅人が,そこでは逆にウマに乗る動作に変えられている。これはあきらかに後摺で,ウマからおりる旅人を描いたものが初版である。
(「東海道五十三次〜五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)

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1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→が「吉田(大)橋」。上の説明文で「左鎌倉道」とあるのは、川沿いに南に伸びる道と思われる。

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「柏尾川」。

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橋の欄干にはめ込まれた浮世絵。

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 吉田大橋を渡れば戸塚駅の大踏切に到着する。かつては開かずの踏切として有名だった大踏切を越える歩道橋は2014(平成26)年1月に完成した。

澤邊本陣。芭蕉句碑。上方見附跡。(戸塚宿。その4。)

にぎやかな「戸塚」駅西口方面へ。

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「東口」まで、旧東海道の道筋らしい雰囲気がまだ残っています。

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完成したばかりの歩道橋。

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戸塚駅西口側を望む。駅の東西を結ぶ歩道橋の完成で駅周辺の再開発も加速するはず。

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駅前通りにある「内田本陣跡」碑。

旧東海道【内田本陣跡】
 本陣とは、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設です。この辺りに、戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ内田本陣がありました。内田本陣は間口十八間(三十二・八m)・奥行十四間(二十五・五m)で、畳数は百五十二畳もあったということです。

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旧東海道。

 「本陣」の他、戸塚宿には3軒の脇本陣がありました。

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「澤邊本陣跡」。
 「戸塚消防署」手前の民家の前。この民家の表札は澤邊となっていて、現在も同じ場所に澤邊家が続いているようです。

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「旧東海道・澤邊本陣跡」。

 澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。弘治2(1556)年に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。
     戸塚区役所

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説明板。
 戸塚が東海道の宿場になったのは慶長9年(1604年)11月のことであった。澤邊本陣の初祖 澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者である。
 本陣とは公郷、門跡、大名などの宿泊する公の宿のことをいう(云ふ)。
     戸塚観光協会

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「明治天皇戸塚行在所阯」碑。

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道路を挟んで真向かいにある「おもてなし館・きじま本陣」。

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 おもてなし館 きじま本陣は「戸塚宿」ゆかりの地に、東海道五十三次をコンセプトにつくったお店です。
「品川」のお部屋から始まり、「大磯」「小田原」を通り終点「京の間」まで続く各地の宿場町の名を冠し、趣向をこらしたお部屋をしつらえております。
四季折々のお祝い事や、法事など改まったお席から、家族の記念日などにも、大切な人と心ゆくまでゆったりくつろげるお店です。
(以上、HPより)

 立地条件は、お見事! 立ち寄る機会は、まずないと思いますが。

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その店先から「澤邊本陣」跡を望む。左手が「戸塚消防署」。

 道はほぼ南に進んでいきます。 
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 道が少し西に曲がっていく辺りにあるのが、「富塚八幡宮」。
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「旧東海道・冨塚八幡宮」。
 
 戸塚宿の総鎮守で祭神は誉田別命(応神天皇)と冨属彦命の二柱です。源頼義・義家父子がここに野営し夢で応神天皇の神託を受け戦に勝利した事に感謝し延久4(1072)年に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。
 山頂の古墳は冨属彦命の古墳とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが「戸塚」の地名の起こりとも言われています。境内には松尾芭蕉の句碑もあります。
     戸塚区役所

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「芭蕉句碑」。

 「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(かつお)  芭蕉翁」

 当時鎌倉で水揚げされた初鰹は戸塚を通り江戸に運ばれました。嘉永2年、当地の俳人達によって戸塚にちなんだこの句の碑が建てられました(「解説板」)。

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「上方見付跡」(右手のもの)。四角い石積の上に楓が植えられている。

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「同」(左手のもの)。昔に因んで、「松」が植えられている。「サイゼリア」駐車場脇。

旧東海道 【上方見付跡】
 江戸方見付から、約2・2?の距離にある戸塚宿京方の出入口です。 現在は道の両側に1・5mほどの石の囲いがあり、昔と同じように京に向って左に松の木、右に楓の木が植えられています。ここから京方は数々の浮世絵の背景に登場する長大な大坂の上りが続いています。
     戸塚区役所

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「安藤広重 戸宿塚」(銘板)。

 この銘板の浮世絵は、嘉永(1848〜1853)時代に安藤広重が東海道五十三次の戸塚宿を描いたものです。宿場町として栄えていた頃の様子がうかがえます。
     平成元年4月 横浜市戸塚区役所、戸塚土木事務所

 この絵は、「一番坂」と呼ばれた現在の大坂台付近か。

 いよいよ「大坂」の長い上りにさしかかる。
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「八幡社」とあるのは、「富塚八幡宮」。「親縁寺」は、現在も同じ場所にある。右上の「東海道」から東に分かれる道は、「鎌倉」への道(現「八坂神社前」交差点)。

大坂松並木。お軽勘平道行の場。原宿一里塚跡。・・・(戸塚宿。その5。)


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明治末頃のようす(「今昔マップ」より)。まだ戸塚市街地を迂回する「バイパス」(新道)は出来ていない。松並木が続く坂道であったことがわかる。

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昭和40年代。バイパス(赤い線)が完成。

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現在。上の○から下の○までの区間に上下線分離の新道が完成している。↓が「大坂松並木」付近。

 ※お正月恒例の「箱根駅伝」戸塚中継所(往路)は、新道の「戸塚警察署」の南付近になる(↓の先端の左下付近)。復路はそれよりもう少し南の地点。

 「大坂」。坂下付近(上方辺り)の標高が約15メートル、坂上が約70メートルとけっこうだらだらと長く上る坂。坂の途中、「大坂台信号」手前の右側に古碑群がある。

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「大坂の古碑群」

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来た道を振り返る。

 二又に分かれた道の左側の道を登り切ると、国道1号線「バイパス」と合流し、そこからは、中央分離帯をはさんで車の往来の激しい、上下線分離の「国道1号線(東海道)」となる。

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「大坂松並木」。

旧東海道【大坂松並木】
 大坂では天気の良い日に松並木から素晴しい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。昭和7(1932)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は10mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです。
    戸塚区役所

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中央分離帯の松並木。他の木も混じっているが。

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東側の眺望。西側(富士・箱根側)は見通しは悪いが、東は開けて、眼下に街並み、山並みがが見下ろせる。

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                                  「お軽勘平戸塚山中道行の場」碑。
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「碑石の由緒」。

♪落人も見るかや野辺に若草の・・・
 は、清元の名曲道行旅路の花聟の語り出しとして江戸以来人口に膾炙されている(の)が、お軽・勘平の道行の場

♪こゝは戸塚の石高道・・・ の旧跡という
 この曲は天保四年三月、江戸河原崎座の初演以来百四十数星霜を経てなお上演を重ね、戸塚の名は墨絵の夜の富士とともに

♪ほんの旅寝の仮枕嬉しい・・・
 舞台の華やかな思い出を多くの人の脳裡に深くきざみこんでいるお軽・勘平の道行は戯曲上の設定であれ史実にまごうほど戸塚の地名とは離れぬ仲

♪かわいかわいの夫婦づれ・・・
 のゆかりはつきぬ道行の名勝に建碑の由緒を記す
     昭和四十六年七月 文学博士 松本亀松 撰

 この「碑文」、文章としてはよく練られていない気もするが、『仮名手本忠臣蔵』のお軽勘平の道行の場にちなんで建てられたもの。当時のこの付近の風情は、「落人」にふさわしい道筋ではあった。

「道行旅路の花婿」 

 腰元お軽と逢引していて殿中で刃傷沙汰を起こした主君の大事に居合わせることができなかった早野勘平が、お軽の実家のある山崎へと、お軽とともに落ちのびてゆくところに、鷺坂伴内が手下を連れやってきて両人にからむという筋立て。

 歌舞伎所作事の代表的な演目として知られ、現在『仮名手本忠臣蔵』が通しで上演される際には、四段目のあとに上演される
 「落人も、見るかや野辺に若草の、すすき尾花はなけれども…」という清元の語り出しで始まる。
 本舞台で浅葱幕を切って落とすと一面の菜の花の春景色となり、遠くに富士が見えるのを背景に、お軽と勘平が立っている。お軽は矢絣に縦やの字帯の御殿女中のこしらえ、勘平は黒の紋付の着流しに東からげで、場所は戸塚山中という設定。
 「落人も…」の浄瑠璃でよろしく振りあって、勘平はしばしここで旅の疲れを休めようとお軽に言い、やがて二人は将来のことを語りあう。勘平が武士としての不心得、主君塩冶判官へ申しわけなさのあまり、ここで切腹すべく刀を抜こうとすると、お軽は刀を取り上げ、「それその時のうろたえ者には誰がした」と自分にも責めはある、短気をおこさずともかくも自分の在所にまでいっしょに落ちのびてくれ、あなたを亭主として充分暮しのたつようにしてみせるとかき口説く。この口説きがひとつの見せどころ、聞きどころである。
 このまま腹を切ればわたしも生きておれぬ、それでは人は勘平は不義の心中をしたと言うだろうというお軽の言葉に、生きていればお詫びのかなう日もきっとこようと勘平も気をとりなおし、道を急ぐことにする。折からそこへ高師直の家臣でかねてよりお軽に横恋慕する鷺坂伴内が、襦袢ひとつに襷がけ、鉢巻の格好で手勢(花四天)を引きつれ登場し、お軽をさらってゆこうとする。だが勘平の武勇にはかなうべくもなく、伴内たちは散々にやっつけられる。「所作ダテ」と呼ばれるはなやかな場面である。
 「塒(ねぐら)を離れ鳴く烏、可愛い可愛いの夫婦(めおと)づれ、先は急げど心はあとへ、お家の安否如何ぞと、案じゆくこそ道理なれ」の浄瑠璃で勘平はお軽を連れ、花道にかかる。そこへ両人をなおも追おうとする伴内が、花道ツケ際で引かれてくる幕に阻まれ、そのまま上手側に押されて引っ込む。この演目に限り幕が舞台下手から上手に向かって引かれ(通常は逆)、いつの間にか伴内は客席側へ出た幕引きになってしまうというめずらしい演出で、そのあと幕外で勘平がお軽を連れてよろしく向う揚幕へと入る。
(以上、「Wikipedia」参照)

 このあと、五段目「山崎街道鉄砲渡しの場(二つ玉の場)」六段目「与一兵衛内勘平腹切の場」と勘平にかかわる演目が続く。このへんは、『仮名手本忠臣蔵』の中でも面白いお話(演目)です。
 かつて、改築前の「歌舞伎座」で「通し狂言」として観た記憶があります。

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「日本橋から46?」という標識。国道1号線「現東海道」での距離ですが。

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街道沿いの古木。

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「原宿一里塚跡」。

旧東海道【原宿一里塚跡】
 江戸より十一番目の一里塚で、吹上の一里塚とも言われています。当時は松の木が植えられていました。明治9(1876)年に里程標の杭をたてるとき、一里塚は不要となったので取り払われました。

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崖の上にある「原宿一里塚跡」説明板。かなり古く、見上げるような位置。

 一里塚は、慶長9年(1604)二月、江戸幕府が大久保石見守長安を総奉行に任命し、東海道の整備にあたらせたとき構築したもので、一里(4キロ)ごとに街道の両側に円形の塚を築き、距離をしめした。 また、塚の上には榎を植えて木陰をつくり、旅人の休憩にも便宜をあたえた。
 原宿の一里塚は、起点の江戸日本橋から測って11里目にあたっている。塚の付近に茶店などがあったので、原宿と呼ばれるようになったという。
 戸塚区内には、品濃、吉田、原宿の三か所にあったが、品濃町のものは道を隔てて二基、ほぼ原型のまま当時のすがたを残しているもので、神奈川県の史跡に指定されている。当地原宿にあったものは、明治9年(1876)10月、里程標の杭をたてるとき一里塚は事実上不要となったので取り払われてしまい、現存していないが、一里山の名を残してその位置を示しているのが現在地である。
     昭和48年11月 戸塚区役所・戸塚観光協会

日本橋から11番目の「一里塚」ということになります。約44?。ここまでの現・東海道の距離とさほど変わらないようです。

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崖の上には、民家があり、こんもりした所は私有地。

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道路の前方には「藤沢」の街並みが見えてくる。

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「浅間神社」。道路の右手にある。境内からは富士山や箱根連山が見えるそうだ。

 今回は、ここまで。

 と、「保土ケ谷宿一里塚」(8番目)から「原宿一里塚」(11番目)までたどったように再構成したが、実際はまるで違っていました。事前調査もせず、地図で確認もせず、行き当たりばったりで出かけたので、行ったり来たり。

 そこで、《当日の実際の行動》

 京急横浜→JR横浜=(東海道線)=戸塚駅(横須賀線に乗ることなど頭になく、熱海行きの電車に乗ったので、「保土ケ谷」駅で下車できず)―(徒歩)―「原宿一里塚跡」=(バス)=戸塚消防署前・「澤邊本陣跡」―(徒歩)―「吉田大橋」・「江戸方見附跡」=(バス)=横浜(「権太坂」を下って行こうとして「横浜」行きに乗った! このバス、「山谷」で「国道1号線」から右折し、「県立こども医療センター」、「井土ヶ谷」などを通るバスで、途中下車出来ず。横浜の港近辺の繁華街をぐるり回ってやっと終着「横浜駅」へ!)。

 もう帰ろうかと思ったが、気を取り直して、横浜=(横須賀線)=東戸塚駅―(徒歩。これもあちこち探し回って)―「境木」―(徒歩)―「品濃一里塚」―(徒歩)―「権太坂」(「境木中」の前の道を左折せず直進したため、今の東海道に出て、「新権太坂」を下るはめに)―(徒歩)―「保土ケ谷二丁目」バス停(当初の徒歩での出発予定地。「保土ケ谷宿一里塚」近く)。

 そこで、再びもう帰ろうかと思ったが、再び気を取り直して、国道1号線との分岐点にある「案内板」にしたがって旧道を歩き、旧「権太坂」へ。
 「保土ケ谷二丁目」―(徒歩)―「権太坂」(結局、「権太坂」を上ることに。もうすでに夕方少し前)―(徒歩)―「境木中」=(バス)=東戸塚駅=(横須賀線)=JR横浜→京急横浜。


※当初の予定(家を出たときの)
 横浜=保土ケ谷→(バス)→「保土ケ谷2丁目」―(徒歩)―「原宿一里塚跡」→(バス)→戸塚=横浜

 つごう、横浜滞在約7時間の周遊でした。知らないということは、恐ろしいことでした。疲れた! 
 やれやれ。ということで、「品濃一里塚」から「江戸方見附跡」間は、省略。

 それでも、「品川」―「川崎」―「神奈川」―「程(保土)ケ谷」―「戸塚」と、都内を含め、現在残っている「旧東海道」をほぼたどってきた、かな。

  

昨日、ほぼ同じ頃の電車に乗っていました。

走行中の電車の窓から飛び降り男性死亡 突然立ち上がり、制止振り切り 横浜(産経新聞) - goo ニュース

 このところ、京急横浜駅を利用している小生。旧東海道宿場巡り。昨日は、藤沢宿。横浜でJRに乗り換えて出かけた。
 この事件があったほぼ同じ頃に通過中だった、と思う。横浜に着いたのが11時少し回った時刻。 
 京急で横浜方面に向かうには、「久里浜」か「三崎口」行き。最近は、「羽田空港」行きが増発されていて、けっこう駅での乗り換えや待ちがある。横浜に行くには、「特快」が便利。実に小気味よいくらいの(ちょっと不安になるくらいの)勢いでスピードを上げて突っ走る。
 ・・・「泉岳寺」―「品川」―「京急蒲田」―「京急川崎」―「横浜」・・・と停車。途中の駅などくそくらえ! 的スピード。路線がほとんど競合するJRと早さを競っているわけではないだろうが、料金面など競争意識はかなりありそうだ。
 男性が乗っていた電車は泉岳寺10:45発の「快特三崎口」行き(昨日、小生はこの電車に乗っていた)か、京成の青砥10:07始発の「快特久里浜」行き、と思われる。ただし、青砥始発はボックス型シートは車両の前後の一部、またはゼロ。大きな長い窓を開けることは出来ないタイプのはず。
 泉岳寺発はボックス型の車両。二人席が多く、前後に4人掛けのシート席があるタイプ。おそらくその席に座っていた男性が突然窓を開けて飛び降りた、と。もちろん、いつもその車両がタイプであるとは思わないが、小生が乗った電車はそうであった。
 あのスピードでばく進していれば、飛び降りたら即死間違いなし。停車駅は限られているから、青砥からの電車なら京成線・都営浅草線内から。泉岳寺発なら4駅しかない、・・・。
 その場に居合わせ、制止しようとした方達も、突然の出来事に一瞬とまどい、驚いたに違いない。

 もし小生がその現場にいたらどういう行動ができただろうか?      

遊行寺坂。一里塚。見附跡。・・・(藤沢宿。その1。)

 今回は、「藤沢宿」。昼過ぎに出かけたので、「茅ヶ崎」までは行けず、途中まで。

 藤沢には、ほとんど縁はない。江ノ島や片瀬海岸には、何度も行ったことがあるが、鎌倉経由、あるいは大船経由。そういう地域が「藤沢市」に属していたとは、初めて知ったしだい。

 住宅・観光・産業・文教都市。全国的に有名な江の島(江ノ島)、片瀬・鵠沼・辻堂海岸を有し観光都市としての性格も併せ持つ「湘南」の中心都市。1940年(昭和15年)市制施行。保健所政令市に指定されており、人口は政令指定都市である横浜・川崎・相模原の各市に次ぎ県内4位(約42万人)である。全国の市では42位。
 藤沢市内の駅では、JR、私鉄(小田急・相鉄・江ノ電)、地下鉄(横浜市営地下鉄)、モノレール(湘南モノレール)の駅が存在し、比較的交通の利便性が高い事から、東京・横浜の通勤・通学圏として発展し、湘南海岸の温暖且つ穏やかな気候を求める人々やサーフィンなどマリンスポーツ愛好者をはじめとして、良好な自然・住・教育環境を求める人等により戦前より人口が増加し続けている。
 江戸時代には鎌倉仏教の一つである時宗総本山である清浄光寺(遊行寺)の門前町として、東海道の6番目の宿場町・藤沢宿、また江ノ島詣の足場として栄え、その姿は歌川広重の東海道五十三次にも描かれている。
 明治時代-第二次世界大戦の間、気候も温暖であることから、南部の鵠沼・片瀬地区は明治時代中期より日本初の計画別荘地として開発され、大正期以降、皇族や政治家、数多くの学者や文化人などが居を構えた事で、別荘地・保養地・避暑地として発達し、芥川龍之介、武者小路実篤、岸田劉生ら多くの文化人の創作活動の場となった。
 第二次世界大戦後は東京のベッドタウン化が進み人口が急増すると共に、JR(東海道本線、湘南新宿ライン)、小田急(江ノ島線)、江ノ電の3つの鉄道が集まる藤沢駅を中心に商業施設が集積している。また、慶應義塾大学、湘南工科大学、多摩大学、日本大学を有する文教都市でもある。
(以上、「Wikipedia」より)
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。藤沢宿の繁華街・中心部。右上にあるのが「清浄光寺(遊行寺)。東海道は一番右端に見える道。清浄光寺門前でカギ型で曲がって藤沢宿の中心部に入る。

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明治末(「今昔マップ」より)。青い↓が宿場の中心部、赤い↓が「藤沢駅」。古い街ではよくあった鉄道駅は離れた場所につくった。
 ちなみに、JR東海道線は保土ケ谷駅を出ると、しばらくは東海道と並行して走るが、東海道が新旧どちらも丘陵地帯の上部を通るのに対して、鉄道は、谷間の低いところに敷設したため、戸塚駅付近で東海道と交差した後、大船に南下し、西に転じて藤沢駅に至る。(東海道線はほぼ旧東海道の宿場町をなぞるように駅ができたが、「大船」は宿場町ではないのに、駅が出来ている。)

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昭和初期。次第に駅方向に市街地が増えていく。

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現在。賑やかな街の中心は、「小田急」「江ノ電」と私鉄二社も乗り入れているJR藤沢駅の周辺に。

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 こういう浮世絵が随所に描かれている。

 現存しているのは、寺院が多く、宿場そのものにまつわる施設の跡の説明板が道ばたに立っている。また、繁華街にある「銀座通り」などには、かつての建物や催しのものなどの写真が随所に掲示されていて歩きながら楽しめる。市としての文化的な側面での取り組みが感じられる。

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「昔あった映画館」(於:「銀座通り」)。


 「藤沢駅」で下車、まずは「一里塚」跡から探索(「原宿一里塚」からの4?は部分は省略)。

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 崖上の高さまであった旧東海道を掘削改修したのが現在の道路です。江戸時代には、街道の両側に盛土し榎を植えた一里塚があって、旅程の目印とされていました。
     藤沢市教育委員会

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「一里塚跡」説明板。

 かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は、主要な街道の一里(約4?)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目印として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが、今は残っていません。
 左図は往時の面影を伝える資料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右側に「一りづか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように、盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎が木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。
     平成20年(2008)3月 藤沢市教育委員会

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藤沢橋方向を望む。右手の小高いところにあるのが、「遊行寺」。

 昔の「東海道」。一里塚跡付近の標高は約50メートル、藤沢橋付近は約15メートル。現在の道路と比べて、、そうとう急な坂道であったことがわかる。
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現在の「遊行寺坂」。

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「見附跡」。
「江戸方見附」だった所。

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「藤沢敵御方供養塔」国指定史蹟

 この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永25年(1418)に造立されたものです。
 基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、摩滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。

 応永23年(1416)10月6日からの戦乱は同24年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。

 この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年1月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。
 敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長4年(1599)高野山奥の院(和歌山県)に、 豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。
   平成20年(2008)2月 藤沢市教育委員会

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「フジ・ロード案内図」。藤棚を背景に。「藤沢」の名のごとく、「フジ」の花が街の彩りとしてたくさん植えられている。

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大きな広告板。
 この看板の角を右に曲がっていくのが、旧東海道。

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「藤沢橋」。

 ついまっすぐ進み、「藤沢橋」を越えてしまった。「藤沢橋」は関東大震災後つくられたが、1990年(平成2年)8月の集中豪雨で落橋。現在のものは、その後に建設されたらしい。奥に少し見える朱塗りの橋が「遊行寺橋」

 旧東海道は、遊行寺坂を下って「境川」の手前で右折し、門前の広小路を通ってすぐ左折、次いで遊行寺橋を渡って再び右折して、藤沢宿中心部に入っていった。
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1880年代のようす。

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藤沢橋のたもとにある浮世絵。安藤広重『東海道五拾三次之内・藤沢』。銅製の鳥居は江ノ島弁才天の入口。後ろの山には遊行寺が描かれている。
背後の「境川」に落ち込む遊行寺坂方向からの水路はは落差があって激しい滝のような落口であった。「境川」は、集中豪雨のたびによく氾濫することもあるらしい。

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「藤沢橋」から「遊行寺坂」方向を望む。

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「藤沢橋」のたもとにある「藤沢市自動車排出ガス測定局」の建物。
 東海道と国道467号線が交差するこの地点は、交通量も多い。
 建物の右手に『東海道五十三次 藤澤宿』の浮世絵、『東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ』という説明板がある。

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「東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ」

 「東海道分間延絵図」は江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。この絵は東海道の13巻のうち藤沢宿の部分にあたります。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社、高札など、当時の藤沢宿の姿が丹念に描かれています。

藤沢宿
 藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を生かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。

?藤沢御殿
 藤沢御殿は、藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596年) 、東海道を利用する際の休憩・宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634年)の三代将軍家光の利用が最後のようです。
?本陣と脇本陣
 江戸幕府は、街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延元22年(1745年)火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1軒となりました。
 脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803年)時点で大久保町と坂戸町に1軒ずつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し、大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。
?問屋場
 職場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場後は人馬の継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では、大久保町と坂戸町に各々1か所ありました。
?見附
 見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で、道の両側に石垣が築かれていました。通常、江戸方と京方の両方にあり、見附から見附けまでが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。
?高札場
 高札場は幕府の法令などを掲示する場所で、往来の激しいところや地域の中心部に置かれます。藤沢宿では大鋸橋(現遊行寺橋)の際に設けられていました。屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m 、縦幅1.8mの規模でした。
?旅籠屋
 一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和13年(1803年)には49軒、天保14年(1843年)には45軒あったという記録があります。
?枡形
 宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を枡形といいます。藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られますが、これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものです。
     藤沢地区郷土づくり推進会議

 国道467号線沿い(「遊行寺橋」付近から「白旗交差点」付近まで)が旧宿場の中心地。駅前から来る道案内表示と合流しての散策となります。







本陣跡。桔梗屋。白旗。・・・(藤沢宿。その2。)

 いよいよ宿場の中心部。道路沿いに「藤沢宿」に関する写真や標識などがある。駅前の雑踏に比べてのんびりと散策できる。
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古く重厚な家屋が残っている。

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入口正面に「紙」
と。

国登録有形文化財(建造物)

答申年月日:平成25年(2013年)7月19日
• 店蔵 明治44年(1911年)
• 主屋 明治44年頃、昭和初期増築
• 文庫蔵 文久元年(1861年)、大正14年(1925年)改修

 桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家。本社は横浜に移転したが、現在も、店蔵は藤沢支店として使用されている。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開の塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝える。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えている。

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 株式会社 内田商店は、江戸時代末期の万延年間ころ藤沢宿出で初代 内田専吉が指物商(現在の家具類)として内田商店を創業し、明治3年に現在地に移転した。
 次いで明治38年に至り、鉄鋼二次製品を主体とする金物販売を行う。戦後昭和28年6月に個人経営より組織変更し、法人として株式会社内田商店と改名し、現在6代目が事業を継承する。
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HPより)

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かつての宿場・街並み。

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復元図。

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ラーメン屋さんの前、「蒔田本陣跡」。この奥に行ったところに「藤沢御殿」があった。

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「妙善寺」入口。街道沿いにはたくさんのお寺がある。 

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「伝・源義経首洗井戸」への案内板。
 義経の首は首実検ののち片瀬の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼり、この辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた、と。
 時間がなくて訪問せず。
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「白旗交差点」手前にある「案内図」。上が現在の絵地図、下が宿場の絵地図。

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「いせやまばし(伊勢山橋)」。小田急を越す跨線橋。「藤沢本町」駅は、すぐそば。

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振り返って見たところ。
 「引地橋」までの区間に「上方見附」跡の標識があるはずだが、見落としてしまった。

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「引地橋」。

 旧東海道は橋の手前で「ラーメン屋さん」近く、斜めの細い道に入り、再び広い道に合流して橋を渡ることになる。

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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い線が現在の道(↑)

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「引地川」上流を望む。
 橋の先は茅ヶ崎方面。ここからバスに乗って藤沢駅まで戻ってきた。

朝日攻撃がことの本質ではない。原発再稼働の布石としての開示。その先にあるもの。

吉田調書公開 「菅元首相の対応、論評する立場にない」 当時官房長官の民主・枝野幸男氏(産経新聞) - goo ニュース

 「朝日」が入手した吉田調書の分析による「命令に対して撤退」云々に、すぐさま「産経」がどこからか入手した同じ調書をもとに反論。その時点で、朝日の誤りが濃厚になった。
 すかさず調書の公開に踏み切ったアベ政権。

 しかし、公開されたのは、吉田調書と当時の菅首相など対応に当たった民主党議員のものが中心。

 吉田氏の菅首相へのあけすけでぼろくそな非難、批判を通じて、菅首相達の非常時での対応のまずさが全面的に浮かび上がり、反面、吉田氏達、現場が命がけで未曾有の事故に対応して奮闘している姿が・・・。

 東電本社の関係者の調書は一つも公開されていない。政府は本人が公開を希望しなかったからだ、と。吉田氏については遺族の了解を得たということなのだろう。一人歩きをした調書は、生前の吉田氏の意図(たとえば東電本社の対応への不満、批判・・・)とは別の次元で流れてはいかないか。一方の最大の責任者・当事者の証言の公開は、皆無なのだから。

 結果的に、東電は現場も本社も想定外の事故に対して住民の命、従業員の命を最大限に考慮し、最小限の被害に食い止めようと生命を賭して対応してきた、それを阻害したのが当時の民主党菅政権だった、と。

 東電の事故前、事故直後、その後の対応が当時の社長達から調書を当然にとられていたはず。それは永久に非公開になるだろう。もちろん、今、検察審議会で起訴という判断が出て、改めて起訴される場合、公開した場合にそうした調書が不利に働く、そんな配慮もあったにちがいないが。

 こうして、マスコミはこぞって、東電の故吉田所長を称え、精一杯、現場は頑張ってきた、今後、このような原発事故が万が一起こっても、その電力会社関係者の献身的な対応で被害を最小限に抑えられる、キャンペーンの一翼を担っている。

 まさにここがアベの狙い。「調書」公開は、負け犬・「民主党」の息の根を完全に止め、原発再稼働に有利に働くとみての意図的作戦。 


首相見限った?経団連会長、政府会議を連続欠席(読売新聞) - goo ニュース
 たぶん逆鱗に触れたのではないか。菅さんがフクシマ原発事故を契機に「反原発」「電力再編」に踏みきったことが。特に、浜岡原発操業中止命令以降の自民党や経団連の動きは、菅さんの発言が「体制解体」(自民党・財界体制維持派にとっての)危機感から、もう我慢できないほどの極限に達している。
 それほど「反」原発は、彼らにとっては許すべからざる発想なのだ。西岡も、保守派としてその片棒を担いでいる。今回の菅さんの発言・行動は、看過できない「反体制」なのである。
 マスコミも「東電批判」「原発批判」に及び腰なのは、上層部の意向を反映しているに違いない。何しろ「反原発を発言した」役者の首まで飛ばしたのだから。
 何としても「反原発」路線ではなく、「安全」な原発推進派を次の首相にしたい、そのことでは、政財界の大勢は、一致している。・・・
(以上、2011・6・7の投稿記事。)

 菅さんは、再び、息の根を止められた。

 情報公開は、まさに時の政権の狙い通りのものしか公開されない。「沖縄密約」などこれまでも、それは当然のことのように行われてきた。またしても、の感がする。
 「特定秘密法」の施行に当たっては、権力の意図が貫徹されるに違いない。

 「朝日」は、慰安婦問題を含め、二人の故吉田氏に足下をすくわれ、こうした政権の意図を貫徹させる役割を見事に果たしたことで、今後、どうなっていくのか、どうしていくのか?

 すでに、朝日の謝罪に対して、他の朝日のキャンペーンも事実かどうか検証すべきだという声がマスコミ関係者(「産経」文化人あたり)から出てきた。
 電力会社の元副社長の裏金工作報道や連載している「原発」関連記事などの信憑性を問うことで、反原発を根こそぎ駆逐し、再稼働を進める、そういう政財界の飽くなき意図が明確になりつつある。
 なにしろ、「反原発」は許される言動ではないからだ。

 「朝日」の誤った慰安婦キャンペーンは、日本の国益を損ねた、とのアベ発言は、今後のマスコミへの介入を含めて要注意である(その点、「対朝日粉砕・大勝利組」の「日本維新の会」の橋下さんは、腹の底はともかく、権力の介入はすべきではない、と鷹揚に構えた発言をしている)。

 ここが一番の問題点。

 菅義偉官房長官は12日午後の記者会見で、東京電力福島第1原発事故をめぐり、政府が公開した関係者の聴取記録の一部が黒塗りとなったことについて、「本人が希望しない部分に加え、情報公開法の考え方を考慮し、個人情報、第三者の利益、国の安全にかかる部分については一部不開示にした」と説明した。

 見逃せない発言である。

キジ撃ちまたは、お花摘み、などと悠長なことは言ってられないゆゆしい事態。

富士山に多数の汚物放置(NHKニュース&スポーツ) - goo ニュース

 キジ撃ちとは「野グソ」のことです。”最中”の姿が猟師のキジ撃ちの姿に似ていることから、山の世界では野グソのことをキジ撃ちと呼ぶようになった、と。若い頃から山登りをしていた小生。何度かそんな経験もありました。

 まさか、登山者のものではなく、かつてあったように山小屋からの垂れ流しということはないでしょうね。
 富士山は、遠くから眺めるもの、と決め込んで、一念に何度も富士山近くには行きますが、五合目までが精一杯。そんな富士山。自然遺産では世界登録されず、歴史的文化遺産として登録。そこに今回の問題もあったからと言われます。

 野口さんならずともこういうニュースを聞くたびに自然遺産としての価値は、前途多難。

 富士山の地元の方で、古くから親しくさせていただき、尊敬している方から「富士山学会」の話を聞きました。「富士山」にまつわる自然、文化、伝統、・・・、など幅広く実地踏査や現状把握、資料収集など地道に行っているそうです。
 「かぐや姫」伝説(富士市内にはそれに因む竹藪が存在しています)などにも興味関心を持ち、研究しているとか。世界遺産登録でもずいぶん骨を折ったことをお聞きしました。ご専門は、森林学。資料もいくつか。

 そんな矢先、毎日新聞の記事。

 世界文化遺産への登録から1年がたった富士山を巡り、今後の課題と解決策を考える「富士山学」講座が12日、千代田区一ツ橋1の毎日新聞社1階「毎日メディアカフェ」で開かれ、都留文科大学社会学科教授の渡辺豊博さん(64)が講演した。渡辺さんは、NPO法人・富士山クラブの元事務局長で、富士山に70回以上登っている。
 富士山の登山者は昨年、31万人に達したが、山小屋の収容能力やバイオトイレの処理能力を考慮すると、渡辺さんは「20万〜23万人程度が適正」とし、登山者を制限する必要があると述べた。
 さらに「世界遺産になったということは、世界の宝を日本が預かったということ。しかし、このままでは世界遺産の抹消の危機にある」と警鐘を鳴らし、富士山行政を一元管理する「富士山庁」の創設を提言。登山者の安全対策や富士山学習の充実なども訴えた。

 山梨、静岡、さらにそれぞれ地元自治体入り乱れての「富士山」狂想曲が一通り過ぎ去って、ちょうど夏山シーズンも終了、静かな自然を迎える富士山。地道な取り組みが今こそ必要ですね。
 その方とも近々お会いする予定です。

 

渡辺商会の内紛。

みんな 与党再編選択せず 渡辺氏は反発(NHKニュース&スポーツ) - goo ニュース

 「取締役会」では創業者の渡辺さんの路線は取らず。
 ところが「創業者」の意地か、「株主総会」で決定しろと、元オーナー。なにしろ、供託金立て替え(イヤ、自分持ち)で8億円をかき集めた。そのいきさつを巡って不本意ながら代表の座を降りた。
 渡辺さん、憤懣やる方なし。君たちは誰のおかげで議員になれたんだ、と。政治の世界が、世間の個人経営の商店と同じとは。自民党以来の大ボス、小ボスによる支配。まさに金の切れ目が縁の切れ目。「路線論争」とは名ばかりの、どっちに付くか、多数派工作に。


 政界再編をめぐる路線対立が激化しているみんなの党の浅尾慶一郎代表と渡辺喜美前代表が16日夜、都内のホテルで会談し、互いに離党勧告を突きつけ合った。浅尾氏は17日の役員会で対応を協議する考え。
 渡辺氏は会談で、安倍晋三政権との連携強化を図る「与党再編」を重ねて主張。渡辺氏は代表時代の昨年秋に臨時国会で特定秘密保護法案を修正、成立させたことなどを挙げ、与党との協力路線の継承を迫った。これに対し浅尾氏は「それは与党再編ではない」と反論。「路線が違うならば渡辺氏が出て行くのは仕方ない」と離党を促した。
 渡辺氏は「創業者だから出て行かない」と拒否し、「同じ考えの人を糾合して新党をつくればいい」と逆に浅尾氏に離党を“勧告”。渡辺氏は浅尾氏について「(代表は)荷が重すぎた」と記者団に語った。(「産経新聞」)

 世間によくあるお家騒動。大会社なら大問題。つい最近もあったような?

 悲しいかな! みんなの党。政治の世界からはもちろん、いよいよ世間からも相手にされなくなって四分五裂し、おやじさん以来の商店もおしまいになるか、そんな危機感なぞ持ち合わせていないのが気の毒。
 それにしても、渡辺さん、自らの「創業者」なる思い入れにいまだにひたっているところに、この方の政治感覚はずいぶんとぼけてきたな、と、つい思ってしまう。

藤沢・引地橋から茅ヶ崎駅まで

 前回、足を痛めてしばらくぶりの東海道。ここで大失敗。携帯で撮った写真をPCにコピーする時、保存したつもりが・・・Image may be NSFW.
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 せっかくの写真がすべてパー。

 今回は、言葉だけの探索報告。
 JR藤沢駅から前回の「引地橋」までバス。そこから茅ヶ崎駅まで歩きました。県道44号線(43号線)、国道1号線。
 しばらくはゆるい上り坂。右手に「メルシャン」の工場が見えてくると、左手に

?「おしゃれ地蔵」。「道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしたい。」との説明板(藤沢市教育委員会)。

 「国道1号線」藤沢バイパスと合流する辺り、右側の道路脇に
?「大山道標」がありました。丹沢山塊にある大山信仰の参道(登山道)。 

 この辺からは、国道1号(現東海道)と重なっています。今までたどってきた道より俄然交通量も多い街中に入っていきますが、「新湘南バイパス」のせいか、車の往来も心なしか少なめ。交差点・繁華街を抜ける頃には、道幅は狭く(片側一車線)。曲がりくねっていて、旧道らしい雰囲気。この先「平塚」宿までこんな感じ?

 ちなみに「箱根駅伝」は、この国道1号線を走っているのではないらしい。
 
 しばらく進むと、
?「一里塚跡」碑。これが13番目の一里塚。この辺りには松並木が保存されていました。

?東海道の松並木 

 けっこう大きな松が残っています。ただし、根っこは、コンクリートで固められていて、何だか息苦しい感じ。それでも、見上げれば青空に映えて見事な枝振りでした。

 小和田を過ぎた57キロ地点(日本橋から)付近には、
?「牡丹餅茶屋」跡」碑。この先から、松林中学校とか茅ヶ崎高校付近には松林が続いています。
 
 そうそう、街道沿いのかなり手前に「長寿庵」というお蕎麦屋さんがありましたが、満員のため、断念。沿道は、あまり食事をする店もなく、来てしまいました。

 すると、右手に
?「増田屋」。都内にもあるお蕎麦屋さんののれん?
 さっそく入ってみました。静かにジャズが流れるお店。内装も少ししゃれた趣。ちょっとお蕎麦を食べてジャズを聴きながら、一休み。

 「本村」交差点を過ぎて、「相模線」を越した辺りにも、松並木が。この辺りは、道の両側は少し低地に。東海道は、高台の上を通っていたようす。

 しばらく進んだ交差点。
?「一里塚」跡。右手に「平成の一里塚」、信号を渡った左手に「茅ヶ崎一里塚跡」碑。こじんまりとはしていますが、塚らしい雰囲気。これが日本橋から14番目の一里塚となります(約56?)。
 
 この先、東海道は平塚に向かって進んでいきます。「左富士」を望める橋ももう少し。
 
 今回は、ここまで。茅ヶ崎駅から帰りました。
 
 写真のないのが悲しい!
 
 せめて「今昔マップ」さんより。
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明治末。↓(A)に「牡丹餅」とある。↓(B)が「茅ヶ崎一里塚」(もう少し平塚寄りかもしれない)。

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相模線の開通後。後。

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現在。

南湖の左富士。旧相模川橋脚。・・・(茅ヶ崎から平塚まで。その1。)

 今回は、JR茅ヶ崎駅下車。一路、平塚駅まで。
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「茅ヶ崎一里塚」からスタート。写真は、前回失敗したので慎重にPCにコピー。

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松並木が所々に。

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まず目指すのは、「南湖の左富士」。ここは、日本橋から59?ポスト。

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沿道には歴史のある家屋も。

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「千ノ川」に架かる「鳥井戸橋」という橋に向かいます。この地点が、下り東海道では駿河国の吉原とここの2ヵ所しかない「左手」に富士山が見える地点。「左富士」。

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「鳥井戸橋」。

 東海道の下りでは京に向かうと右手に富士山が見える。ところが道が右に曲がる関係で左手に見える富士山のことを「左富士」というわけです。「南湖入口交差点」を過ぎて右側にカーブする辺り、橋を渡った左に碑があります。

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由来碑。左に「南湖の左富士」(安藤広重作)。かなり古びた印象。

 浮世絵師安藤広重は天保三年(1832)に東海道を旅し、続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に、南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並みの見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。

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↓が富士山。鳥井戸橋からは見にくかったので、すぐ南に架かる「左富士通り」からの写真。

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肉眼でははっきりと見えるのですが。

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明治末のようす(「今昔マップ」より)。

 ところで、「南湖」は何と読むか? 
 「なんご」と読みます。

 この「南湖」の地には、戦前、「南湖院」というサナトリウム(結核療養所)」があった。
 クリスチャンでもあった医師・高田畊安によって1899年9月に開院し、「東洋一」のサナトリウムと称せられたが、1945年5月に海軍に全面接収されて解散となった。盛時は東京の医学生のほとんどが卒業必修単位の如くに見学に訪れたという。名称は地名の南湖(ナンゴ)に拠るが、濁音を嫌った高田畊安によって「ナンコイン」と称された。場所は現在の茅ヶ崎市南湖6丁目の県立茅ヶ崎西浜高校や老人ホーム太陽の郷のあたりが比定される。敷地は当初は5,568坪、最盛期の昭和10年代には計5万坪余もあったという。建坪は4,500坪、病室は158室。
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↓が「南湖院」。

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現在のようす。

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(以上、「Wikipedia」より)

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 高架の「新湘南バイパス」の手前にある「でかまん」の看板。「街道一」とも。店内には入らなかったが、いったいどれくらいの「でかさ」のまんじゅうなのでしょうか。

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小出川手前の大きな標識を左に折れると、「旧相模川橋脚跡」。

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「旧相模川橋脚」碑。文部省指定史跡(大正15年10月指定)

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 大正12年(1923年)に起きた関東大震災によって、水田の地中より木橋らが出現したもので、歴史学者・沼田頼輔によって鎌倉時代に相模川に架けられた橋であると考証された。平成の整備では、10本の橋脚のほかに新たに土留め行こうがあることがわかったほか、地震による液状化現象も観察された。
 相模川は、鎌倉時代にはこの辺を流れていたが、川すじの変化によって西方へ移ったもので、橋脚は土中に埋まったまま七百年をへて再び地上に露出したもの。
 橋は、南北に架けられ、相模川は東西に流れていた。橋の幅はすくなくとも7m(四間)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋であったと考えられている。
 また、この橋には源頼朝が渡り初めをした後、落馬しそれが原因で翌年、亡くなったという伝説が残っている。
 
 今、目にするのは、その橋の精巧な複製品で、出現当時のままに残した。実物は、地中に埋められて保存されているとのこと。

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詳細な掲示板(平成20年3月設置)。

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出現当時のようす。

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実物は腐朽が進まないよう地下2?65?のところで保存されている、と記載。現在の池の形は、大正15年に指定されてから橋脚の周りを池で囲み、保存していた頃の図面をもとに再現した、とも。

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鎌倉時代の河川の流れのようす。

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現在のようす。

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モニュメント付近から見たようす。
 いずれにしても700年間地中にあったものが突然出現した(おそらく液状化現象によって)という、地震のすごさを物語る史跡といえようか。
 

馬入橋。馬入の渡し跡碑。馬入の一里塚。(茅ヶ崎から平塚まで。その2。)


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「旧相模川橋脚保存緑地」を振り返る。高架は、「新湘南バイパス」。

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 沿道の祠(道祖神)。

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立派な門構えの旧家。
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茅ヶ崎方向を望む。


 相模川に架かる「馬入橋」を渡れば、いよいよ平塚。

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遠くには富士(↓)。 
 
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 橋の真ん中付近が、日本橋から62Kmポスト。右手に丹沢、そして富士。左手には河口が見える。

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右に丹沢山塊(中央が大山)、左手は河口(駿河湾)。

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馬入橋。かつては渡しで渡河した。

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右岸にある「馬入の渡し跡」の碑。

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 江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけることを禁止しました。そのため、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)は「渡し船」、酒匂川は「徒歩(かち)渡し」などとなっていました。
 相模川には60以上の渡し場がありました。大動脈である東海道は「馬入の渡し」と呼ばれ、幕府が管理し、周辺村々の負担によって成り立っていました。当初、船は須賀村だけで用意していたようですが、元禄5年(1692年)に対岸の柳島村(注:茅ヶ崎にある地名)が加わりました。また、渡船賃の徴収などを扱う川会所」の運営や船頭の確保は、馬入村など5ケ村が務め、また川会所や渡船額などの情報を掲示する「川高札」は馬入村にありました。
 渡し船には「小舟」と「馬船」がありました。小舟は人を乗せる船で定員20人ほど、馬船は大型で馬が荷物を積んだまま横向きに乗ることのできる船です。このほかに、将軍や大名用の「御召船」などが常時用意されていました。また将軍の上洛など特別の大通行があった場合、幕府は「船橋」を架けさせました。
 平成16年(2004年)3月 平塚市

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 碑中の狂歌「大磯へいそぐ えき路の すずのねに いさむ馬入の 渡し船かな」

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 此の地より約300米下流に存在した東海道馬入の渡し場に替わり明治11年馬入村念願の橋架かる 爾来128年間その痕跡を見ることなし 今日馬入住民が総力を挙げて此の馬入の渡し跡碑を建立す
 平成18年8月20日 馬入住民一同(氏名略) 

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そこからの富士山。

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対岸(茅ヶ崎側)を望む。

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平塚側にある存在感のある建物「湘南マリーナ」。

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「明治天皇馬入御小休所址」碑。「ホテルサンライフガーデン」内。

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馬入橋の右側たもとにある「弘栄堂」。

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【「ちょんまげ最中」の由来】

 昔、相模国府祭の夕方、東海道を帰還の一の宮寒川神社の神輿をかつぐ若者たちと平塚八幡宮の神輿かつぎの若衆とがささいなことから口論、やがて入り乱れての格闘のとなり、打つ、蹴る、殴るの大喧嘩。神輿は川に落ち押し流されてしまった。
 この喧嘩で双方にたくさんのけが人を出したが、なんと言っても相模国一の宮さまの神輿に対して働いたことはよろしくない、場入村の若者達は代官江川太郎左衛門の厳しい取調べを受けたが、場入村役人はもちろん隣接の平塚宿役人達もこの儀が公儀の問題にならぬよう極力嘆願に及んだ。
 しかし、代官は手下人16人に対し死罪の判決を下したが処刑の日、そのちょんまげだけ斬り落として斬り首に代えた罪を憎んで人を憎まず、心改めた若者を殺してはならじと災い転じて福となす、名代官の処置に16人は勿論並びいる村民にかきくれたという。この事件は文化は2年5月か天保9年5月5日か定かでない。
 今も蓮光寺の西南隅に16人のちょんまげを埋めた「ちょんまげ塚」がある。 
 「ちょんまげ最中」は、その時代の素朴さと実直さを最中に表現しました。

 馬入の信号を直進し、平塚駅前の市街地へ入っていく。

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「馬入一里塚跡」碑。日本橋から15番目の一里塚(約60?地点)。

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京へは111里。大坂へは122里。

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解説板。

 慶長九年(一六〇四年)、徳川幕府は東海道など五街道を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約四キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、五間(約九メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなりました。馬入の一里塚は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、旧東海道をはさんで南北に一つずつの塚がありました。文化三年(一八〇六年)に出版された「東海道分間延絵図」には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。
平成一六年(二〇〇四年)三月 平塚市

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「馬入橋」方向を望む。
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