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清水坂。妻恋坂。立爪坂。三組坂。ガイ坂。実盛坂。・・・(湯島の坂。その2。)

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 この界隈は、本郷台地の東南のはずれ付近。どこを歩いても坂道に出くわします。
 「傘谷坂」を下って上り、坂上を右折してしばらく進んで右折すると、「清水坂」。「妻恋神社」の西側の坂。

  

清水坂

 江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。
 この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その敷地は清水精機会社の所有となった。
 大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。
 そこで、町の人が、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。

 文京区教育委員会   平成11年3月


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 赤い○一帯が上記の敷地跡と思われる。右上の「妻恋神社」で途切れていた道が、敷地内を南下してお茶の水方面と結ばれた。

 「妻恋神社」の南側にある坂が、「妻恋坂」。特に標識は見当たりませんでした。

 別名を多く持つ坂であったようだが、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657年)後に浅草に移り、坂の北側に「妻恋神社(妻恋稲荷)」が旧湯島天神町から移ってきてからである、ということらしい。

 現在、「新妻恋坂」と命名されているのが、「蔵前橋通り」の坂。

 妻恋坂の中程を左に曲がったところにあるのが、「立爪坂」。

  
上部と下部が石段になっている。               上から見下ろしたもの。
右は崖下になる。

 「立爪坂」は、『江戸と東京の坂』(山野勝)によると、「昔は、爪先を立てなければ上れないほどの急坂だった」とある。現在は、上部の石段はともかく、それほどきつい坂ではない。

 この坂を上り、「東都文京病院」(旧「東京日立病院」2014年4月1日付け)の脇を通り、小さな石段を下りると、広い道にでます。

  



三組坂

 元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間(ちゅうげん)、小人(こびと)、駕籠方(かごかた)の「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。
 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を三組町と改めた。
 この町内の坂であるところから「三組坂」と名づけられた。
 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40(1965)4月以降、今の湯島三丁目となった。

  文京区教育委員会   平成19年3月

 「三組坂」の中程から北へ向かう坂が「ガイ坂」。


「三組坂」の東側から見ると、「ガイ坂」は右に折れる。

「ガイ坂」。

ガイ坂 
  三組坂の中腹を北に、実盛坂の下の方へ下る坂である。
 『江戸切絵図』(嘉永六年・尾張屋清七板)には、立爪坂の北、三組の御家人衆の拝領地内(三組町)に「ガイサカ」と記されている。ガイは芥の濁音である。
「ぶんきょうの坂道」(東京都文京区教育委員会社会教育課編、発行、昭和55年7月1日第二刷)より。
(「http://saka.30maps.com/」HPより)

 「ガイ」とは芥(ごみ)のこと。「立爪坂」と同様に、ここにもごみ捨て場があったようですが、実際に歩いたようすでは、地形的に「東都文京病院」付近(東)の崖地辺りがこんな名称にふさわしい印象です。上記の説明からもうかがわれます。ことによると、当時の坂と異なっているのではないか。



←に「芥坂」とある。位置関係から、現「立爪坂」と思われる。地図上で破線が現在の文京区と千代田区の区界。

 「ガイ坂」を進むと、左手奥に急な石段があります。



  
下から仰ぎ見る。                     上から見下ろす。
 けっこう急な石段であることがよくわかる。

実盛坂

 「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。
 湯島の‘実盛塚’や‘首洗いの井戸’の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。

    文京区教育委員会    平成14年3月

                     

中坂。切通坂。女坂。男坂。無縁坂。・・・(湯島の坂。その3。)

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 北上すると、「湯島天神」。

 この付近には、東と西に伝統・由緒ある小学校があります。1923年(大正12年)9月1日・「関東大震災」後の震災復興事業の一環として昭和初期に建替えられた校舎。(「震災復興52小公園」で紹介済み)

「文京区立湯島小学校」。その後、近年、モダンな校舎に改築されたが、正面玄関などに当時の面影を残している。

「台東区立黒門小学校」校舎。震災復興校舎(昭和5年竣工)を、大きく手を加えることなく現在も使用している。

 さて、まもなく右に、「上野広小路」方向から来る、けっこう急な上り坂が現れます。

坂の上から東側を望む。



中坂(仲坂)

 「御府内備考」に、「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼び名とすといふ」とある。
 江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた、したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
 また、『新撰東京名所図会』には、「中坂は、天神町1町目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。
 このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。

  まゐり来てとみにあかるき世なりけり
          町屋の人のその人の顔かお   (釈 迢空)

       東京都文京区教育委員会    平成元年11月

(注:「妻恋坂」の北にある「三組坂」は、もっと後に出来た新坂。)

 そのまま「湯島天神」から「切通坂」(「春日通り」)まで歩き、坂を下って「女坂」「男坂」に向かいました。

 

切通坂

 「御府内備考」には「切通は天神社と根生院(こんじょういん)との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
 初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
 映画の主題歌「湯島の白梅」“青い瓦斯灯(ガストウ)境内を 出れば本郷切通し”で、坂の名は全国的に知られるようになった。
 また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床(きのとこ)」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。

  二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 勤めなればかな 
                  石川啄木

       文京区教育委員会       平成11年3月

  
道の反対側にあるのが湯島天神。            本郷方向を望む。



1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 ↓が「切通坂」。上方の赤い○が「無縁坂」。右上の池が「不忍池」。当時、「切通坂」は広小路方向からの直線道路ではなく、現在の「不忍通り」から折れていたようだ。

「石川啄木文学碑」。

  二晩おきに
  夜の一時頃に切通の坂を上りしも―― 
  勤めなればかな
     石川 啄木

「文京区教育委員会の解説文」。
 これによると、上の歌碑は石川啄木の原稿ノートにあった自筆のものを刻んだそうだ。


 なお、都内にある石川啄木の歌碑は、この他にも、

・《文京区本郷・太栄館》 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

・《台東区西浅草・等光寺》 浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心

・《中央区銀座・朝日新聞社跡》 京橋の滝山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな

・《台東区上野・JR上野駅構内》 ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく

 にあるそうです。(「太栄館」=「蓋平館別荘跡」のものは、紹介済み。) 


「女坂」へ向かう角にあった古風なたたずまいのお店。
 
  
                              女坂。

  
                          男坂。ゆるやかな坂・女坂に対して。

夫婦坂。

 「男坂」はそのまま「上野広小路」に続いています。
  
                                「男坂」を望む。

 再び、「切通坂」に戻り、「都立旧岩崎庭園」に向かいます。
 

古風な木造家屋。「旧岩崎庭園」に向かう角地。

「旧岩崎庭園」。

   

 その北側にあるのが、「無縁坂」。
  

無縁坂
  

 「御府内備考」に、「称仰院(しょうごういん)前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有之候に付 右様相唱候旨申伝・・・」とある。
 団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品「雁」の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その「雁」に次のような一節がある。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。

  不忍の 池の面にふる春雨に
    湯島の台は 今日も見えぬかも
       岡 麓(本名三郎:旧本郷金助町生まれ1877~1951・
                墓は向丘二丁目高林寺

      文京区教育委員会     昭和55年1月

 「旧岩崎庭園」の裏手の道、「三菱資料館」や「最高裁宿舎」などの脇を通り、「春日通り」(切通坂上部)に戻り、西へ向かいます。

「旧岩崎庭園」の裏手にある木造三階建ての家。

 こうして、「本郷三丁目」の交差点へ。

  

 前回来たときも、「かねやす」のシャッターが降りていました。営業しているのかしら。

善光寺坂。三浦坂。赤字坂。へび道。・・・(根津・谷中の坂。その1。)

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 根津駅から西日暮里駅までのコース。下町探索コース「谷根千」ともかぶっています。以前、「藍染川(谷田川)」流路跡の探索で歩いたところとも重なりますが、今回は、「坂道」に徹底して。

 その前に、「根津」ということで、以前から気になっていた「建物」に向かいます。「はん亭根津本店」。木造三階建て。
 「不忍通り」に面して「茶房」、裏に回ると「串揚げ」のお店。

  

 もともとこうしたお店として長年やっていたわけではありません。そのへんのいきさつについて、

 『歴史ある建物の活かし方』出版記念シンポジウム・第5回歴史・文化のまちづくりセミナー記録
 1999年7月17日に東京大学工学部1号館第15教室で行なわれた『歴史ある建物の活かし方』(学芸出版社刊)出版記念シンポジウムでのご主人のお話が掲載されいます。

はん亭の誕生

 見出しに建築再生物語と書いてあります。「根津の大通りの一本裏に木造3階建ての串揚げ屋があって繁盛している。紺の暖簾に木目の洗い出された板戸。盛況のこの店のご主人高須治雄さんに、お店をはじめるまでの話を聞く」と書いてあって、ここからが私の語り口なのですけれども、実は森さんが雰囲気を出すために私のことをべらんめえ調で書いておりますが、決して普段そのようなことはなく、大変上品な喋りしかできない男でございます。私は35歳で脱サラして、上野の本牧亭の真裏で小さなカウンターの串揚げ屋「くし一」をやっていました。店は少しずつうまくやっていましたが、7、8年のうちに周辺の環境が悪くなって、ピンクサロンが客引きをするので、まともな客が道を歩けなくなった。その雰囲気がいやで、夜、店を開けるのが毎晩うっとうしかった。

 その頃、根津にある弥生会館で飲食店の会合があり、根津の裏通りをぶらぶら歩いてふと見るとこの木造3階屋に出会ったんです。湯島に木造3階建てがあるのは知っていましたけど、根津のこんなところにこんな建物があるとは思いもよりませんでした。それから取りつかれて、どんな人が住んでいるのかななんて想像して何回も見にきました。そして、ついに区役所に調べに行ったらある運送会社の独身寮だってことがわかったんです。なにも独身寮ならこの建物である必要はないと思い込み、もし売る時は僕に声をかけてほしいと言ったんです。あんなボロ家を買いにきた物好きがいると、向こうも驚いたらしいです。

 そのうち景気も悪くなって、向こうは売ろうかという話になりました。確かその間約3年かかりました。そりゃあ、ああいう建物は残す義務があるとか、うまく活用してみせると豪語した手前、売ってもよいと言われるとかえってあわてました。条件もわからない、中も見たことがない、買ってすぐ壊れちゃうんじゃないか、そこで上野の店の常連で芸大の建築科を出た浦さんに調べてもらいました。そしたら多少柱がゆがんでいるとか、3階で鉛筆をころがすとコロコロ片隅に転がる程度のことはありましたが、基礎、柱から構造もビクともしない、あと数十年は持つって太鼓判。こうなりゃやるべきだと思いました。

 さて、いくらかかるのか。お金もないし、一時は十条の自宅と取りかえっこしないかという大胆な提案までしたんですが、とにかく価値観の違いがありますから、こちらは垂涎の建物でも、向こうにしてみりゃとっくに減価償却の済んでるボロ家で、しかも借地ってことで、提示された価格はまあ手に負えるものでした。その当時、根津のこんなところで商売になるのか考えてもみなかったことで、とにかく両親含めて6人家族、いまどきマンション買うより広くて安いや、と家族を説得し、庭付きの家を処分して、この根津の町なかに引っ越しました。これがおっちょこちょいの家族で、この3階屋を見上げて「へえ、かっこいいや」というわけですよ。

建物を改修する

 次は改造の手配です。運送屋の季節労働者用の寮ですから、家の荒れはてようといったら。ベニヤで仕切って外はプラスティックの生子板を張ってあって、見るも無残。いい大工を紹介してもらったら、「こりゃ金食い虫だぜ。いくらかかるかわかんねえや」って言われました。でもこっちは本物の部材で再生させたいとすごい情熱でしたから。大工さんも一徹な人で、よくわかった、といったらあとはきかないことばかり。よくケンカもしました。1階の店の真中においてある大テーブルも、ある家具屋で静岡の若い作家の作品を気に入って、金がないので直接交渉しようと、ちょっと梱包の箱が店にあったのを密かにメモって静岡までいったりしました。それでもここはあくまでも住まい。1階はわが家のダイニングキッチンのつもりでした。そして上野の店の客で、もう少し静かで変わった所で食べたいという人がいたら、地下鉄で一つ乗って来てもらって、その間に私が自転車に材料積んで先回りして、ゆっくりおもてなししましょうと、そんなことを考えてました。だから最初は椅子も12しか入れなかった。

 ところが工事中から、何やってるんですかと見にくる人がひきも切らない。説明すると、そりゃオープンしたら一度来たいもんだ、との返事です。完成したときに、懇意の染織家に暖簾を頼み、今までの「くし一」から半歩前に進みたいと、「はん亭」という屋号をつけました。暖簾をあげると、毎晩押すな押すなの大盛況。湯島の店は若いのにまかせて、あわてて椅子を増やしました。そのうち、宴会がしたい、座敷はないかというので、私たちのテレビもタンスもある居間に通すことになりました。そのうち両親があいついで亡くなり、我々は近くに借家をかりて、ここは全面的に店になっちゃいました。

大正時代からの歴史

 この家を最初に建てた人のご紹介が遅れましたが、そもそもこの家は三田さんという方が経営する下駄の爪皮屋だったんです。ま、根津ではちっとは知られた大店で、建築は大正初期だということです。息子さんに店のあとを継がせようと東京商科大、今の一橋大学に入れたんですけれども音楽が好きで、後で著名な音楽家になられたそうです。通りにある風貴堂さんというのが茶道具を扱う店なんですが、その間にもう一軒ひっそりと暮らす家があります。ところがその人があるとき越すことになりました。その時に大家の三田さんからぜひ借りてくれないかという話がありました。私は店としては3階建て部分だけで十分だったんですが、また住まいにすればいいやと心を決めて借りることにしました。そしてその借りた場所に立派な土蔵があるなんて知りませんでした。また、建築家の浦さんご夫妻、前の大工さんにお願いしてすっかりよみがえらせてもらいました。今では土蔵の中が一番人気があるんですよ。座敷で串揚げというのは珍しいんです。揚げたてのアツアツを食べていただこうと思うと人手がうんとかかる。お客さん80人に従業員15人もいます。この根津ってのは谷底の職人町ですよね、なんとなく温かく、しみじみするような所です。この3階屋に初めて上がったとき、床の間のケヤキの板がすばらしかったですよ。想像しましたね、きっとここの主人が、近所の長屋の八つぁん熊さんを呼んで花見だ月見だと一杯やったんじゃないかと、上野の山もよく見えたでしょう。両国の花火もきっと見えたことでしょう。でもねえ、越してきたその冬の寒さったらなかったです。すきま風で石油ストーブも怖くて使えなかったし。でも、かつて三田さんもここで冬の寒い日に火鉢で暖をとっていたのかな、なんて考えたら楽しかったですよ。
 森さんは「根津や谷中の民家はちょっとやそっとでは残らない。地価が高く相続税、固定資産税の負担の重い今日の東京で、ただ古い家に住んでいるだけでは残すのは難しい。建物の風情が店に付加価値をつけ、料理にプラスして客を魅きつける店として、『はん亭』がある」と、このように書いてありました。森さんは、私が20年間にも及ぶこの建物との関わり合いを端的に私の言葉で表現してくれたと思います。私は常々、店の従業員にこの店が繁盛しているのは我々の作る料理が人一倍、並外れておいしいわけではなくて、きっと日中鉄筋コンクリートの塊の中で仕事をしてきたサラリーマンの人たちが、この古い木造家屋で食事をしたり、飲んだりすることでやはりその空気と雰囲気の味わいを感じるのだろうと、だからこの建物をもっと大切に扱わなければならないと申しております。この度、この建物が三船先生などのご尽力によって登録文化財ということになりました。名誉であるとともにこの建物が文化的な財産なのですから、もっとこれからも大切に維持・保存していかなければならないという私自身への戒めの印として、21世紀にいつまでもいい形で残せるように頑張っていきたいと思います

(以上「www.gakugei-pub.jp/kanren/rekisi/semi05/02-3.htm」より引用)

 上の話にもあるように、国の「登録有形文化財」に指定されています。

 機会があったら、改めて訪ねてみようと思っています。さて確認したので、本来の目的に。「谷中」は、坂の町。上野台地と西の本郷台地、その間には「藍染川」流域、東は台地のはずれ、と、どこに向かうにも坂を上り下りしなければなりません。

 「根津一丁目」交差点。「不忍通り」と「言問通り」がクロスする所。
「言問通り」。

  
 西が「弥生坂」。                      東が「善光寺坂」。

坂の途中にあった「下町みちしるべ 旧谷中坂町」。

 もともと谷中村に属していた。元禄年中(1688~1704)に寛永寺領となるが町家が形成されるにつれて、付近に善光寺があったことから谷中善光寺前町と呼ばれた。その後、玉村寺門前町と谷中村飛地をあわせ、明治2年(1869)谷中坂町と命名された。さらに同24年三方路と呼ばれたところと善光寺坂、三浦坂、藍染川端などを加えた。
 町名は町の中央に坂があったことにちなんで名付けられた。もとになった坂は「善光寺坂」と言われているが本町北側に位置する「三浦坂」も関係があったと思われる。・・・

 しばらく上って左折し、「旧藍染川流路跡」の道路(この道は、文京区と台東区の区界。かつてその区界を源流付近から「不忍池」まで探索し、blogにUpしました)を北西に進み、「三浦坂」方向へ。

 右折すると、



三浦坂

「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり。一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
 三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治5年(1872)から昭和42年1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
 別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。

平成4年11月
         台東区教育委員会

 坂の途中にあったお店。

 猫グッズを扱う? 猫好きにはちょっと興味をもちましたが、素通り。

坂の上から西方を望む。左手はお寺がたくさん。

 「三浦坂」を上り、左に二度曲がると、「大名時計博物館」。

 大名時計博物館(だいみょうとけいかぶくつかん)は、東京都台東区谷中にある時計の博物館である。1974年4月に開設された。陶芸家である上口愚朗に収集された江戸時代の大名時計が公開されている。
(以上、「Wikipedia」より。)

 大ヒットした、NHKの連続テレビ小説(2013年)「あまちゃん」で、外観が「まごころ第2女子寮」として使われた、とのこと。

  

 その先を右に曲がると、「赤字坂」。

  
石段の下の道路。                      坂の途中から見上げる。

 「赤字坂」はそのネーミングのユニークさからタモリさんをはじめ、大勢の人が取り上げています。いずれも、曰く因縁の説明にはそれほど相違点はないようですが。

赤字坂(明治坂)

 坂上に明治の大財閥、渡辺家の屋敷があった。初代が明石屋治右衛門だったので略して「明治(あかぢ)」だ。九代目が東京渡辺銀行を設立したが、昭和2年の金融恐慌で破産、姉妹行のあかぢ貯蓄銀行も同時に閉鎖し、破綻した。根津や千駄木、谷中では損害を被った人が続出し、人々は皮肉って「赤字坂」といった。銀行によく「あかじ」とつけたものだ。
 実は東京渡辺銀行の破産は時の片岡大蔵大臣の失言によるものだった。

(以上、「台東区の坂-3: 坂道散歩」8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2005/09/post_950e.htmlから引用させてもらいました。

 坂道を下ると、さきほどの旧藍染川流路跡(区界)。
 
旧藍染川流路跡から望む。              坂の途中にある「案内図」。南北が正反対。

右が「台東区」、左が「文京区」。

 いよいよ「へび道」にさしかかります。曲がりくねり、道幅も狭くなります。

「交通標識」にも「蛇行あり」という言葉が(←)。

  
右が台東区、左が文京区(だと思います。振り向いて撮ったとすれば、ちょっと自信がありません)。

  
 「三崎坂」との合流も間近。                 振り返って望む。

 左の写真では右が台東区、左が文京区。右の写真では右が文京区、左が台東区、となります。

三崎(さんさき)坂。真島坂。築地塀。蛍坂。・・・(根津・谷中の坂。その2。)

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 「へび道=旧藍染川」は「三崎坂」を越えて北にある「よみせ通り」へと続きます。
 「三崎坂」で「藍染川」に架かっていた橋が「枇杷橋」。
「藍染川と枇杷橋(合染橋)跡」碑。

 通りの向かいにあるお蕎麦屋さんが「大島屋」。

 「三崎坂」と「不忍通り」をはさんで相対している坂が、「団子坂」。
  
                                     ↓が「団子坂」。


  

三崎坂
 「三崎」という地名の由来は諸説あるが、駒込、田端、谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永2年(1773)の『江戸志』によると、三崎坂の別名は「首ふり坂」といい、30年ほど以前、このさかの近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。


大正中期のようす(「今昔マップ」より)。↓が「三崎坂」。駒込、田端、谷中の地名が記されている。この付近が、三つの高台に囲まれた低地であることがわかる。
現在。

  
 「三崎坂」の途中にある「台東区立谷中小」。寺町らしい雰囲気の建物。

 「谷中小」を右折した先にあるのが「真島坂」。
 
坂上から。                          坂下から。
 再び、「三崎坂」に戻ります。

「笠森おせん・鈴木春信の碑」(「大円寺」内)。

鈴木春信「お仙茶屋」

 笠森 お仙(かさもり おせん、1751年(宝暦元年) - 1827年2月24日(文政10年1月29日))は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。
 1763年(宝暦13年)ごろから、家業の水茶屋の茶汲み女として働く。当時から評判はよかったという。
 1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。また、「鍵屋」は美人画の他、手ぬぐいや絵草紙、すごろくといった所謂「お仙グッズ」も販売していた。
 1770年(明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れたが、実際は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁ぎ、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。享年77。
 現在、お仙を葬った墓は東京都中野区上高田の正見寺にある

(以上、錦絵を含め、「Wikipedia」より)

  

 お仙は、笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正八年、二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木春信」碑は文学博士笹川臨風が撰し、題字は、東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。
 荷風の撰文は、漢字仮名交じりの文語調である。
 女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡る
  もの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が
錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。
今年都門の粋人、春信が忌日を選びて、こゝに阿仙の碑
を建つ。
 時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃

 五大州は日本のことで、大正己未は大正八年にあたる。

 平成八年七月
       台東区教育委員会



 全生庵は山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。尚、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。

(「山岡鉄舟・三遊亭圓朝の墓【全生庵】」|TAITOおでかけナビ」より)

「三崎坂」にはけっこう昔を偲ばせる建物が残っています。

    

 1995年(平成7年)に「台東区まちかど景観コンクール」において「まちかど賞」に選ばれた建物。

「下町まちしるべ 旧谷中初音町二丁目」

 初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鶯の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。
 谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治2年(1869)のことである。四丁目ができたのは、それより少し遅い明治4年である。その後、谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併して谷中初音町としての町域を確定したのは明治24年のことである。
 谷中初音町二丁目は、元禄17年(1704)に町屋の開設が許されてできた天王寺中門前町が改称された町である。

 実に風情のある町名です。

「観音寺」。
 赤穂浪士ゆかりのお寺。和尚が赤穂義士のうちの二名の異母兄弟であった、という。

 このお寺の南面にある「築地塀(ついじべい)」が目を引きます。

  

1992年(平成4年)に「台東区まちかど賞」を受賞した「観音寺」の築地塀(長さは約38m、高さ約2m)。関東大震災で一部が崩壊したが、修復を重ねて往事の姿を留めている。瓦と土を交互に積み重ねた土塀に屋根瓦を葺いた作り。

 瓦と土を交互に積み重ねて作った土塀を築地塀と言います。観音寺の築地塀は屋根瓦を葺いた珍しい造りになっています。平成4年度、台東区まちかど景観コンクールで「まちかど賞」に選ばれています
 土塀といえば、信長塀や太閤塀など古い築地塀がいくつも残っています。「築地塀」とは土で作られた塀のことを指し、大きなくくりでは版築で作った塀もその他の土で作った塀も築地塀(ついじべい)と呼んでいます。)
 築地塀の中でも土と瓦を交互に積み固めた練り塀が誰でも見覚えがあると思います。
 本来は土の塀を丈夫にするため、瓦を土の間に差し込んで強度を出し、土が早く締め固まるようにという目的がありましたが、(本来の練り塀は上塗りで瓦が見えるのを隠してしまいます。)それを見た目の面白さと瓦が雨水から土を守るという点で活かされたものです。
 当社の近くの谷中 観音寺にも練り塀が残されていて平成4年にまちかど賞を受賞しています。

(以上、「」HPより)

 その先を進むと、行き止まり。右に曲がると狭く急な坂になります。
「蛍坂」。

 右側が高い囲い、左がフェンス、となっていて、圧迫感がある坂道。

左側は急な崖。

  

蛍坂

江戸時代、坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ、蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだのであろう。「御府内備考」は「宗林寺の辺も蛍坂といへり」と記し、七面坂南方の谷へ「下る処を中坂といふ」と記している。中坂は蛍坂の別名。三崎坂とと七面坂の中間の坂なのでそう呼んだ。三年坂の別名もある。

 
「標識」から上を見る。                    左に曲がって見上げる。 

崖上の森の向こうが「蛍坂」にあたる。

六角堂。七面坂。富士見坂。地蔵坂。夕やけだんだん。・・・(根津・谷中の坂。その3。)

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 「七面坂」に向かう途中に、「岡倉天心記念公園」があります。

  
「岡倉天心宅跡 旧前期日本美術院跡」碑。

 「岡倉天心記念公園」は、横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の邸宅兼、日本美術院跡に台東区が作った公園で、昭和42年(1967)に開園。約700平方mの小さな公園です。園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている、とのこと。

「六角堂」。

 この場所に建てられた美術院は明治31年(1898)9月に竣工した木造二階建て。明治39年(1906)12月に茨城県五浦に移るまでここが活動の拠点となっていた。

  
 公衆トイレも六角堂を模したもの、他にも公園内には、「六角」(形)へのこだわりが随所にある、らしい。じっくり見てくればよかった!

 「五浦」の「六角堂」は、2011(平成23)年3月の「東日本大震災」の津波によって流失してしまったことが話題になりました。
  
流失直後。                          再建後。      
(「」HPより)

 「宗林寺」を過ぎると、右手に坂があります。
   
 
 この坂が、「台東区」と「荒川区」の区界になっています。左の写真で、右が「台東区」、左が「荒川区」。

七面坂

御殿坂上から台東区長明寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。

    荒川区教育委員会

坂上から望む。 

「諏訪台通り」を北に向かうと、「富士見坂」。

 
 
富士見坂

 坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
 都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。

 荒川区教育委員会

 関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり
 平成16年11月
 国土交通省関東地方整備局 



 が、現在では富士山は見ることができなくなってしまいました。

 →  

 「不忍通り」沿いのマンション建設のため、「富士見坂亜」からは見ることが出来なくなってしまったのです。

以下、「今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day」
「見えないと、もっと見たい!」日暮里富士見坂を語り継ぐ、眺望再生プロジェクト / Gone but not forgotten: Project to restore the view at Nippori Fujimizaka.」HPより。

 日暮里富士見坂から富士山を望むことができなくなって16ヶ月目。
 坂上には、いまだ「あっちに見えるはず…」と西を指さす人が絶えない。
 いま、富士見坂から富士山への通り道の途上に黒いビルが見える。生和コーポレーションが建設した「福信館」がみえる。
 こうして、名前を告げることを非難する人もあると思うが、名前を伏せれば、話し合いの場をもうけると文京区は私たちに約束したが、残念ながら反故にされてしまった。同じように企業も私たちを脅し、そして約束は最後まで果たされなかった。
 2011年12月、世界遺産の諮問機関であるICOMOS(国際記念物遺跡会議)は、日暮里富士見坂からの富士山の眺望を歴史的な眺望遺産としてパリ総会で決議した。
 翌2012年5月、その保全について荒川区、文京区、新宿区、豊島区、そして東京都、および新大久保に高層ビルの建設を予定していた住友不動産に対して勧告するとともに、保全を可能にするための眺望ライン作成に協力することを申し出た。
・・・

2014年10月16日 初冠雪の「すきま富士」。

 今朝、日暮里富士見坂近くから、初冠雪の富士山を望むことができました。写真をよく見ると、山頂部分もビルのはざまに見えています。せめて、この風景を子どもたちに残したいものです。日暮里富士見坂からの富士山が復活する日まで。


 以前、富士山の左肩部分を新宿区内に建設されたビルによって奪われ、今回は、右肩を奪われてすっかり見えなくなったようです。ただ、上の写真のように、この坂の近くから見えるところがあるようですが。

 

 「富士見坂」は、富士山が見えなくても夕陽の光景が美しい坂道ですが、それに満足せず、「富士山」復活にかける心意気を強く感じます。



 諏訪台通りを少し進み、「諏方神社」の脇を入ると、「地蔵坂」。
 
                   坂の先はJR「西日暮里」駅に向かう地下道。
  

地蔵坂

 この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむという。
    荒川区教育委員会

 「地蔵坂」から戻ってくる頃には、すっかり夕焼け。

  
「富士見坂」の案内板。                   夕焼けに染まる「富士見坂」。

 「七面坂」のすぐ北側は「夕やけだんだん」、谷中銀座の道筋。うろうろしているうちに、夕陽がまぶしくなってきました。
「七面坂」。

  
                        (別の日に撮影)

1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ↓が「富士見坂」、○が「地蔵坂」、中央の東西の道が「八面坂」・「御殿坂」(「夕かけだんだん」付近)と思われる。←が現在のJR「西日暮里」駅付近。
 なお、右下の曲がりくねった道が「芋坂」。


御殿坂。物見塚。上野戦争。・・・(根津・谷中の坂。その4。)

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 そろそろ夕刻。小生の携帯でははっきりとした写真が撮りにくくなったので、JR「日暮里駅」へ。

「御殿坂」。

 この坂も、「七面坂」と引き続き、台東区と荒川区との境界にあり、坂の上はJR日暮里駅北口です。(右が「台東区」、左が「荒川区」。)

  
   「台東区」側の標識。       「荒川区」側の標識。

御殿坂 (「台東区」の解説文)

 文政十二年(一八二九)に成立した「御府内備考」には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年「東京府志科」には、長さ十五間(約二七・三メートル)幅二間(約三・六メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの坂にあったからといわれるが、根拠は定かではない。

 また、「荒川区」の説明文では、「日暮里駅方面へ下る坂。江戸女台から用いられていた故障である。・・・当時の絵図などから
、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがわれる。・・・」とある。

 ここで注目すべきは、「日暮里駅方面に下る坂」という点。

 「台東区」の説明文にもあるように、もともと上野台地の東側を下る坂としてあったものが、JR線の敷設や「日暮里駅」の開設等で消滅してしまい、台地上にその一部が残っていると考えられる。
 なお、「日暮里駅」の跨線橋の橋の名は、「下御隠殿橋」。もちろん、江戸時代当時からここに橋があったわけではない。

1880年(明治13年)頃のようす(前回掲示の図)。

 ○が「御殿坂」。A(「八面坂」)からB(「芋坂」)を結んでいたようだ。

黒い線がJR線、日暮里駅。
 ほぼ消失している(戦前までは「日暮里駅」の西側に一部残っていたようだ)。

 この坂の周囲にはまだまだ見所が多い。そこで、後日再訪したので、以下にそれを掲載します。

 「本行寺」(月見寺)の境内には太田道灌の「物見塚」に関わるものがあります。

  

「荒川区指定文化財/道灌丘碑」。

 太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、ながめのよいこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったという。
 寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩太田氏などが道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った。
 この辺りの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、一茶も当地で「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。

「道灌丘之碑」。

「小林一茶」句碑。

 陽炎や 道灌どのの 物見塚

 その先の「経王寺」には、彰義隊にまつわるものがあります。

  
    赤い○が弾痕。                     
赤い○のところ。何カ所か残っている。

  
「経王寺 山門」碑。                 「門番所」。

 明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られています。旧谷中七福神のひとつです。
 慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残り、当時の激しさを今に伝えています。

HPより。

上野戦争(以下、「Wikipedia」による)

 慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立するが、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。

 抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。

 新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では、西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという。

 5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した。
 戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。

上野戦跡

 戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。
 戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。

雲行き怪しい「滄浪泉園」。大雨の「野川」。小雨の「近藤勇」。(じじばばがゆく。「はけ」編。)

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 久々に昔の職場の同僚+近しかった方々。

 地元の方の案内で「野川」散策。あいにくの雨でした。「武蔵小金井」駅集合、「龍源寺」解散。

 昭和一ケタから還暦未満まで。多士済々。

 国分寺崖線沿いの散策。この段丘を地元では「はけ」というらしい。けっして「はげ」ではない! なにしろこの「はけ」、立川市の北東から世田谷区の野毛町まで続く、のだそうだ。

 11月1日(土)午前9時30分「武蔵小金井駅」改札口に集合。

 電車を降りると、前をあるく女性。後ろ姿がどうもあの方ではないか。ペットボトルをむりやりポケットに突っ込んだ着古したジャンバーに、よたよたした足取り。そっとしらんふりしました。すると、エスカレータに乗っていた老人。小走りでトイレに向かう。この方にも見覚えが。トイレに入って出るのを待って、入りました。

 どういうメンバーが集まっているのか、改札口を出る前に遠目で。天気も怪しいし、膝の調子もよくないし・・・、メンバーによっては・・・、そんな小生のようすをすぐに見つかってしまいました。ま、いいか。

 最初に訪ねたところは、「滄浪泉園」。この「ソウロウ」という熟語が出てこない、けっして「候」でも「早老」でも「早漏」でもない! 由緒正しい「深山の趣そのままの庭園」(惹句)でした。
 


 元々は、明治・大正期の三井銀行の役員、外交官、衆議院議員などを歴任した「波多野承五郎(雅号・古渓)」という方の別荘だった、とか。
 人の手に移って幾星霜。宅地化の波に洗われて、当時の3分の1の広さに。その後もマンション建設計画が起き、存在が危ぶまれた。そうした中、1977(昭和52)年、市民の保存の声を受けて、東京都が買収し、自然緑地として残されることになったそうです。
 
 「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」。さすが犬養毅の命名のことだけはあります。

アップダウンもあって、緑豊か。

  
 あいにくの雨、さらに明るさがなくて、携帯写真ではどうも写りがよくありません。 

 しばらく歩いて、「野川」へ。道すがら、この付近のおうちの品評会。蜜柑や栗や柿や外車と、右見て左見て、あれこれおしゃべり。土曜の朝、まだまだ静かな住宅街。さぞかしうるさかったじじばば一行でした。



  
「前原小学校」脇、野川の旧水路。                 現在の野川との合流地点。

 「都立武蔵野公園」に到着。

 広場ではなにやらロックコンサートが。

  
広々とした緑とせせらぎ。                     はけ(国分寺崖線)。

  
カルガモご一行様。                        西武多摩川線。
 
 「西武線」の橋脚を過ぎると、「都立野川公園」。ここも広大な敷地の公園。

雨に煙る風景の格別さI!
 でも、足下はぐちょぐちょ。

薄いピンクの花が満開。「ジュウガツザクラ」。

  
「はけ」からの湧き水がこんこんと。                         概念図。

  

野川公園全景。

 何か気づきませんか? そう、ここはもともと「ゴルフ場」。「国際基督教大学(ICU)」のゴルフ場でした。1974(昭和49)年に買収し、1980(昭和55)年に開園。アップダウンと木々の配置がそのまま残されているようです。

「ゴルフ場」のある頃。
現在。(「今昔マップ」より)

イチョウ。足下には銀杏がたくさん。

 「野川公園」を出て、「人見街道」を左に曲がると、お蕎麦屋「 御狩野そば (みかりのそば)」さん。

 「多磨霊園」が近いこともあって、法事での利用客が多いようです。午後1時前でした。
 お酒を飲み、あれこれつまみを頼み、お蕎麦を食べて、おしゃべりをして、ごちそうさま。見かけによらず、皆さん、お元気でした。
 そして、少し歩いて、「龍源寺」へ。
 
  
        「近藤勇」の胸像。                       お墓。

 こうしてバスに揺られて「三鷹駅」まで戻って来ました。
 ほどよい疲れ具合(飲み具合)でした。またの日を楽しみに。
 これから「女子会」を中野で行うんだと降りていった方々の元気さに、男性陣は・・・。

「小久保こ線橋」。西明石・上ヶ池公園の片隅の「トラス橋」。

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 神戸に住んでいた知人が亡くなりました。同い年ということもあって、突然の死に驚きました。

 さっそく「告別式」に出かけました。「新神戸」で降りて乗り換えて行けば、くらいに軽く考えていましたが、とんでもない。山陽新幹線「西明石」駅からタクシーの方が便利ですよ、と地元の方から聞いて、そうしましたが、けっこう乗りでがありました。

 さて、お葬式も済んで再び「西明石」駅へとタクシーに乗り、ひょんな話から、「廃線」とか「鉄道遺跡」に興味があるんですよ、行く先々で寄るんです、と話したところ、こういうものがありますよ、と運転手さん。その案内で寄り道しました。それがこれ。

 JR「西明石」駅北西にある「上ヶ池公園」の片隅、広いグランドの脇に置かれた一連のアーチ橋。



 「トラス橋」形式のもの。どこかで見たことがあるような、そう、東京・深川の「八幡橋」(元弾正橋)、零岸島の「南高橋」(元の両国橋)、あるいは横浜・みなとみらい「汽車道」の鉄橋、・・・の雰囲気にそっくりの古めかしさ。

 「説明板」によると、この橋は西明石駅の跨線橋だったものをここに移設したものらしく、元々は明治中期に架けられた九州鉄道の鉄道橋。昭和2年に九州から移設し、跨線橋として平成6年まで使用され、新しい橋の架設に伴いこの公園に移されたとのことでした。



「小久保こ線橋」の歴史 

 西明石の北と南を結ぶ道路としてJR山陽本線上に架けられていた「小久保こ線橋」は橋桁として古い歴史を持ち、百有余年の永い間、その役目を果たしてきた。
 新しい陸橋の新設に伴い、この地に移設し、その歴史をここに刻み、末永く保存することとした。

 この鉄橋は、明治23年(1890)、当時の九州鉄道株式会社(現、鹿児島本線等)が鉄道橋として、ドイツのハーコート社に発注、技師ヘルマン・ルムシェッテル(1844―1918)の指導の下で建設された70連余りのトラス桁の一つである。
 昭和の初め現西明石駅構内に鉄道省の機関区が設置されるに伴い、小久保・鳥羽から藤江・松江に通じる林道の代替道路が作られた。
 その際、鉄道橋として使われていたトラス桁を転用して昭和2年(1927)に延長65mの「小久保こ線橋」が建設された。
 その後、戦中、戦後の激動の時代を経て、昭和36年(1961)、鷹取・西明石間の複々線化に伴い、こ線橋は88mに延伸された。
 そして、平成6年(1994)新こ線橋(西明石陸橋)の完成によって永い勤めを終えることになった。
 幾星霜の風雪に耐えて、その役目を終えたこの「こ線橋」は今、終生の地となるここ西明石・上ケ池公園で人々の憩う姿を静かに見守っている。
                       
                 平成7年3月      明石市

説明板からの「小久保こ線橋」。
    
トラス橋

 鉄の部材同士が自由に回転できる状態(ピン結合)にしたものを三角形状に組み立てた橋のこと。
 接続部にかかる負担を、水平、斜め、鉛直に分解される為、負担がかかっても隣接する部材に負担をかけない。故に三角形状に組み立てるトラス構造は安定性があり、強い構造といえる。
 さらに各部材に働く応力は、上弦材(合掌部)には圧縮力が働き、下弦材(梁部)には引張力が働く。支点に近いほど働く力は大きい。 下弦材(梁部)の中央部ほど、引張力は大きいが、斜め骨組材にかかる荷重は中央部ほど小さいというのが特徴。

HPより)。

 また、この橋桁の構造は、「ボウストリングトラス」とよばれるものだそうだ。

 ボウストリングトラス (Bowstring truss) とは、上弦と下弦がそれぞれ弓(ボウ)と弦(ストリング)のような形状となっているもの。
 日本では、1890年代にドイツのハーコート製のプレハブ式のものが70連ほど導入された。プレハブ式であったのは、組み立てに簡便なことを狙ったもので、そのためにピントラス構造であった(ドイツ国内では剛結合が一般的であった)。九州鉄道は47連を導入したが、その後、車両の大型化に伴い架け替えの必要が生じた。架け替えの理由は部材の劣化ではなく、単に設計荷重が少ないためだったので、それでもよい道路橋などに転用された。
(以上、「Wikipedia」より)

 「プレハブ式」というのが興味深い。三角形を基本構造の一単位として、それらをつなぎ合わせていくという発想。

 したがって、各部の接合にボルトとピンを多様しているのが特徴。

  

  
 説明板とピンの展示。

ピントラス橋梁

 三角形の構造体を一単位としたトラス橋では、連結部が自由に回転しなければならない。この条件を満たす為、貫通ピンの構造にした橋梁をピントラス橋梁という。

  

 じっくり細部まで観察したかったですが、新幹線の時間も迫ってきて、ここまで。

  
 振り返ると、かつての姿のように鉄道線路の上を歩いているような雰囲気になりました。

「上ヶ池公園」入口。
 
「元弾正橋」(都内最古。国産の鉄で作られた最初のもの)。

「汽車道・第一橋梁」(アメリカ製。「第三橋梁」はイギリス製)。

「南高橋」(旧「両国橋」の一部を再利用、車道として今も現役)。

 なお、「小久保こ線橋」と同じ、ドイツのハーコート製の橋として現存し、日本で最古の鉄橋とされるのが、大阪にある「緑地西橋」。

 緑地西橋(りょくちにしばし)。
 大阪府大阪市鶴見区にある大阪市道に架かる道路橋。全長36.7mのアーチ橋であり、日本現存最古の鉄橋と言われている。
 もともとは、長堀川に架かっていた鉄橋の旧心斎橋であり、旧心斎橋より撤去された後、途中3ヵ所にて橋梁の移設・撤去を繰り返した後、現在地に移設されたものである。現在の本橋梁では、旧心斎橋からボウストリングトラス桁の主構のみを転用し保存している。
 1873年(明治6年)にドイツより輸入されたドイツ・ハーコート(Harkort'sche Fabrik)製である。また、トラスの部材(錬鉄製)をボルトで締めて連結組立てを行う、プレハブ式であるのが特徴である。なお、橋床にあたる部分には鋼桁橋が架かっており、トラス桁自体が支える構造にはなっていない。
(以上、「Wikipedia」より)

 この「小久保こ線橋」は、公園内の散策路の一部として平地に設置され、橋としての用途はない。しかし、初期の日本の鉄道を支え、その後もこうして市民に結びついた橋として100年以上も現役を勤めているのはすばらしいことです。

明石大橋。但し、駅のポスター。

 新幹線の西明石駅は一時間に一本。

閑散としたホーム。

  
 猛スピードで過ぎ去る下り線。                 一瞬の出来事。


小田原。板橋見附。古稀庵。小田原上水取入口。・・・(箱根路。その1。)

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 このところ、「都内の坂道」などついつい回り道ばかりしていて、「旧東海道」編の記録が滞っていました。久々のシリーズ。

 といっても、実際に出かけたのは、10月25日のこと。今日からしばらくその報告をします。

 「小田原駅」(箱根口)から「箱根一里塚(22番目)」、「石畳道」付近まで。
 まだ時期的に紅葉シーズンには早くて(現在はどうでしょうか?)少し彩りに欠けるコースでしたが、気分のいい山道を含めての探索。

 当日は、「JR・小田原駅」に11:20頃到着。「小田原城」を今回も横目で見ながら歩き始めて、「箱根路」の途中で14:30頃。そこから循環バスに乗って「小田急・箱根湯本駅」へ。さらに「小田原」で乗り換えて戻って来ました。

  
 「小田原市立三の丸小学校」。この付近は、『都市景観大賞』を受賞した地域。小学校の校舎も「小田原城」に似つかわしい建物。

「すじかいばしちょう」。
 ここからスタート。

「筋違橋町(すじかいばしちょう)」

 橋の名が町名になっているが、橋についての資料は見当たらない。 町内の東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ延びている。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣1、旅籠(はたご)が11軒ほどあった。

 旧東海道筋。昔ながらの風情の店があります。
  

「諸白小路」。

 小田原藩主稲葉正則の時代、この地に上方から杜氏(とうじ:酒をつくる頭または職人)を招いて諸白酒(もろはくしゅ:仕込み用の蒸米も麹米もよく精白したもので醸造した酒)をつくらせたことから、この地名が生まれたといわれているとのこと。

 いよいよ「板橋見附(上方見附)」跡から箱根路に向かいます。その前に、東海道線の高架橋の手前、「早川口」交差点近くの歩道橋脇、「早野歯科医院」そばにあるのは、

「人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡」。

 明治29年3月、熱海方面への陸上輸送路として豆相人車鉄道が開設され、早川口が小田原駅となった。 明治41年に軽便鉄道とし、小田原電鉄からの乗換駅として、この地方の交通に恩恵を与えた。 大正11年12月、国鉄熱海線が真鶴まで開通したことによって、その任務を全うした。

 「Clip & Scrap | 軽便::豆相人車鉄道 - TOY TRAIN」www.toy-train.com/sb/sb.cgi?cid=27 さん、現地踏査の写真も豊富。

 この鉄道に関してはその他にもいろんな方々が興味あるレポートをしております。

 「はまだより・豆相人車鉄道」hamadayori.com/05/zuso.htm

 小田原~熱海間に『豆相人車鉄道』が開通したのは 明治29(1896)年のこと。 ... 鉄道馬車では無理と判断され, また 蒸気機関車を使った軽便鉄道は 開発投資が大きく採算が合わないという理由で, 人車鉄道が適当と ... 乗客の乗った人車を 3人の車丁が押している, 凝ったデザインの石碑である。 豆相人車鉄道. 「豆相人車鉄道」は雨宮啓次郎氏と, ...

 ぜひ探索したい廃線跡です。

豆相人車鉄道について

人車鉄道の歴史
 人車鉄道は明治29年に小田原から熱海までレールの上を人間が押して走る珍しい鉄道として開業しました。その後軽便鉄道になり、人力でなくなりましたが大正12年の関東大震災まで、軽便鉄道として運転されました。丹那トンネルの開通で東海道線が熱海まで通るようになるまで、温泉地への足として利用されました。
 人車軽便鉄道の小田原駅は、お城南通り商店会の中にある早川口歩道橋際の早野歯科医院のところにありました。歩道橋の脇に記念碑がたっています
 往時は料亭や待合どころ・商店も立ち並んでおり、湯河原、伊豆山、熱海などへ行く湯治客等で賑わっていました。湯本方面へも国府津・湯本間に電車が通り、中継地点としても賑わっていました。
 片野屋呉服店の店内に資料とジオラマが展示されています。ぜひご覧ください。

HPより)


「御組長屋(おくみながや)」。

 江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口と井細田口の三つの出入口の沿道には、先手筒(先鋒の鉄砲隊)や先手弓(先鋒の弓組)などの組が住む御組長屋(新宿町組、山角町組、竹花町組)が設けられていた。その中で地名となって残ったのは、ここ、山角町組だけである。

バス停「板橋見附」から、JR東海道線をはさんで小田原中心部を望む。

 新幹線の橋脚の手前を右折して進む道が「旧東海道」。分岐点の案内図。
  
                                         かつての「見附」のようす。

 

国道1号(現東海道)からの分岐点。ゆるやかな曲り口。

新幹線の下をくぐると、車もほとんど行き来しないぐっと静かな道筋になります。

 その手前には、小田原大久保氏の氏寺「大久寺」、徳川家光の乳母である春日局が開基した「光円寺」など見所がありますが、省略して先を急ぎます。

  
                              板橋旧道。

「街かど博物館・豆腐」。

 しばらく進み、右に折れて坂道を上ると、「古稀庵」。

  

 「古稀庵」は、明治の元勲山県有朋が明治40年(1907)に構えた別荘。「庭園」がいいらしいですが、「日曜日のみ見学可」なので、残念ながら門前で引き返す。他にも老夫婦がきびすを返して下って行きました。

 古民家が公開されていました。なかなかの趣。

「板橋地蔵尊」脇の旧道。親子連れがのんびりと散歩中。

 しばらく行き、「上板橋」の交差点・信号で、国道1号線に再び合流します。

  
来た道を振り返る。

 国道の左手が開け、「早川」が見えてきます。

 「小田原上水(早川上水)」取入口が眼下に。
 
  

説明板。

小田原用水(早川上水)取水口 

 小田原用水(早川上水)はこの地で早川の川水を取り入れ、板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、板橋見付から旧東海道を東に流水して古新宿を通り、江戸口見附門外蓮池に流れ出たもので、道中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。
 この古水道は小田原北条氏時代に施設されたものと思考され、我が国の水道施設の中では初期の頃の水道と思われる。江戸時代になっても利用され、城下17町の飲料水として利用されていた。
 その後上水道から下水道と姿をかえ、昭和31年市内電車撤去による国道の大改修によって面目を新たにした。
 なお、近年道路工事中に、江戸時代のものと思われる分水木管が発見され、その一部が市立郷土文化館に保管されている。


 小田原北条氏時代に、小田原ではすでに上水道がつくられ、城下での飲用水として使われていた。その「取水口」がこの場所で、「早川」の水を取り入れていた。

  
  遠くに山の中腹を通る「小田原箱根道路」。               箱根の山並み。

 しばらく国道を進みます。

     
         箱根登山鉄道。                 「(日本橋から)87㎞」ポスト。


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「板橋地蔵尊」付近。板橋村の集落の北側に沿って流れる用水路が「小田原用水」と思われる。

象ヶ鼻。風祭一里塚。日本初の有料道路。山崎の古戦場。・・・(箱根路。その2。)

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 「小田原厚木道路」の高架下から、「旧東海道」は、国道1号線から右手に分かれて、「箱根登山鉄道」の踏切を渡ります。踏切を渡ってすぐに右へ線路に沿って登る小道があります。奥には古びた門。

  
                                    「説明板」。
 
 日蓮聖人霊跡 

 文永11年(1274)日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴く途中、5月13日、当所を通り巨石象ヶ鼻(石の形が象の鼻に似ている処からそう呼んでいた)の上に登られ、遠く房総の諸岳を望んで故郷忘れ難く、遙かに亡くなられた両親を偲ばれ、回向して冥福を祈られ、お曼陀羅本尊を書かれ、石の宝塔を建て、首題釋迦牟尼佛多宝如来四菩薩を刻し、衆生済度の病即消滅を祈願された。
 その後この地をお塔のふた親さんと呼ばれ里人信仰をあつめた。永仁元年(1293)僧朗慶日蓮の弟子がこの地に来て師の旧跡であるこの地に寺を建て象鼻山妙福寺と命名、下総国葛飾郡中山村大本山法華経寺(末寺)同宗の人々はもとより一般里人から礼拝されていた。おしくも大正二年廃寺となり同村蓮正寺に合併され、現在は同市板橋に移り御塔山生福寺となっております。
      神奈川県皇国地誌残稿より

昭和47年8月13日
      日蓮聖人讃仰の有志一同
 

「踏切」を振り返る。

 静かな通りになります。  

 この地域は、「風祭」地区。

「風里(かざり)」。民家の喫茶・軽食のお店。

道ばたには祠。

「小田原の道祖神。風祭の一里塚塚」跡。(赤く塗ってあるのは、選挙ポスターのため。)
                 
                     「21番目の一里塚」。
東海道風祭の一里塚 

 ここは、旧東海道に設置された江戸から21番目の一里塚があった場所である。
 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。
 風祭の一里塚については、天保年中の相模国風土記稿に「東海道側に双堠あり、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里堠に続けり」とある。

       
    のんびりと歩く旧道。まだまだ道はゆるやか。道幅もかつてのままのよう。

  
              通りの両側には、ミカンの木など。
 
小田原城主稲葉氏の墓所のある「紹太寺」付近から西を望む。

 「入生田」駅の先で踏切を渡ります。中央奥が「入生田」駅。



 国道1号線に沿ってさらに進みます。

  
「箱根登山鉄道」橋梁に「駒ノ爪」とある。             その先に「駒ノ爪橋跡」碑。

駒ノ爪橋跡 

 天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の、入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90センチ)幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と載っています。
 これには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひづめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。
 そこで、旅人は「石に足跡をつけた頼朝の馬の頑健な脚にあやかりたい」と、道中足が痛まないよう祈願したということです。
 後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古希庵の庭園に使われていたようです。
                                    箱根町
 国道1号線と合流する直前には、

「日本初の有料道路」碑。

日本初の有料道路

 明治8年(1875)9月、小田原の板橋から湯本まで全長4.1km幅員平均5メートルの我が国初の有料道路が開通しました。
 江戸時代の東海道を拡げ、2か所の急坂を人力車が通れる勾配の緩い道に付け替えました。碑が建っている道は、その時に付け替えた道です。
 開通した日から5年間、道銭(通行料)を取りました。人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘でした。
 この道路の開通で、人力車はもちろん、間もなく乗り合い馬車も入ってきました。かの福沢諭吉から「箱根山に人力車の通れる道を造れ」と提言され、二宮尊徳の高弟として知られる福住正兄が建設の先頭に立ちました。
                          箱根町

  
                合流点。微妙に広い空間がある。   歩道は線路脇の石段へ続く。

旧東海道の付け替え道を振り返る。

  
 線路沿いの歩道。ススキがたくさん。         混み始めた国道1号線。
  
「箱根町」交通安全のモニュメント。

  

 再度国道1号線に出る緑地帯に「山崎の古戦場」の石碑があるはずだが、この付近一帯、大規模な道路工事中。緑濃き一角あたりかと思うが確認できず。

 小田原藩を先鋒隊とする官軍との交戦の場に建てられた碑。「戊辰戦争山崎の戦い」と呼ばれている。
 
山崎ノ古戦場 神奈川県足柄下郡箱根町湯本

 明治元年(1868)5月26日、山崎村に布陣した遊撃隊と同盟から一転恭順の姿勢を示した小田原藩が激戦を繰り広げた古戦場跡。小田原藩の後詰めには長州、鳥取、津、岡山の諸藩が新政府軍として派遣されており、激戦の末、遊撃隊は箱根関所方面への退却を余儀なくされた。

HPより。)

箱根に向かう下り線は渋滞中。小田原方向を望む。

 しばらく国道1号線沿いに進むと、「三枚橋」。橋を渡って旧東海道へと進みます。
 

「三枚橋」。箱根街道一里塚。石畳道。・・・(箱根路。その3。)

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 「三枚橋」を渡って、「旧道」へ。

「三枚橋」。遠くに見えるのが、「箱根湯本」駅。

 曲がりくねった上り道。上り下りの車も多く、またサイクリングの人たちも勢いよく下りてくる人、あえぎあえぎこぎながら上る人、・・・歩いている人はほとんどいません。道も狭く、カーブもあり、きょろきょろして歩くのには要注意。

この先には「コンビニ」。上り下りのツーリングの人達が小休止中。

「下宿」。

 旧道には、「下宿」「中宿」「台の茶屋」とかつての賑わいを見せる地名が残っています。現在は、温泉宿が並び、街道筋らしい落ち着いて、ひなびた雰囲気を醸し出しています。近代的なホテルの建て物もそうした景観を考慮している感じ。

まだゆるやかだが、ひたすら上りが続く。振り返る。

 「早雲寺」前。

 「早雲寺」は、1521年(大永元年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言により北条氏綱が創建した臨済宗大徳寺派の寺院。開山は大徳寺八十三世の以天宗清。
 本尊は釈迦三尊仏(室町時代)。
 小田原北条氏の菩提寺として栄え、1542年(天文11年)には後奈良天皇の勅願寺となったが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、秀吉軍の本陣が置かれ、石垣山の一夜城が完成すると焼き払われた。
 その後、1627年(寛永4年)、十七世菊径宗存によって再建されている。

  「惣門」。

 早雲寺を過ぎて、ゆるやかな上り坂の道はS字カーブとなる。

  
湯本中宿。

来た道を振り返る。

祠。

曲がりながら上っていく。

「箱根街道一里塚跡」碑。日本橋から22番目の一里塚。本来の場所は少し前方に行ったところにあったらしい。

「台の茶屋」。

 湯本茶屋の集落を過ぎ、右斜めへ下る道を下ると石畳の道となります。この道は約300mほどで県道に合流するが、箱根路に入り初めて旧東海道の石畳道を歩けるところ。

  

 国指定史跡 箱根旧街道入口
 
 江戸幕府は延宝8年(1680)に箱根旧街道に石を敷き、舗装をした。この先から約255メートルはその面影を残してあり、国の史跡に指定されている。
 この道は県道に通じ、元箱根方面への近道となる。

  昭和50年3月25日 箱根町教育委員会

  
 見た目以上に木々に覆われ、明るさが不足し、思ったよりも携帯では写真が撮りにくかった。
 
 小さな沢に架かる橋が「猿橋」。そのそばにネコがこちらをじっと。   

  

 足下は石畳(歩きにくいことは歩きにくいが)ですが、右手はフェンスで木の間越しにホテルの裏手とあまり情緒のない石畳道。正直なところ、「案内板」がなければ歴史を感じる道ではないように思います。この先、もっと「らしい」道が登場することを期待して。


 眼下にホテルが広がっています。
      

舗装道路に合流。いよいよ本格的な上り道。今回はここまで。

 次回は「箱根峠」へ。といっても、なかなか来られそうもない。 

森鴎外旧居。時の鐘。旧岩崎邸。いつしか日もとっぷり暮れて。・・・(じじばばがゆく。「池の端編」。)

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 前日の雨とはうって変わった穏やかな晩秋の日差しに誘われて、「谷根千」へ。といっても、「鷹匠」でお蕎麦を食べて、そぞろ歩き。お酒も、おつまみも蕎麦もけっこうなお味。お客さんも少なくて、ゆっくりとできました。
 さて、お店を出てからは坂道を上ったり下ったり、と、この辺りは何回も来ているので、少し南に下って(文京区と台東区の区界・「旧藍染川流路」跡の細い路地を通って)、不忍池方面へ。
     

「水月ホテル 鴎外荘」入口にある「森鴎外旧居跡」碑。

森鴎外旧居跡

 森鴎外は文久二年(1862)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
 明治二十二年(1889)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
 同年八月に「国民之友」夏季附録として、「於母影」を発表。十月二十五日に文芸評論「しがらみ草子」を創刊し、翌二十三年一月は処女作「舞姫」を「国民之友」に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官よしても活躍した。
 しかし、家庭的には恵まれず、長男於莵が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。

     平成十五年三月             台東区教育委員会

 明治の文豪で陸軍軍人であった森鴎外の旧居には「水月ホテル 鴎外荘」が建っており、森鴎外の自筆原稿、写真など貴重な資料も保管・展示されています。また、敷地内の内庭には旧居の―部と樹齢300年と推定される木が残り、「舞姫」の題字、署名、本文ともすべて鴎外直筆の毛筆原稿からとられた「舞姫の碑」の文学碑も建っています。


  
 文学碑。「舞姫」の一節が刻まれている。

彼は幼き時より物讀むことをば流石に好みしかど手に入るは卑しき「コルポルタージユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを余と相識る頃より余が借したる書を讀みならひて漸く趣味をも知り言葉の訛をも正し幾ほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ、かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき

 ・・・碑の文字は鴎外の毛筆書き「舞姫」の原稿から子息森 類が選定した。碑に刻まれたものでは唯一の直筆です
                                            長谷川泉 撰

  「舞姫の間」。

ホテル奥のロビー。

 近くに「上野精養軒」があるので、外のテラスで、しばしお茶を。隣のテーブルでは、老いた二人連れが、健康談義。こちらも話すことは相違ない・・・。

 その帰り際、上野公園にありながら実は初めて見上げたのが、「時の鐘」。
 
時の鐘(ときのかね)

 台東区上野の寛永寺に現存している時の鐘である。上野大仏の近くに建っている。
 多くの「時の鐘」が江戸市中にあったが、上野の最初の鐘は1666年に。その後、1787年に現存する鐘ができた。谷中感応寺で製造され、正面には「東叡山大銅鐘」、裏側には「天明七丁未歳八月」と彫られてある。
 また、「享保撰要類集」には時の鐘が鳴る順番として上野、市ヶ谷、赤坂田町円通寺、芝切り通しとの順番で鐘が鳴ったという。 1996年6月、環境省の残したい日本の音風景100選に選ばれた。今でも時の鐘は午前・午後6時と正午に撞かれている。

 「花の雲 鐘は上野か 浅草か」松尾芭蕉

 この句は有名ですね。
 
  

 夕暮れも近づきつつある、晩秋。
 もう少し行ってみるかということで(というより、この前の「坂道行脚」で入りそびれた)、「旧岩崎邸庭園」に向かいました。すでに4時を回っていて、もう室内の明かりが灯されている。なかなかの風情がありました。

  

 この洋館は、1896(明治29)年、岩崎彌太郎の長男で三菱三代目社長の岩崎久彌の本邸として造られたもの。往時は約1万5千坪の敷地に20棟もの建物が並んでいたが、現在は3分の1の敷地になり、洋館、撞球室(ビリヤード室)、和間大広間の3棟のみ。
 まあ、内装から何から、豪華絢爛。当時の庶民の(今でも)暮らしぶりからは想像も出来ない豪邸。近代住宅建築史上、希有の建物としての評価が高い、らしい。

1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。Aが現在の洋館、Bが和館、Cが「撞球室」以前の建築物? →の庭は築山風で池になっています。

 なお、「Wikipedia」によると、

 「旧岩崎邸庭園」として公開されているのは旧邸宅敷地の一部にすぎず、かつての敷地は、西側の湯島合同庁舎、南側の湯島四郵便局や切通公園一帯を含んでいた。
 旧岩崎邸の敷地は、江戸時代には越後高田藩榊原家(現在の新潟県上越市高田)の中屋敷であった。明治時代初期に牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となり、1878年(明治11年)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入したものである。現存する洋館、大広間(かつての和館の一部)などは、岩崎財閥3代の岩崎久弥によってジョサイア・コンドルの設計で建てられ、1896年(明治29年)に竣工したものである。1923年(大正12年)の関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放された。
 1945年(昭和20年)、GHQが接収、諜報機関「キャノン機関」本部となり、さらに敷地全体が国有化。GHQから国に返還された後、1969年(昭和44年)、司法研修所庁舎建設のために和館の大部分を撤去。湯島ハイタウン、池之端文化センター等の建設により敷地が約1/3となった。とのこと。

 上記の地図(1880年頃のようす)は、初代・岩崎彌太郎が邸地を購入した頃のようすを示しているようです。

1970年頃のようす(「同」より)。
 敷地の西側に接する建て物は「司法研修所」庁舎(改修後、現「国立近現代建築資料館」)等。

列柱の並ぶベランダ。
 東南アジアの植民地で発達したコロニアル様式を踏襲したものらしい。1階の列柱はトスカナ式、2階はイオニア式の特徴をもつ、らしい(といっても、何のことやらわかりませんが)。
 また、2階客間に貼られた「金唐革紙」の壁紙の豪華さ、精密さには驚きます。

和館大広間。書院造りを基調にした建て物。
  
  
 撞球室。スイスの山小屋風の造り。校倉造り風の壁。洋館からは地下通路でつながっていた。

 これに対して、芝生を敷き詰めた広い庭。変哲のなさが気になる。おそらく元々は池になっていて、回遊式の庭だった。


 こうして、午後の半日。そぞろ歩きの末に、御徒町の「釜飯 春」に立ち寄ってお開き。最後はこのお店の雰囲気、客あしらい、出てきたものへの軽い批判を交えての食事でした。

 年を取ると、お互いの立ち居・振る舞いが気になるのですね。注意!ちゅうい!

西武新宿線・南大塚駅下車。安比奈線をたどる。その1。

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 先日、「朝日」夕刊のシリーズ囲み記事「各駅停話」で、西武新宿線の「南大塚」駅・「安比奈線」が取り上げられていました。この路線、以前から話には聞いていたので、さっそく出かけることにしました。「南大塚」駅に12時少し過ぎに着いて歩き始めました。

 ところで、この「安比奈線(あひなせん)」。
 「Wikipedia」によると、

 埼玉県川越市の南大塚駅から同市内入間川沿いの安比奈駅へと至る西武鉄道の貨物線である。1967年(昭和42年)から、長らく休止されたままとなっている。あくまでも「休止中」であって廃止ではないが、周囲の道路の橋脚が建築限界を侵食して建設されていたり、線路が寸断されている個所も多数存在していたりと、現状では列車の運転は不可能であり、実質的には廃止状態である。書籍などによっては「廃線」とされているものもある。

 なお、当路線が延びている入間川の対岸には安比奈新田(あいなしんでん)という地名があるが、安比奈線の安比奈の読みは「あひな」である。

《歴史》

 入間川で採取した砂利の運搬を目的として1925年(大正15年)2月15日に開業した。
 入間川での川砂利の採取が1967年(昭和42年)に禁止され、当路線は休止された。一時期、西武鉄道の貨車の留置・解体に使われたこともあったが、路線としては復活も廃止もされることがなく、休止されたままとなっている。

《現況》

 現在、線路や架線柱などは残されているものの、ほとんど整備はされておらず、即座に運行再開できる状態ではない。枕木は朽ち果て、国道16号の横断など踏切はほぼすべてアスファルト舗装で埋められており、八瀬大橋への取り付け道路は路線を完全に遮っている。
 長らく放置され、かつては線路上を歩くこともできたが、枕木の腐朽が進んで危険なことから、踏切など線路に入れる場所にはすべて柵が取り付けられた。また敷地内への立ち入りを禁止する旨の看板も設置されている。
 2006年(平成18年)11月5日、西武鉄道の前身川越鉄道の開業111周年を記念した「小江戸川越鉄道開設111周年記念フェア」の関連イベントとして、「幻の貨物線西武安比奈線を歩く」が開催された。イベントにあわせて一部手入れがなされたようであり、「廃線ではない」ことをアピールしている。
 川越が主舞台となった2009年(平成21年)上期のNHKの連続テレビ小説『つばさ』のオープニングシーンで当路線の一部(池の辺の森 - 池部用水橋梁付近)が映し出されている。写真では枯葉のシーズンの廃線跡が掲載されている。また、劇中でも川越市内を電波調査して回るシーンがあり、つばさ(多部未華子)と昌彦(宅間孝行)が線路脇を歩いたほか、竹雄(中村梅雀)が妻の加乃子(高畑淳子)を乗せたトロッコを押して走り続けたら西武新宿駅まで行ってしまうシーンがあった(実際には線路が分断されているので行くことはできない)。
 最終回終盤の場面では当路線にて翔太(小柳友)がつばさの乗ったトロッコを押して走るシーンがあった。また番組放送に合わせ、2009年(平成21年)4月から9月末日までロケ地が遊歩道として開放され、撮影時使用されたトロッコも展示されたほか、放送を記念した見学イベントも開催された。同年12月放送の『つばさ総集編』前に放送されたスピンオフ『好きと言えなくて。青春編』にもトロッコを押して走るシーンが撮影され放映された。

《安比奈線復活計画》

 1980年代末、西武新宿線の旅客増に対応するため上石神井駅 - 西武新宿駅間を複々線とする計画が発表され、それに伴う車両の増備のために安比奈駅に新しい車両基地を作る計画が浮上した。川越市と狭山市では仁杉巌社長(当時)が出席し地元説明会も開催された。当路線の旅客線・通勤線化という話まで出ていたが、少子高齢化などの影響で需要予測が下方修正されたため、この計画は1995年(平成7年)に無期延期となった。
 当路線の復活には、住宅地開発の事業として川越市や隣の狭山市も乗っており、2001年(平成13年)12月の狭山市議会において、狭山市側から車両基地完成は2008年(平成20年)3月ごろの見込みとの答弁があった。南大塚駅すぐ横の国道16号や八瀬大橋との交差問題や、安比奈駅周辺の土地買収に反対している少数の地主がいるために難航しているが、すでに西武建設安比奈作業所が設けられ、車両基地設置のためのトラック進入路整備などの工事は行われている。合意が得られていない地権者がいるため、現段階の計画では車両収容数は200両の予定だが、合意が得られ次第300両にするとしている。300両収容が実現すれば、当車両基地は新宿線系で最大となり、本所が南入曽から変更されることも考えられる。
 なお川越市では、当路線の復活とともに将来的に新駅設置と的場駅まで延伸する構想があり、市議会で度々議題にあげられている。
 西武鉄道本社の見解としては、「西武新宿線(支線を含むと推測される)の車両収容限界が近づいており、ゆくゆくは新たな車両基地を安比奈に建設する予定」との姿勢を変えていない。そのため、近年周辺整備を始めている。そのせいか、線路が分断されているにもかかわらず、割と新しいPC枕木が挿入されている個所がある。しかし、西武鉄道からの復活に関する発表は未だにない。


   下り線ホームから見たところ。                同(新狭山駅方向)。

 「南大塚」駅。現在は相対式ホーム2面2線の地上駅だが、かつては、構内踏切のある島式ホーム2面4線の形態であった、らしい。その名残が線路配置等に見られるようだ。

《地図上の変遷》

昭和初期(「今昔マップ」より)。開業当初。
昭和40年代初め。「入間川」砂利採取禁止前後。
昭和50年代初め。休止線の表示。
現在。地図上で線路は分からない。

左側の線路。
 但し、中央左奥に見える架線柱の位置とずれている。もう少し左側の道路沿い(あるいは道路そのもの)が本来の線路と思われる。

 地上に降りていよいよ探索開始。

まず本線との合流地点を探索。新狭山駅方向へ。



↓から↓へ来て本線と合流している。

 その先の踏切のところにレールが埋め込まれている。

「新狭山駅」側は、レールが切断されている。
 これは南大塚駅構内支線の一部が残っているものか?

  
                       「南大塚駅」方向を望む。



「0」。「安比奈線」の起点。


 ここからいよいよ本格的なスタート。

 いきなり線路は途中で途切れ、コンクリート製の枕木が行く手を阻むようにたくさん積まれている。
        

  
 新設道路上の真新しい線路(びっしり道路に埋め込まれていて走れる状態ではない)。進むべき線路の方向(かつての方向)と右に少しずれている。どういう意図があるのか? 

  
              架線柱が残っている。このあたりは、けっこう広いスペースになっている。

雑草の中の線路。

 カーブを描きながら進むと、国道16号線と交差する。

正面の広い通りが「国道16号線」。

振り返って「南大塚」駅方向を望む。

この辺りから直線になる。
 交通量の激しい「国道16号線」。復活したとしても、この交差をどうするか?

 国道上には線路はいっさいなく、両側の歩道に残っている。

 向こう側に行くのには、少し離れた横断歩道か、歩道橋しかない。ぐるっと迂回して線路脇を歩くことに。

  

線路をふさいでいる支柱。

柵でがっちりガードされている。

西武新宿線・南大塚駅下車。安比奈線をたどる。その2。

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 この付近は、住宅や工場などに囲まれた一角。再開となると騒音、震動などで住民の反対運動が起こりそうな雰囲気。

  

 次第に住宅密集地から田園風景の広がる地域へ。

 鉄道敷地も線路と架線柱を残したまま、花壇や家庭菜園などに利用されてきます。

草むらに残されたレール。

そのレールも不確かなものに。

  
 線路脇には手入れの行き届いた草花たち。
 
 沿線の人達による思い思いの花や野菜が。

 行き止まりになるので、線路から離れて「入間川街道」を歩き、右折すると、再び線路に出会う。

「入間川街道」。

道路上のレール。

線路を振り返る。直線で伸びている。

再び、道路上にレール。

 田んぼや畑の中を直進する。

 田んぼの中にところどころに鉄橋が敷設されています。

最初に出会った?用水路上の鉄橋。

次のは大きい。

かなり腐食している。

田んぼや畑の中を行く鉄道。ローカルな雰囲気。

  
                      あぜ道のように盛り土された線路。

 まっすぐに入間川方向に進む線路。

  
               農業用水路を越える、朽ちた鉄橋が行く先々に。



 すっかり木や下草に埋もれてしまったレール。

  
 田園風景そのもの。この中を電車が走っていたと思うと、郷愁の世界。

時には、こうして小さな道路を横切る。


西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その3。

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 中央奥の森へ線路は一直線で吸い込まれていく。
     

 森の奥には、思いがけないすばらしい風景が広がっていく。

来た道を振り返る。

  森の入口。

木漏れ日の中の線路。紅葉が見事。

  

                  

 森を抜け、道路を越えると、鉄橋。この森の道は、整備された遊歩道。しかし、「まむしに注意!」 の看板が随所に。


 この道は、川越が主舞台となった2009年(平成21年)上期のNHKの連続テレビ小説『つばさ』の番組放送に合わせ、2009年(平成21年)4月から9月末日までロケ地が「遊歩道」として開放されたところのようだ。5年も経って、忘れ去れてしまったのか? 小心者の小生、鉄橋を渡ってすぐ引き返した。

  

 冬の日だまりを求めて歩くにはいいところではあります。もう「まむし」も出てこないと思うから。・・・

 「入間川」を渡る「八瀬大橋」南の交差点。遠くに白雪に輝く富士山が見えました(↓)。


  

「八潮大橋」からの「入間川」。

 肝心の「安比奈線」は、「八瀬大橋」の橋脚にはばまれてしまいました。
  

 架線の支柱もすっかり緑に覆われています。

 「安比奈」駅の方はどうなっているのだろうか? 

 ところが、橋の向こう側に通じる道は見当たらない。下には道路が見えるし運動公園もあるし、・・・。そこで、交差点に戻り、道を探してようやく橋の向こうに行く小道を見つけました。産廃が散らかった橋の下をくぐると、そこにはレールが。



 レールはずっと向こうまで続いています。

  

西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その4。

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 右手は河川敷なのか鬱蒼とした雑草に覆われていますが、右手は雑草も刈られて原っぱになっていたり、畑になっています。そんな中を線路は続きます。

架線柱はすっぽり緑に覆われている。

線路に覆い被さるように伸びる灌木。

 整地され、明るく開けたところに出てきました。
  

キャンピングカーが何台か。バーベキューを楽しんでいるグループの姿も。

  
 左手に「National Park Kawagoe」「NPO法人こども二輪塾」の施設。

子どもの居場所づくり 心身の成長を願って...NPO法人こども二輪塾 事務局 TEL: 049-242-8419

 今年は平成16年6月30日の設立から10年の節目を迎えます。
これまでに様々な出来事があり、難局に直面したこともありました。それを乗り越えて来られたのは皆様のお陰であり、感謝の気持ちで一杯です。日頃から、ご協力いただいている講習の先生方、関係各位に御礼申し上げます。
私たちは小さなNPO法人ですが、大きな志と強い信念のもとに設立し、歩み続けています。設立当初からの趣旨 にご賛同いただいている皆様とともに、今後も歩み続けてゆきたいと考えております。
これからもよろしくお願い申し上げます。

        (HPより。)

 きちんと許可を得てのユニークな活動。何組かの親子連れが訪れていました。

 この辺りは整備・整地され、足下に埋まったレールだけがかつての面影。
         

来た方向を振り返る。

  
             コンテナと雑草に埋もれたフォークリフト。

レールは、木の根っこで持ち上げられている。
   
                        鉄道敷地を示す標識。 

左手は整地された耕作地。

さらに進む。(奥に見える朱塗りの橋は、「水道橋」)。

レール上に行く手を阻むように大木が。

閉鎖されてからの年月の長さ。約50年。

西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その5。

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 「水道橋」の先に「安比奈駅」ヤード(操車場)があったようです。
 
 「入間川」を渡る「水道橋」は目を引くような景観を形作っています。 
  
                  青と緑に映える赤く染め上げた鉄橋。

  

 その橋の下辺り、レールは藪の中に消えていきました。

  

 藪の脇の細道をしばらく進むと、広いでこぼこ道に出会います。その先には、架線柱が二つ。ここから南に「安比奈」駅構内が広がっていたらしい。

           

 すっかり蔦に覆われ原形が定かでなくなってしまっている。

  

振り返って望む。

 さっきの藪に消えたレール。「安比奈駅」構内は線路が複数配置されてけっこう広がった大きな駅だったようです。架線柱も何本も立ち、間隔も広くなっています。


 足下のレールは全く目に付かず、藪に埋もれてしまっています。かすかに↓にレールが。


 コンクリート製の遺物。
  

                  
 地上にはこうしたもの以外はかつてここが砂利採掘の集積地であったことをものがたるものは見当たりません。ただ、蔦にからまれた電柱や架線柱のみです。

西武・安比奈線をたどる。西武新宿線・南大塚駅下車。その6。

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 アトランダムに「安比奈」駅構内の写真を掲載します。

 いつまでこうした景観が残っているものやら。

 「廃線」(西武としては「休止線」という扱いだが)探索として都心から近く、最寄り駅の「南大塚」(西武新宿線「本川越」の一つ手前)からはレールをたどり、迂回しながら歩いて、「安比奈」駅まで約1時間ほどで着けます。
 行く先々で、住宅地の生活感あふれる裏道沿い、田んぼや畑のあぜ道、農家の軒先、鬱蒼とした森の中、川原の荒野の中、と行く先々で変化に富んだ鉄道風景を堪能できます。
 特に、晩秋の枯れた世界。朽ちた鉄橋がいくつもあり、蔦に絡まれて電柱が立ちすくむ風景あり、TVの撮影現場跡あり、「まむし注意」多数あり、・・・など充分楽しめました。
 もちろん、がっちり柵があって、「立ち入り禁止」の看板が随所に立っているので、そこはほどほどに・・・。
 ただし、バスの便も悪く、タクシーか(行きは駅前から乗れるが、帰りはまずつかまらない)行き帰りとも歩かなければならない、ゆっくり探索していくと往復3時間くらいは必要かもしれない。
 そういう意味でも、「廃線」探索の面白さ・妙味が充分あるところです。

        

  

        

  

        

  

        

  

        

                

昭和40年代初め(「今昔マップ」より)。

昭和58~62年頃。「水道橋」までが休止線の表示。

平成4年~7年頃。「八瀬大橋」への取り付け道路が現在のようになっていない。この頃までは橋によって分断されずに残っていた(はず)。

現在。「八瀬大橋」への道路が新しくなって、分断されてしまった(○)。また、「安比奈駅」ヤードも消滅している(○)。

須雲川。「女転ばし坂」。「割石坂」。紅葉の。・・・(箱根路。その4。)

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 久々の箱根路。連休初日に行ってきました。「箱根湯本」駅はごった返し。紅葉も見頃。大勢の観光客で大賑わい。その脇を通り抜け、温泉宿周遊バスに乗せてもらい、前回の所まで。宿の正面に着いたので、そこから坂を上っていくことに。

 夫婦連れで同じ方向に目指すようす。他にも何人か同じような目的で歩いている人が前方に、後方に。

 中には、日本橋から京都までを目指しているというご夫婦。けっこう同好の士がいることに、安心。抜きつ抜かれつで芦ノ湖まで行くことに。こちらは、「箱根関所」、出来たらもう少し先まで。
 畑宿のおそば屋さんで一緒になったご夫婦は、何とか今日中に「三島」までと張り切っていました。

 「元箱根」まで9.5㎞。

バス停「奥の茶屋」。
 
 しばらくは舗装道路を上っていきます。

  
 遠くには箱根連山。                                  「葛原坂」。

ホテル「はつはな」付近。「須雲川」インター。

  
「初花の滝」の説明碑。「須雲川」の対岸の山の中腹に初花の滝があるのだが・・・。

  
 道は下り坂になって、「須雲川」の集落に入る。

 この周辺の集落を須雲川といいます。むかしは、川端とも呼ばれていました。この場所に集落ができたのは、江戸の初め寛永の頃です。
 天下の街道となった箱根道を往来する人々のためまた、道を維持管理するために、一定の間隔を置いて集落をつくる必要があったのです。

 集落に入ると県道の幅が狭くなります。江戸時代から? の道幅。まっすぐに伸びている。「須雲川」は江戸期においては立場(休憩所)として栄えたところだが、今は一軒の商店も無い静かな集落。
 集落を抜けると、県道は緩やかな上り坂に。左側には、立派な公衆トイレ。須雲川橋の手前から左に道が入っていく。実は、この道は旧街道ではない。

「女転ばし坂」碑。以前あった場所から移設されたもの。

「須雲川自然探勝歩道」。

 この道標に導かれて私たちもこの歩道に歩みを進めることになるが、旧街道は須雲川橋を渡っていき、橋の向こう側からが「女転ばし坂」だった。

 この坂にはその名が示すとおり、「馬でこの坂を上ろうとした女性が急坂のあまり落馬して死亡した」という言い伝えがあることが寛文十二年(一六七二)の『須雲川村明細帳』に記載されている。当時の坂は現在、須雲川橋向こうの樹木の中に隠れ、歩くことはできない。(「国土交通省 関東地方整備局」東海道を歩く~宿場案内~」HPより) 

  
                     よく整備された遊歩道。

岩がごろごろした「須雲川」を木橋で渡る。

発電所の向こうに二子山。

 バス停「発電所」のところから県道に合流してしばらく進む。

「割石坂」。

 曽我五郎が、富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨岩を真二つに切り割ったところと伝えられています。

  
                           「江戸時代の石畳」。
                     

「須雲川自然探勝歩道」説明板。

 そこには、この石畳は明治、大正時代、元の巣雲川小学校の通学路として一部整備したもの、と記されている。この道が当時の小学生の「通学路」であったわけです。

「箱根路のうつりかわり」説明板。

 「碓氷道」(最も古代)→「足柄道」(奈良・平安時代)→「湯坂道」(鎌倉・室町時代)→「旧東海道」(江戸時代)→国道1号線(現在)

「接待茶屋」跡。「割石坂」にあった。

 県道に合流してすぐに道の反対側には、「大澤坂」。

 江戸時代の石畳が一番よく残っているところだそうで、急坂で石畳が苔むしている。携帯では感度不足。これはほとんどが鬱蒼とした木々に覆われた旧道(特に石畳・坂道)に共通する。携帯写真の限界かもしれない。

  

        
 県道との合流点(畑宿側)。

畑宿。「一里塚」。「西海子坂」。「橿木坂」。・・・(箱根路。その5。)

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 上り着いたところが「畑宿」。

バス停「本陣跡」。



 ここ畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋と呼ばれた旧名主の本屋敷跡です。家屋は約70年前大正元年(1912)全村火災の折、消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。本庭園は、ご覧のように小規模ですが街道に日本庭園として他に無かったようです。
 畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落です。
 この本陣をめぐり一般に余り知られていない事柄があります。安政4年(1857)11月26日、米国初代領事 伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウゼントが江戸入りの途中、ここ休息鑑賞したことです。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
 下田から籠で上京したハリスが箱根関所で検査を受けることになった。その際、ハリスと関所側は検査をめぐってトラブルが起き、下田の副奉行が中に入ってほとほと困り抜いたという。
 ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否したことから副奉行がハリスを馬に乗せて籠だけ検査をすることで関所側と妥協した。ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通った。そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすごぶる良好になったといいます。

明治天皇

明治元年十月八日東京遷都の御途次、
翌年皇后の京都還幸の御途次
同二年三月二十日東京再幸の御途次
小休ナラセラレタ聖蹟です。

「畑宿」説明板。

 畑宿は郷土の伝統工芸箱根細工が生まれ、育ったところです。畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北條氏時代までさかのぼります。
 江戸時代、「畑宿」は箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根寄木細工が旅人の足を止めました。

 
「畑の茶屋」。寄木細工の工房でもある。             「桔梗屋」。「ざるとろ」そばを食す。900円。

旧東海道への入り口。

  
                                     「畑宿一里塚」(右側)。日本橋から23番目。

  
 かつての「一里塚」碑。       平成24年3月に設置された説明板。その奥に見えるのが、左側の塚。

 明治以降、一部が削られるなど、江戸時代の姿が失われてしまっていたが、近年、復元整備を行うことで、往時の様子を現代に伝えている。右側の塚にはモミが、左側にはケヤキが植えられている。
 箱根町に湯本、畑宿、箱根と三ヶ所あった「一里塚」のうちで、ここだけが復元されている。 

  
                     急な石畳道。ほとんど登山道という雰囲気。

目の下は「箱根新道」(国道1号線」のバイパス)。 

 急な上り坂が続く。道ばたには、随所に案内板があって、旧箱根街道の石畳の歴史や構造が絵入りで紹介されている。

 「箱根八里」は東海道最大の難所。標高800㍍を越える山中であることに加え、ひとたび雨や雪が降ると、旅人はすねまで泥につかるありさまで、歩くことが大変困難なところだった。
 そこで旅人の便宜を図るため、江戸幕府は延宝8年(1680)に石畳道に改修した。当初は、石ではなく、箱根山に群生している通称「箱根竹」と呼ばれる細竹が使われていた。
 ところが、道に敷かれた竹は腐ってしまうため、毎年敷き変えなければならず、多くの竹と人手とお金が必要となってしまうため、竹に変えて、石畳とした。小田原から箱根峠までの東坂には現在7ヶ所、3.3㎞にわたって石畳が残っている。

 今に残る石畳道は石は不揃いで、長年の間に摩滅も激しく凸凹で、実はけっこう歩きにくい(特に下り坂)。昔のわらじばきだとどうだったろうか?

 今もスニーカーなど足元がしっかりしていないと、足を取られそうで、ひときわ疲れる感じ。膝の負担も大きい、という贅沢で勝手な思い。 

 
  「西海子坂(さいかちさか)」。

「箱根旧街道」

 江戸幕府は延宝八年(一六八〇)箱根道を石畳道に改修しました。それ以前のこの道は、雨や雪のあとは大変な悪路になり、旅人はひざまで没する泥道を歩かねばならないため、竹を敷いていましたが毎年、竹を調達するのに大変な労力と費用がかかっていました。



 「西海子坂」を登り切ると、県道に出る。「箱根七曲り」と呼ばれているところ。旧街道は、この七曲りをほぼ直角に突っ切って上って行くが、かつての急坂の多くが崩落や荒廃によって、かつてはなかった階段で上り下りするところも多い。

 この階段、意外なくせ者。高さはかせげるが、何カ所も連続すると、いささかうんざり。しかし、この急坂を上っていたかつてを偲べば、わがままも言ってはいられない。



左が県道、右が箱根新道。

  「橿木坂」。

 県道沿いの歩道を少し歩くと、旧街道はまた階段となる。橿木(かしのき)坂と呼ばれていたところであるが、崩落し、今は急な階段となっている。

橿木坂(かしのきざか)

『新編相模国風土記稿』に、「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得」とあります。
『東海道名所日記』には、けわしきこと道中一番の難所なり。おとこ、かくぞ詠みける。
「橿の木の
 さかをこゆれば、
 くるしくて、
 どんぐりほどの、
 涙こぼる」

 階段が長く続き、けっこうきつい坂。しかし、紅葉が見事で疲れもほどほどに。



  

 「橿木坂」の階段を登り切ると分岐になる。まっすぐ行くと、県道で見晴らし台のあるところ。左は「須雲川自然探勝歩道」(旧東海道部分を含む道)の道。

 左折せずに進み、県道に出てそのまま上り、「橿の木平」・「見晴茶屋」跡に向かう。

思いがけず「小澤征爾の碑」。

 貴方は
 今
 歌ってますか

はるか小田原が一望でき、相模湾までよく見える。
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