「国道20号線(現甲州街道)」は道幅も広く、交通量も多い。反対側の歩道沿いに史跡や案内板らしきものがあってもなかなか気づかず、また横断歩道や歩道橋を渡るのもけっこう面倒。そのため、見過ごすものも。そんな国道を西へ向かって進みます。
南側が開けてきて、遠くに山々が。![]()
歩道橋から「国道20号線」の西方を望む。![]()
右手のおうちの脇に何やら解説板が。さっそく反対側の歩道に(10:06)。
潤澤学舎跡
潤澤学舎は、国立第一小学校の前身です。
明治5(1872)8月に学制が制定され、各村に学校の設置が義務づけられると翌年9月25日、青柳村で私塾を開いていた杉田吉右衛門氏を首席(校長のこと)とし、この地に開校されました。
校舎は杉田氏の私邸内にある3間×5間(約50平方メートル)の茶室を譲り受け、仮校舎として教室にあてました。当初は職員1名(杉田氏)と児童30名前後でした。
その後、明治9年に「谷保小学校」と名前を改め、明治16年に現在の位置に移転しました。
平成22年10月 国立市教育委員会
馬頭観音。
(12:12)渡りかえしたその先に「常夜燈」。
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元上谷保村の常夜燈
常夜燈は「秋葉燈」とも呼ばれ、江戸時代に村を火事の事故から守るために、油屋近くに建てられたものです。火伏せの神を祀る秋葉神社(浜松市)への信仰です。
この常夜燈は市内に残る三つの常夜燈のうちの一つで、竿(灯身)には「秋葉大権現」「寛政六甲寅四月 上谷保村」「天満宮」「榛名大権現」と彫られ、寛政6(1794)年に建てられたことがわかります。
元々は上谷保村の油屋(屋号・現在の甲州街道北側の原田家)東隣に建てられたもので猛られたもので、昭和6(1931)年から行われた道路改修時に現在地に移されました。
大正時代までは、村人が順番に毎日夕方、灯りを灯していたと伝えられています。
平成23年1月 国立市教育委員会
(10:17)道路の反対側に「五智如来」。
「五智如来」
矢川と甲州街道が交差する付近は、「はしば」と呼ばれ、大正の初めごろまでは「矢川橋」が架かっていました。橋のたもとには五智如来の祠があり、江戸時代に八王子から移住した人々が、それまで信仰していた五智如来を祀ったの始まりと伝えられています。・・・
この付近では、国道を右に左に横断して確認するほど史跡があります、前後にある歩道を行ったり来たり。
石倉造りが並ぶ。
(10:26)左側には「元青柳村常夜燈」。
大きな「馬頭観音」。
道の左側は、多摩川沿いの低地につながる、けっこう急坂になっています。甲州街道は丘陵上(ハケ上)を進んでいることが知れる。
(10:32)立川市に入ります。
(10:37)日野橋交差点。ここで道は4本の道に分かれます。「甲州街道」は、左折して日野橋へ、「新奥多摩街道」は左斜め前方へ。右折するのは立川駅へと向かう「立川通り」。 旧甲州街道は「旧奥多摩街道」へと入って行きます。「甲州街道」という表示に惑わされないように。(「国道20号線」は、この交差点のかなり手前で左折していきます。)
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「旧奥多摩街道」が「旧甲州街道」となります。
南側が開けてきて、遠くに山々が。

歩道橋から「国道20号線」の西方を望む。

右手のおうちの脇に何やら解説板が。さっそく反対側の歩道に(10:06)。


潤澤学舎跡
潤澤学舎は、国立第一小学校の前身です。
明治5(1872)8月に学制が制定され、各村に学校の設置が義務づけられると翌年9月25日、青柳村で私塾を開いていた杉田吉右衛門氏を首席(校長のこと)とし、この地に開校されました。
校舎は杉田氏の私邸内にある3間×5間(約50平方メートル)の茶室を譲り受け、仮校舎として教室にあてました。当初は職員1名(杉田氏)と児童30名前後でした。
その後、明治9年に「谷保小学校」と名前を改め、明治16年に現在の位置に移転しました。
平成22年10月 国立市教育委員会
馬頭観音。

(12:12)渡りかえしたその先に「常夜燈」。


元上谷保村の常夜燈
常夜燈は「秋葉燈」とも呼ばれ、江戸時代に村を火事の事故から守るために、油屋近くに建てられたものです。火伏せの神を祀る秋葉神社(浜松市)への信仰です。
この常夜燈は市内に残る三つの常夜燈のうちの一つで、竿(灯身)には「秋葉大権現」「寛政六甲寅四月 上谷保村」「天満宮」「榛名大権現」と彫られ、寛政6(1794)年に建てられたことがわかります。
元々は上谷保村の油屋(屋号・現在の甲州街道北側の原田家)東隣に建てられたもので猛られたもので、昭和6(1931)年から行われた道路改修時に現在地に移されました。
大正時代までは、村人が順番に毎日夕方、灯りを灯していたと伝えられています。
平成23年1月 国立市教育委員会

(10:17)道路の反対側に「五智如来」。


「五智如来」
矢川と甲州街道が交差する付近は、「はしば」と呼ばれ、大正の初めごろまでは「矢川橋」が架かっていました。橋のたもとには五智如来の祠があり、江戸時代に八王子から移住した人々が、それまで信仰していた五智如来を祀ったの始まりと伝えられています。・・・
この付近では、国道を右に左に横断して確認するほど史跡があります、前後にある歩道を行ったり来たり。

(10:26)左側には「元青柳村常夜燈」。

大きな「馬頭観音」。

道の左側は、多摩川沿いの低地につながる、けっこう急坂になっています。甲州街道は丘陵上(ハケ上)を進んでいることが知れる。


(10:32)立川市に入ります。

(10:37)日野橋交差点。ここで道は4本の道に分かれます。「甲州街道」は、左折して日野橋へ、「新奥多摩街道」は左斜め前方へ。右折するのは立川駅へと向かう「立川通り」。 旧甲州街道は「旧奥多摩街道」へと入って行きます。「甲州街道」という表示に惑わされないように。(「国道20号線」は、この交差点のかなり手前で左折していきます。)

「旧奥多摩街道」が「旧甲州街道」となります。