これまでの喧噪から静かな道になります。


(10:43)ここを左折、多摩川方向へゆっくり下って行きます。


1880年代のようす。現在も当時と同じようにほぼ直角に曲がっています。北へ進む道は拝島方面へ向かう道。


現在のようす。


解説板。


旧甲州街道
この体育館の脇を通っているのが昔の甲州街道です。江戸時代に幕府が主要なかいどうとして整備した五街道のひとつで、江戸と甲州を結び、甲州道中ともよばれました。
街道はここで多摩川を渡り、日野の宿場へ続きます。当時は多摩川に橋がなかったので、旅人たちは舟や人力で川を渡っていました。
この渡し場は「日野の私」ともよばれ、現在下水処理場脇に記念碑があります。
また体育館北側の道は拝島方面へ通じる道で、分岐点には昭和30年代まで道標がありました。現在、この道標は富士見町の歴史民俗資料館に移設されています。
沿道の右手は「立川市立柴崎体育館」などの施設・緑道公園風に整備されています。その緑道脇に句碑。


「初日さす 松はむさし野に のこる松 秋桜子」
水原秋桜子(明治25年10月9日~昭和56年7月17日没)俳誌「馬酔木(あしび)」を主宰。
この句は、第八句集の「蘆刈(あしかり)」の中のお気に入りの一句で昭和14年の作です。
戦前の立川には、まだ赤松林や雑木林があり、武蔵野の尾風景がありました。こんな絵画美を詠んだ俳句をたくさん残され、すぐれた俳人を門下に育てられました。
平成13年9月8日 立川市
都道との交差点から振り返って望む。

(10:54)渡った左手、「下水処理場」角に「日野の渡し」碑やモニュメントなどが建っています。


多摩川の渡し跡なるわが住まひ 河童ども招びて酒酌まむかな 芳

江戸時代初期、五街道のひとつとして整備された甲州街道(当時は甲州海道)は、当初、府中分倍河原から多摩川の低地を通り、多摩川を万願寺で渡っていました。しかし、多摩川の氾濫で街道が分断されたことにより、街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移 されました。
それと共に、貞享元年(1684)、それまでも多摩川の対岸、柴崎村(現立川市)への農耕作業などで使われていた日野の渡しが甲州街道の正式な渡しとして決められ、以後、大正15年(1926)年まで240年あまり、使われ続けました。
渡しは有料で、人と馬の料金がそれぞれ定められていました。僧侶、武士、そして宿の人々は無料で利用ができました。その経営と管理は、日野宿が行い、渡船料は宿場の収入源ともなっていました。
現在に模していえば、新しいバイパスが開通し、そこに架けられた有料橋を地元の自治体が管理運営するようになったわけです。
渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われていました。江戸時代後期、文政7年(1824)からは通年船による渡しに改められています。
船に使った船は歩行船(長さ6.4m、幅1.2m)1艘、馬船(長さ11.8m、幅2.7m)2艘があり、渡し賃は資料によると、延享年間(1744〜48)の一人3文から4文、文政7年(1824)には10文、天保5年(1834)には13文、慶応4年(1868)には30文となっています。これは平水時の渡し賃で、増水時には割り増し料金となりました。 江戸時代が終わり明治になると、渡しはの経営は宿場から町へ移され、毎年入札により決められた請負人が渡し船を運行し、定められた一定額を町に納入する方法になりました。
明治22年(1889)甲武鉄道(現JR中央線)が開通すると渡しの通行量が減少し始めました。また、大正時代に入り自動車が輸入され、通行するようになると橋がないことが問題になり始めます。
「馬船2艘並べ、その上に横に長い板を敷き並べ、その上に自動車を乗せて対岸へ運んだ」と伝えられるような不便が生じてきたのです。
大正15年(1926)日野橋とその取り付け道路が完成し、日野の渡しは長い歴史を閉じています。
(

「記念碑」のある場所は、↓の位置。現在は旧道や渡し場はっきりしません。


正面が多摩川の土手ですが、立入り禁止。

迂回して土手に向かいます。同じ道を抜きつ抜かれつで、先生に連れられた学生たちが歩いていました。このグループとは「日野本陣」でもご一緒しました。



(11:02)多摩川では釣り人がチラホラ。右手に見える「立日橋」を渡ります。橋の上には「多摩モノレール」。
多摩都市モノレール線
東京都東大和市と多摩市を結ぶモノレール路線。
南北方向の交通手段の整備が望まれていた多摩地域を縦断する路線である。元々鉄道空白地帯だった地域とターミナル駅間の輸送が主力だが、接続する鉄道が事故等で遅延・運休した際には、代替経路として振替輸送に利用される。
基本的には高架駅で統一されているが、中央大学・明星大学駅のみ地上駅となっている。
沿線はおおむね住宅地であるため、通勤・通学客の多い朝夕は非常に混雑する。また、周辺には大学などの教育機関が点在するため、その最寄り駅や他線との接続駅は学生で賑わっている。採用しているモノレールの仕組み上、悪天候に弱く、降雪や台風などによる強風の影響で遅延や運休が発生しやすい(改札付近に、運休の可能性がある旨の告知がしばしば見られる)。
上北台駅から甲州街道駅の区間では高層建築物の多い立川周辺を除き南西方向に見える富士山の眺望が良い。(以上、「Wikipedia」参照)
《駅名》
上北台―桜海道―玉川上水―砂川七番―泉体育館―立飛―高松―立川北―立川南―柴崎体育館―甲州街道―万願寺―高幡不動―程久保―多摩動物公園―中央大学・明星大学―大塚・帝京大学―松が谷―多摩センター


橋の上からも遠くに富士山が肉眼では見えますが、写真でははっきりせず。


来た道(対岸)を望む。

(11:10)橋を渡り終えると、「日野宿」。「新撰組」の名があちこちに。
