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Channel: おやじのつぶやき
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府中~日野~横山(八王子)。その3。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

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 踏切を過ぎると、「旧甲州街道」は落ち着いた住宅地を進みます。合流します。手前右手にはりっぱな門構えおうち。その先、左手には「本陣」格のような門構えのお屋敷が目に入ります。

    

(9:09)格式の高そうな門構えの大きなお屋敷。

「本宿交差点」で「国道20号線」に合流して、西に向かいます。


1880年代のようす。


現在のようす。斜めの道が旧道。

 (9:19)国道に入って、その先の交差点の角に「常夜燈」。「東海道」ではよく見かけた「常夜燈」をこの付近でよく見かけます。
    
由来書
 甲州街道は往古水田地帯を通過していた。その古街道が廃され現在の街道と家並みが出来たのは17世紀半ば、慶安から寛文の頃であった。しかし台地は水に乏しく人々は度重なる火災に苦しんだと云う。
つに本宿村では「講」を作り遠江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をなし、寛政4年(1792)、この地に常夜燈を設けた。
 村内に「番帖」講中の氏名を列記した木板を廻し毎夕刻受領者は必ずこの燈籠に火を点けて無事を祈り隣へと引きついだ。
 爾来1世紀半に亘り村人の祈りは続けられたが太平洋戦争末期、灯火管制が強化されて廃止となった。
 このたび都道新設等により旧地隣接の場所に移転したものである。
                                             平成2年2月

 すぐその先、右手に「武蔵府中熊野神社古墳」。以前来たことがありますが、道路を横断して近づいてみます。


 武蔵府中熊野神社古墳について、少し長くなりますが「Wikipedia」より。

 1990年(平成2年)、熊野神社の山車の新調とともに、収納庫も神社内にあった小山の一部を削り、規模を拡大して建て替えることにななり、遺跡の発掘調査の結果、熊野神社敷地内の小山は、土を突き固める版築という方法で築造されたことがわかった。また小山からは河原石が大量に見つかった。
 2003年(平成15年)5月、熊野神社の小山の発掘が開始され、三段築成の上円下方墳であることが確認された。翌2004年(平成16年)には石室内や周辺の発掘が行われた。
 古墳の主体部は複室構造の横穴式石室で、全長は約8.7メートルにおよぶ。玄室内から被葬者の歯と見られる永久歯が3点発見され、いずれの歯も壮年期の初期か前半期のものである。
 「上円下方墳」という墳形は、武蔵府中熊野神社古墳を含めて全国で5例しかなく、きわめて稀少な墳形で、最大のものであり、先進的な畿内の政権と密接な繋がりを持つ、武蔵国の有力な在地勢力が造営したものと見られている。
 築造年代は7世紀中葉から後半にかけて造営されたと思われる。
 古墳造営と前後して古墳東方約1キロメートルのところに東山道武蔵路が開かれたとみられ、7世紀末から8世紀初頭にかけては、現在の府中市中心部に武蔵国府が設置されたと考えられる。そのため在地の有力者であった武蔵府中熊野神社古墳の被葬者が、武蔵国府が現府中市に設置されるにあたって重要な役割を果たしたのではないかとの説が有力である。
 2005年(平成17年)7月14日、国の史跡に指定された。

    

(9:33)JR南武線を越す。

「日本橋から33㎞」ポスト。


右手には大きなお屋敷が続きます。
    



右手に「常夜燈」。

(9:50)「谷保天神」。

谷保天満宮(やぼてんまんぐう)
 社伝によると、903年(延喜3年)に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるという。
 東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれています。
 南武鉄道(現:JR南武線)が谷保駅の駅名を「やほ」としたため、地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまいましたが、本来の読み方は「やぼ」です。
 江戸時代の狂歌師の・田蜀山人(南畝)が、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠み、ここから「野暮天」または「野暮」の語を生じたと逸話に伝えられています。

「野暮(やぼ)」
 洗練されていない様を表す。「いき」の反対。

「野暮天」
《「天」は程度の高い意を表す》たいそうやぼなこと。また、その人。

・・・
 湯島、亀戸と並び、関東三大天神の一つの谷保天満宮は「やぼ」を名乗り、極めて融通のきかないことを意味する「野暮(やぼ)天」の語源ともいわれる。時は江戸。神様が出雲に集まる神無月の十月、谷保天神のご開帳が目白であった。大田蜀山人に「神ならば 出雲の国に 行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」とからかわれた-。
 天満宮の権禰宜(ごんねぎ)菊地茂さん(54)は「土地の人は『やぶ』とも言う。参勤交代の行程表に屋武村、百年前の新聞には藪村と書かれている」。濁音が疎まれてか、いつのまにか駅名や、行政上の地名は「やほ」になった。
 天満宮前を知らせる交差点の標識のルビには「YAHO」。菊地さんは「(YABOが正しいと)訂正を求めるようなやぼなことはしません」と笑った。 (末松茂永)
HPより)


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