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Channel: おやじのつぶやき
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府中~日野~横山(八王子)。その2。(「甲州街道」をゆく。第2日目。)

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 西へ、「分倍河原」駅方向へ進みます。
「番場宿」。
 番場宿は現在の宮西町2・4・5丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった宿場です。この宿場はもとの名を茂右衛門宿といいます。これはこの土地が名主茂右衛門によって開発されたことによります。番場宿と称するようになったのは寛永3年(1636)のことといわれています。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』」には「家数103軒、(甲州)街道の左右に甍を連ね」とあります。もともと番場宿は、ハケ沿いの甲州古街道筋にありましたが新街道の設置(慶安頃=1648~52)に伴って移転したものです。
 地名の起こりは、不明ですが、馬場の転訛とか番所があったからとの説があります。
 この地域には、高安寺、長福寺などの古刹があります。                                                 

沿道には立派なおうちも。

          
 (8:49)その先、右手に宿場時代の建物? その名も「番場屋」。実は50年くらい前につくられた、お酒や食事のできるお店のようです。外見は江戸時代の宿屋風。けっこう風情があるつくり。はたしては店内は? 「食べログ」に詳しく探訪記?がありますので、ご参照を。

「鹿島坂」。
 坂の名は、大国魂神社の例大祭に深い係わりのある人名に由来するといわれます。5月の例大祭に「国造代奉幣式」という古式があります。これは国造代(奉幣使)が神馬に乗って拝の宮におも向き、神輿渡御の完了を告げたあと、鹿島坂を上り、甲州街道を東上、御旅所へ参向して奉幣を行うというものです。この式は古く社家の鹿島田家がその役を担っていたため、この坂を「鹿島田坂」と呼び、後に名前の一部をとって、「鹿島坂」となったようです。

 少し行くと、南北に突っ切る緑道と交差します。「旧国鉄下河原線」の線路跡。
    図で、南北に進む緑道。
「下河原線の歴史」 
 ここは、かつて国鉄下河原線の線路敷でした。
 明治43年(1910)、東京砂利鉄道が多摩川の砂利の採取運搬を目的に、国分寺から下河原(府中市南町3丁目)まで貨物専用鉄道を開通させました。その後、大正3年(1914)の多摩川大出水による被害で一時閉鎖しますが、大正5年(1916)に軍用鉄道として復活し、大正9年(1920)に国有化され、名称も下河原線となりました。昭和8年(1932)に東京競馬場が開設すると引き込み線がもうけられ、昭和9年(1934)より競馬開催日に限り乗客輸送するようになりました。戦時体制が深まってきた昭和19年(1944)国分寺~東芝前間で通勤者専用電車を運転、戦後の昭和24年(1949)からは国分寺~東京競馬場前間の常時運転が開始されましたが、昭和48年(1973)の武蔵野線開通にともない旅客が廃止になり、昭和51年(1976)には貨物線も廃止され66年間にわたる歴史の幕を閉じました。
 この跡地は、府中市が国鉄から用地を受けて自転車・歩行者道、花と緑の緑道として整備し、郷土の森や市民健康センターなどを結ぶ、市民のための道として生まれ変わりました。
                                                                       府 中 市

    
南を望む。                                 北を望む。

 この廃線・緑道は、4年前の2月に探訪しています。約7キロの道のり。そのときの写真を二つ紹介。
    
                                          踏切事故者の供養碑。

(8:51)「高安寺」。藤原秀郷の館跡といわる。

 ここに源義経と武蔵坊弁慶たちが立ち寄った、という伝説があります。街道沿いにはこの先、それにちなんだ史跡が残されています。

「片町」。
 片町は、現在の方町1、2丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。
この集落は番場宿に属しており、幕末の地誌『身辺武蔵風土記稿』には、番場宿の小名としてその名がみえます。
 片町は、徳川家康が江戸に入場後、新しく整備された甲州街道の開通(慶安頃=1648~52)に伴ってできた町です。
 地名の起こりは、街道の南側に名刹高安寺があり、町場が北側の片方だけに発達したことによります。
 この辺りには、国府に関連する片町・高倉遺跡などがあり、発掘調査の結果、住居址が数多く発見されており、古代にはかなりの規模の集落が存在していたようです。


    
弁慶坂  (べんけいざか)
 『江戸名所図会』(江戸時代の地誌)に、「甲州街道に架する所の橋をも弁慶橋と号(なづ)け、 東の坂を弁慶坂と呼べり」とあります。
 この坂は、 高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来します。 これは、高安寺の堂のうしろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし、大般若経を書写したと伝えられるものです。 高安寺は、往古建長寺の末寺で、足利尊氏が武蔵国の安国寺として中興した名刹です。 この地は、武蔵守藤原秀郷の館跡ともいわれています。
                             
「弁慶橋」。「石橋供養塔」。  
 ここに、野川に架かる弁慶橋がありました。名は、「弁慶坂」と同様、高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来しています。

棒屋の坂(ぼうやのさか)。
 坂名の由来は、坂を下りきった所の家が通称「棒屋」と呼ばれたためといわれています。
 この道は、徳川家康が江戸幕府を開いてから開設された甲州街道です。江戸幕府にとっては軍事的・経済的に重要な街道でしたが、府中にとっても一宿場として往古の繁栄をとりもどる役割を果たした道です。この街道が開設される以前の甲州方面への道は、もっと南寄りの狭いハケ道で、今でも所々に残っており、往時の面影を伝えています。
    

(8:59)京王線の踏切を越えます。左手に「分倍河原」駅。

 「分倍河原」駅。最初の駅名は、「屋敷分」。当時の地名(屋敷分村)から名付けられたもの。
 改名された分倍河原は「分倍」と「河原」の複合地名で過去の歴史に基づく。1333年(元弘3年)5月に鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞と、幕府側の北条泰家が戦った「分梅古戦場」(分倍河原古戦場)という古戦場跡があり、駅前ロータリーには新田義貞の像がある。なお、1454年(享徳4年)にもこの地で鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉氏を破った合戦が行われている。
 なお、地名表記は「分倍」と「分梅」があり、由来は「この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、口分田を倍に給した所であったという説から分倍」、「梅にまつわる土地が多い事から分梅」などと諸説あるが、なぜこの地名になったかは資料がなく未だに不明である。かつては分配(ぶんばい)とも読まれていた。
 住所表記上の地名は、駅舎を含む京王線の東側は府中市片町、西側は南武線の北側が美好町、南側が分梅町である。南武線の北側はかつての屋敷分村で、上記の通り旧駅名の由来となった。

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