住宅街を進みます。

下石原公会堂。屋上には半鐘がある火の見櫓。

(14:25)その先、左手には「常夜燈」。

(14:35)「西光寺」仁王門の左側に腕をくんで座っている近藤勇像があります。西光寺は、旧甲州街道沿いにあり、慶応4年(1868)3月、近藤勇が甲陽鎮撫隊をひきいて甲府へ向かった時も、この寺の前を通りました。に近藤勇の座像の案内板。




新撰組局長 近藤勇
近藤勇は天保5年(1834年)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水1-6)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌2年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。
文久3年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年6月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
然しながら世情の移り変わり激しく、慶応3年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。
その年3月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応4年4月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月25日江戸板橋で刑死、時に僅か35歳波瀾万丈の人生を閉じた。
会津藩主、松平容保は【貫天院殿純忠誠義大居士】の法号を贈りその功績を称えている。
調布市『近藤勇と新撰組の会』は、没後130年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に座像を建立することとした。
奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の招魂碑がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。
平成13年10月8日 近藤勇座像建立委員会代表 土方貢・発起人一同
その先で、「中央道」の高架下を抜けます。


りっぱなお屋敷。

「飛田給」地区になると、右手奥に「味の素スタジアム」。

(14:48)その先、左手には、「行人塚」。

この塚は、松前意仙の入定塚(にゅうじょうづか)です。意仙は元仙台藩士でしたが、出家して諸国をまわり、遍歴の末、この地に庵を結びました。意仙は自ら石造の薬師如来像を彫り、大願成就の後、薬師像の傍に穴を掘り、中に入って、鉦をたたきながら、お経を唱えて、そのまま入定(死去)したと伝えられています。意仙の死後、村人たちによって、塚が築かれました。昭和47年(1972)、塚の改修の際に遺骨が確認され、もとどおりに埋葬されました。
蔵造りの建物がいくつかあります。


長い直線道路。

東海道や日光街道でも見かける石造りの蔵。

(15:07)西武多摩川線の踏切を通過。
