いよいよ「府中」入り。

重厚な蔵造り。

旧町名などの立派な解説板が左右に登場します(気がつかないものもありますが)。
(15:22)

常久
常久(つねひさ)は、現在の若松町1丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。
幕末の地誌には、「民家甲州街道の左右に並居、凡三十七軒」(新編武蔵風土記稿)とあります。もともとは多摩川のほとりに集落がありましたが、洪水によって流され万治年間(1658~61)に、ハケ上に移動したと伝えられています。
地名の起こりは、人名によるようで、古くは常久(恒久とも)という人を名主とする名田であったようです。「新編武蔵風土記稿」には「村名の起こりを尋ぬるに、むかし恒久と云し人居住せしによりて唱えしと云う、今村内の農民嘉右衛門なるものはその子孫と云う」とあります。
「旧甲州街道」案内板。

左手に廃墟と化した工場。どういういきさつがあるのか? 街中に。


(15:41)「国府八幡宮」参道。

その脇に「八幡宿」。

八幡宿(はちまんしゅく)は、現在の八幡町1,2丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。この村落は六所宮(大国魂神社)の社領に属しており、「新編武蔵風土記稿」(幕末の地誌)には「六社領」の小名としてその名が見えます。
もともと八幡宿は、国府八幡宮の周囲に発達した村落ですが、甲州街道が開設(慶安頃=1648~52)されたのに伴って街道筋に移動したものです。宿場町のような村名ですが、八幡宿は農業を中心とした村落でした。
地名の起こりは、この地に国府八幡宮が鎮座していたことによります。国府八幡宮は由緒深いお宮で、聖武天皇(在位724~749)が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられています。
「八幡宿東」バス停。

(15:55)本日の終着地は「大国魂神社」。





「観光案内図」。

次回はここから。京王線「府中」駅から乗車。「水戸街道」や「日光街道」の時と比べて、帰宅には思ったよりも時間がかかりました。