公園の片隅に放射線の線量電光掲示板。誰もいないのに、間断なく流れるように表示しています。

公園は荒れ放題。遊具もベンチも・・・。


「ちょっとの間ですぐ雑草が生えてきちゃうんだよな」とつぶやきながら、黙々と公園の草を抜いたり、枯れ葉を集めている一人の老人の姿。作業員にも見えない、いったいどういう方か?

左手には「浪江小学校」。


校庭は草ボウボウ。


鉄棒。

今日、11月14日。月曜日。しかし、子どもたちの声はどこにもありません。今、皆はバラバラになって、福島県内の仮校舎や関東、遠く関西、あるいはもっと遠くに移り、そこでの学校で学んび、すでに卒業している子どももいるのでしょう。幼なじみからも離れ、地域の人々とも離れ、中には親とも離れ、親ももちろん、年寄りも同じように、・・・。
横浜では深刻ないじめ事件も起こりましたが、けっしてそこだけの話ではないようです。
そろそろバスに戻る時間になります。解体が終わり、空き地となったところには、立て札が立っています。それぞれ記号で記されています。その建物に、敷地に住んでいただろう人の固有名詞はありません。
新築中なら「○○様邸」とかあります。そうした家族の、商売の、生活の、営みの、一人ひとりの、痕跡はまったくうち捨てられ、単なる記号化されてしまう。すでに手放した土地なのでしょうか? 分譲地、宅地販売地の符号のような立て札にぞっとしました。
こうして地域から隔絶させられていく(それも、国策のもとで)ことへの憤りを強く感じます。

一方で、残された建物もあちこちに。


地震で痛めつけられただろう建物。

古民家を改装した飲み屋さん。今でも開業していそうな雰囲気。もちろん、営業はしていません。


その隣はすでに解体整地済み。
浪江町は「高原の駅よさようなら」の作曲家の故郷だそうです。

はげ落ちたスローガンがむなしく響きます。

「安心して暮らせるやさしいまち」。
こうして福島駅に戻ってきました。その道中も至る所で除染作業中の幟が目立ちます。放射線を浴びながら悪戦苦闘する作業員たち。果てしもない戦いにいつ終わりが来るのでしょうか? 劣悪な作業現場での作業員たちの生命・健康を損なわせての帰還事業によって、新たな災害を生むことにならなければ、と。福島第1原発の廃炉作業も遅遅として進まず、新たな被害を生み出さなければ、と。
国民の一人ひとりの生命と暮らしをないがしろにしての政策はどこか無理があるはずです。沖縄基地問題もそうですが、今また原発再稼働、原発輸出に狂奔するアベ自公政権。
こうした政治を許さない! 昨年の沖縄辺野古現地闘争を垣間見た経験と今回の経験を糧に、老いてもまだ盛んなり、の精神で。


かつて、広島に行った時の感想で、「広島からヒロシマへ、そして再び広島へ」と書いたことがあります。具体性から幅広い普遍性へ、そして地域に根ざした具体性へ。
「福島からフクシマへ、そして再び福島へ」。言葉が一人歩きするのではなく、生活や人生に裏付けられた(一瞬のうちに強制的に奪われた暮らしに思いをはせ)視点を大事にしつつ、打って出る戦いが重要だ、と改めて。