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Channel: おやじのつぶやき
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新宿~松戸~小金。その4。(「水戸街道」をゆく。第1日目。)

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 (13:35)「旧水戸街道」は「6号線」から斜め右に入って行きます。
    

水戸街道
 江戸と水戸を結ぶこの街道は江戸時代には諸大名、旗本の往来で賑わっていました。松戸市内は大部分が国道6号線として整備され、大きく変貌しましたが、現在地から北方の6号線との交差点までの約900mは当時の道形を残しています。

 緩やかに曲りながら下り、JR武蔵野線のガードをくぐります(13:38)。
    

今度はくねくね曲がって行きます。左にあるおうち。土留めに常滑焼きの甕をびっしり敷き詰めてあります。3、400個はあるでしょうか? 壮観です。


 来た道を振り返って望む。のどかな昼下がりの街道です。
    

左手にポツンと古い祠。

 (13:50)再び「北小金駅入口」交差点で「国道6号線」と合流し、そのまま北小金駅方向に進み、「小金宿」に入ると、旧家が続きます。
    

(13:53)「日蓮正宗・金龍山一月寺」。

 江戸時代は、「普化宗・金龍山一月(いちげつ)寺」といって、虚無僧寺の総本山でした。
    

 普化宗金龍山一月寺は、鎌倉時代金先禅師によって創建されたといわれています。江戸時代には幸手の鈴法寺と一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括しました。明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されます。

 ・・・以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの萬満寺の助力を得ながら在家が管理する形となりました。昭和30年代、本所吾妻橋・妙縁寺総代の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗。「いちがつじ」と読みを変更して現在に至っているそうです。

注:普化宗(ふけしゅう)
 日本の仏教の禅宗のひとつ。9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。
 1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目孫張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭として支配下に入り存続した。
 心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、北条経時の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
 普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。
 江戸時代には虚無僧の集団が形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」により、虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
 江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。また、その後一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在である。
 1950年、宗教法人として普化正宗明暗寺が再興された。
                                                          (以上、「Wikipedia」参照)

注:虚無僧
 「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。江戸時代になると徳川幕府によって以下のように規定された。
 托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつける。首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。(同上)

沿道には旧家が並んでいます。

    「玉屋」小金宿の旅籠。

    「玉屋」解説板。

旅籠玉屋
 此処の街道は旧水戸街道として有名であるが、成田街道の道筋でもある。小金宿には旅籠が多く、鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で徳川時代後期の旅籠の原形を留めている。当時の小金宿では鈴木、月見里、綿貫、湯浅、芦田、安蒜、大熊が役職に従事していたが、いまだ姓は現存している。

「東漸寺」。

(14:09)「小金宿」。  

・・・今日まで小金町は松戸市の中でも歴史文化を大切に継承してゆく思いが色濃く残る地域で会って「歴史と花と緑のある街」のイメージを子供から年配の人まで共有し住んでいる人達が一つになり魅力ある豊かな街づくりを進めてきました。
 近年の昭和29年10月に小金町は東葛市(現在の柏市)と市境を変更する形で旧小金町の大部分が松戸市に合併して60周年を迎える年となります。
 当時の人口は8千人、現在、平成27年には4万3千人となりました。
 ここに、平成26・27年度、小金町記念事業として次世代に向けた伝統の継承を祈念し小金宿観光モニュメントを設立しました。

小金宿(こがねしゅく)
 水戸街道千住宿から3つ目の宿場町。現在の千葉県松戸市小金にあたる。
 中世において小金城の近くまで迫っていた太日河(江戸川)河岸からの城下に向かって形成された金宿(こがねしゅく)を原点として、水戸街道の整備とともに宿場町を形成していったと考えられている。宿場は南北に約1キロ程度の範囲に広がっており、北端で屈曲して東に向きを変えている。屈曲点からは更に北に本土寺への参道が伸びており、追分の石碑が建てられている。この屈曲点には八坂神社があったが、再開発によって別の場所に移転し、跡地は商業施設となっている。
 家並みは百軒余りで宿場町としての規模は大きくなかったが、幕府の軍馬牧場である小金牧の近くに位置しており、重要性は高かった。一般大名用の本陣が置かれていたほか、水戸藩は独自に本陣(日暮家)を指定していた。

                    (「Wikipedia」より)


    
    
1880年代のようす。                        現在のようす。


(14:13)交差点の角に道標二基。  

 一つには「右 水戸海道」もう一つには「右 水戸道中」と刻まれています。「旧水戸街道」は、右折して「国道6号線」との交差点「根木内」へ向かいます。

 (14:15)まだまだ陽は高いですが、今回は、ここで終了します。

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