「春雨橋」を過ぎた、その先、左に剣豪千葉周作の実父、浦山寿貞の墓と、周作の剣の師である浅利又七郎の供養碑がまつられている「宝光院」があります(11:39)。
「宝光院」の入口には、「千葉周作修行之地」(右)と記された標柱が建てられています。


千葉周作居宅跡・浅利道場跡・浦山寿貞墓所
幕末の剣豪・千葉周作は文化6年(1809)15歳の時一家で陸前国(岩手県)荒谷村から松戸宿に転居、馬医者を営む父の忠右衛門(幸右衛門)は浦山寿貞と称してこの参道付近に開業します。また、幼児から剣術に長けていた周作が入門した浅利又七郎の道場が宝光院と善照寺の間にあったと言われています。
周作は又七郎の下で才能を開花、23歳で又七郎の師江戸の中西忠兵衛に入門し、数年後には免許皆伝を許されます。のちに又七郎の娘婿となり道場の後継者として期待されますが、流儀に対する考えの違いから免許を返上、離縁してしまいます。
修行の旅に出た周作は「北辰一刀流」を編み出し、神田に「玄武館」を開きます。周作の合理的な剣法は評判を集め、多くの徒弟を輩出するに至りました。
浅利道場の建物は現存しませんが、宝光院境内に又七郎の供養費がまつられています。
周作の父、浦山寿貞は天保2年(1831)に没、その墓所もこの境内にあります。
「千葉周作修行之地」標柱の材木は旧松戸宿本陣の大黒柱です。


まつど観光案内所。「空き家相談窓口」の看板も。


「松戸駅」近くにある「水戸街道」「旧松戸宿」解説板。
水戸街道
江戸幕府は東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の5つの道を「五街道」と呼び、最も重要視し、道中奉行を置き、五街道を直接管理しました。他に五街道に付属する街道として水戸佐倉道、日光御幣使街道なども道中奉行が管理していました。
水戸佐倉道は、日本橋を起点に①千住を経て②新宿で水戸街道と佐倉道に分岐します。俗に水戸街道二十宿といわれ新宿から③松戸、④小金、⑤我孫子、⑥取手、⑦藤代、⑧若柴、⑨牛久、⑩荒川沖、⑪中村、⑫土浦、⑬中貫、⑭稲吉、⑮府中(石岡)、⑯竹原、⑰竪倉、⑱小幡、⑲長岡と経由して⑳水戸に入ります。江戸と水戸の間の距離29里31町(117㎞)を当時の旅人は普通2泊3日で旅をしました。参勤交代の際に水戸街道を利用する大名は仙台、相馬、平、土浦、笠間など20余藩があり、大名行列では3泊4日の日程で通行しました。
江戸川の渡し場には「金町松戸関所」が設置され、番所は金町側に置かれました。通行は明け六つから暮れ六つまでの間で、夜間は一般人の通行が禁止されていたため、松戸宿の旅籠は相当繁盛したといわれます。
旧松戸宿
松戸宿は水戸街道に沿って家屋が帯状に連なる形態をしています。宿には公用の武士が宿泊する本陣・脇本陣があり、たくさんの旅籠や商家が軒を並べ、江戸末期の記録では戸数は450余りを数え、商いには28軒の旅籠をはじめ、鍛治屋、荒物屋、魚屋、八百屋、酒屋、畳屋、煙草屋、蕎麦屋、髪結い、桶屋、医者、大工、建具屋、染物屋、薬屋、湯屋、下駄屋、傘屋、質屋、豆腐屋、鞄屋等のあらゆる商売の店が軒を並べ、六歳市(6回開かれる定期市)も開かれ大変賑わっていました。
また、江戸川には松戸河岸(納屋河岸)が設けられ、利根・江戸川流域の水上輸送もありました。特に銚子方面から送られる鮮魚は布佐(我孫子)で陸揚げし、平塚・藤ヶ谷(柏市)・金ヶ作(現常盤平)を経由して松戸河岸まで陸送し、ここから江戸へ送られました。
銚子方面から江戸への陸送路は他にもいくつかありましたが、このコースが最も利用さ鮮魚(「生)街道と呼ばれました。
「松戸駅」西側の繁華街を進みます。

その先「根本」を過ぎてしばらく進み、JR線の跨線橋(歩道橋)を越え、北東に向かいます(「県道261号線」)。「竹ヶ花」を経て、「上本郷」で「国道6号線」に合流します(12:25)。


振り返って望む。
大きなおうちに、松の木。


「国道6号線」。

「北松戸」駅近くのラーメン屋さんで昼食、休憩して、再開です。

「北松戸」を過ぎ、「中根立体入口」交差点から左手の「馬橋駅」方向に入ります。

(13:08)すぐ先に「馬橋」という地名の起こりになった「馬橋」があります。


解説板。


馬 橋
鞍型の橋から名が生まれる。「馬橋」という地名のもとになった橋である。
その昔、長津川にかかる旧水戸街道のこの橋は多くの旅人が往来したが、大雨のたびに流された。そこで、満満寺と縁のあった良観上人が馬の鞍の形をした橋をかけさせたところ、それ以後流されることはなくなった。
今「鞍」を思いおこさせるものは何もないが、以来、人々はこの橋を「馬橋」と呼ぶようになった、と伝えられる。
※右の説明板。
本土寺過去帳に「マハシ」の地名が出てきます。「馬橋」の名は、この橋にちなんで名付けられたといわれ、江戸時代には水戸街道が通っていました。


旧水戸街道(駅方向)。 (「国道6号線」方向)。
「馬橋駅入口」から進み、右斜めに曲がる、その正面に「萬満寺」。

その手前には大きなおうち。








1880年代のようす。←が「馬橋」。 現在のようす。
「八ヶ崎交差点」。


「歩道橋」を渡った向こう側に「道標」。


水戸街道道標
水戸街道を利用する旅人の道しるべです。碑文から文化3年(1806年)に建てられたことが分かります。
「左 水戸街道」・「右 印西道」

(13:28)その先右手に「一里塚跡」碑。


沿道の左右には大きなショッピングモール。

こちらは大がかりに造成中。

(13:33)「東京まで22㎞」ポスト。

左手に「蘇羽鷹(そばたか)神社」。

