行き帰りの電車の中で読み進めていた書。全体の流れは分かっていたつもりの昭和前史。1928(昭和3)年6月4日、張作霖爆破事件から筆を起こし、1945(昭和20)年、敗戦までの歩みを政治家、軍人、作家などの、公刊された「日記」をもとに、「昭和の戦争」を解き明かしていきます。
ここで「昭和」の「戦争」とあるのはけっして日中戦争」から「太平洋戦争」、そして敗戦と続く20年の対外「戦争」のみを意味しているのではなさそうです。
勝算もないままに、無謀な対中、対米英戦にしゃにむに突き進んだ陸軍、海軍(それも双方の戦略観、主義、主張のためにがんじんがらめになっての不協和音の中での)軍部、それに対抗するすべもなく無定見で右往左往し、結局は追認していく政党政治家達、という構造的な体質・体制下。
その中にあって、戦争回避を願い、「立憲君主制」のもとでの政党政治のあり方を何とか追及しようと苦心した、働きかけていった人たちの「戦争」でもあった、と。
筆者が特に取り上げているのはそうした人々の日記を重要視していることからもうかがわれる。特に「清沢洌」さんへの思い入れは強いように感じる。
その他にも、古川ロッパ、永井荷風、高見順、伊藤整、若き日の山田風太郎などの日記もからめながら、戦争の実相に迫っていく。
筆者が総括としてあげている点を列記したい。(P243)
① 立憲君主制の危機の時代
現地軍対陸軍中央、陸軍対海軍、外務省対軍部、政党間対立、これらの対立が複雑にからみ合って、立憲君主制は機能不全に陥っていく。・・・極限の戦時体制下にあっても、・・・権力の遠心化と責任主体の喪失状況のなかで、「聖断」による降伏決定が下された。
② 「ファシズム」と民主主義は紙一重
一方の政治勢力は「ファシズム」体制の確立を求めて、戦争をはじめる。他方の政治勢力は平和と民主主義を守ろうとする。この対抗関係において、戦前昭和の歴史は、前者の勝利=後者の敗北の過程ではなかった。両者は同床異夢の関係だった。・・・戦争は体制変革と体制破壊の二つの作用を併せ持つ。このような戦争の機能に依存する新体制の追及の末路は、帝国日本の崩壊だった。平和と民主主義は、協調外交と政党政治の相乗作用によって発展する。この定石通りの選択をすることの重要性を示唆している。
③全体戦争の全体性
1945(昭和20)年まで、断続的に戦争が続いた。人人々の生活の隅々まで戦争の影響が及んだ。のちの世代の私たちは、・・・そんな同時代の人々になぜ戦争に反対しなかったのかと問いかけるのは、的外れである。
永井荷風を苛立たせた従順さと伊藤整を不思議がらせた平静さは、戦時下の人びとがそれぞれの立場で戦争の責任を引き受けながら、運命を受容したことの表われだった。
「新書」という形式、さらにもとは「日経新聞」での連載記事だったこともあって、わかりやすい反面、突っ込みが足りない点があるのは致し方ないか。
清沢 洌(きよさわ きよし)
1890年(明治23年)2月8日 - 1945年(昭和20年)5月21日)は、ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。
外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。
1907年(明治40年)、17歳のとき当時の同地での渡米熱をうけて、研学移民(学生となるための立場での移民)としてアメリカ合衆国ワシントン州に渡航した。シアトル、タコマで病院の清掃夫、デパートの雑役などを務めるかたわらタコマ・ハイスクール、ワシントン大学などで学んだ。
1911年(明治44年)頃からは現地の邦字紙の記者となり、数年にして現地日本人社会で著名な存在となった。当時はアメリカ西海岸において日本人移民排斥運動が高潮に達していた。日本人に対する蔑視と敵意を、日本国内の為政者として、あるいは恵まれた立場の在米外交官としてでなく、日本政府からの庇護の薄い移民という立場で味わったにも拘わらず、清沢は晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた希有の自由主義平和思想家であった。
1918年(大正7年)帰国した清沢は、貿易関連の仕事を転々とした。
1920年(大正9年)には中外商業新報(現在の日本経済新聞)に入社した。ここでもはじめは米国関連、日米問題関連のエキスパートとしての執筆活動を行ったが、大正デモクラシー、政党政治の伸長、関東大震災後の混乱(なお清沢は妻子をこの震災で喪った)、日本の満州進出などを受けて、国内問題や対中関係も彼の執筆対象となっていった。
1927年(昭和2年)には東京朝日新聞に移籍し、またこの頃から新聞以外での著作活動も精力的に始まった。清沢の基本的な立場は、対米関係においては協調路線、国内では反官僚主義・反権威主義、対中関係では「満州経営」への拘泥を戒めるものであって、石橋湛山のいわゆる「小日本主義」と多くの共通点をもっていた。だが清沢のリベラルな論調は右翼勢力からの激しい攻撃にさらされた。特にその著作『自由日本を漁る』所収の「甘粕と大杉の対話」(大杉栄殺害犯として獄中にある甘粕正彦憲兵大尉を大杉の亡霊が訪ね、甘粕の迷妄を論破する、というストーリー)は国体を冒涜するものとして批判された。
1929年(昭和4年)には清沢は東朝退社に追い込まれ、以後は生涯フリーランスの評論家として活動することになる。
フリーとなった清沢は1929年から1932年(昭和7年)までの3年間のほとんどを欧米での取材・執筆活動にあてることとなる。
1929年にはアメリカの「暗黒の木曜日」とそれに続く大恐慌を現地で体験する。
1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議は、雑誌「中央公論」の特派員という肩書で取材した。会議では、補助艦の対米比率7割死守を図る日本海軍側代表団と清沢は互いに批判的な関係にあり、清沢は「六割居士」という綽名を頂戴する始末であった。その他、この欧米滞在中にはチェコスロバキア外務大臣ベネシュ、イタリア首相ムッソリーニ、実業家ヘンリー・フォードなどと会見、それら会見記は公刊されている。
1931年(昭和6年)の満州事変勃発、1932年の第一次上海事変は滞米中に遭遇しており、日本の大陸進出に対するアメリカの厳しい世論を目の当たりにすることにもなった。
1932年、帰国した清沢は日本の内政・外交に対する鋭い評論を行うこととなる。満州国単独承認問題、国際連盟における満州問題の討議、引き続くリットン調査団派遣を巡って国内世論は沸騰していたが、「国を焦土と化しても」日本の主張を貫徹する、と答弁した外相内田康哉、スタンドプレーに終始し意味のある成果を引き出せなかった国際連盟首席全権松岡洋右をそれぞれ批判した「内田外相に問ふ」「松岡全権に与ふ」は、この時期の代表的評論である。また、数多くの国内講演、著作、雑誌論文などを通じて、清沢は商業主義・迎合主義に流されやすい日本のジャーナリズムに対する批判と、自己の漸進主義とでもいうべき自由主義の立場を明らかにしていった。
1937年(昭和12年) - 1938年(昭和13年)には、堪能な語学力を買われてロンドン開催の国際ペン・クラブ世界会議の日本代表という立場で再び欧米を訪問し、各所で精力的な講演活動を行う。日中戦争の勃発・激化を受けて欧米の対日感情は極度に悪化していたが、愛国者を自負する清沢はむしろ積極的に講演で、あるいは現地新聞への投書などを通じて日本の立場の擁護・正当化を行っていった。皮肉なことに、彼自身が国内で反対の論陣を張っていた硬直的・非協調的外交政策のスポークスマンの役を担わされたわけである。また駐英大使を務めていた吉田茂とは、このロンドンでの新聞投書による世論工作の過程で親しくなっていったという。
帰国後の清沢は、再び本来の対米協調を主軸とした外交への転換を訴える立場を取り、「新体制」「東亜新秩序」などの言葉に代表される抽象的かつ空疎な政策を諫め、アメリカを威嚇することで有利な結果を得ようとする外交政策の愚を説き、ドイツとの連携に深入りすることなく欧州情勢の混沌から距離をおくことを主張したが、事態は1940年(昭和15年)の日独伊三国軍事同盟、1941年(昭和16年)の日ソ中立条約、南部仏印進駐とそれらに対する米国の一連の対抗措置は、ことごとく自らが提言した潮流と相反する方向へ進んだ。
1941年2月26日、情報局は各総合雑誌に対し執筆禁止者のリストを交付し、清沢の名前もそこに含まれていた(他には矢内原忠雄、馬場恒吾、田中耕太郎、横田喜三郎、水野広徳、等)。これ以降の清沢は時事問題に対する直接的な意見の表明は不可能となり、外交史に関する著作という形で間接的に当時の政策を評論することとなった。幕末開国時から日ソ中立条約までを俯瞰する『外交史』およびその増補改訂版として太平洋戦争開戦までを記す『日本外交史』は著名であるし、大久保利通がいかにして征韓論を打破し、台湾出兵およびその後の北京における対清交渉を果断にまとめていったかを賞揚する『外政家としての大久保利通』は、昭和戦前期日本外交に対する痛烈な批判となっている。大久保の外戚である吉田茂(妻が牧野伸顕の娘で、利通の孫にあたる)がこの本を贈呈されて一読、感銘を受けた旨を記した清沢宛の書簡が現存している。その他、石橋湛山が主幹を務める「東洋経済新報」誌上では匿名執筆の形で時事問題をしばしば論じる一方で、ダンバートン=オークス会議にて討議された国際連合憲章原案をいち早く入手、分析批判し、清沢の対案を同誌上で提示している(石橋の勧めもあったという)点などは、その先見性を示すものといえる。
1942年(昭和17年)開戦1年後、清沢は「戦争日記」と題した、新聞記事の切抜きなども含む詳細な日記を記し始めた。いずれ時期が来れば、日本現代史(昭和史)の著述にあたり、その備忘録とするつもりであったとされる。官僚主義の弊害、迎合的ジャーナリズムの醜態、国民の対外事情に対する無知、社会的モラルの急速な低下などを記録する(広い意味でファシズムへの抵抗を示した)。この日記は1954年に『暗黒日記』の題名で、東洋経済新報社で出版され、数社で新版刊行された。
1945年(昭和20年)5月21日、終戦を目前に急性肺炎により東京築地の聖路加病院にて急逝した。吉田茂、石橋湛山という後に首相となった2人を知己にもち、戦後存命であれば政界・言論界で重きをなしたであろう知米派知識人の、55年の短い生涯であった。
(以上、「Wikipedia」参照)
ここで「昭和」の「戦争」とあるのはけっして日中戦争」から「太平洋戦争」、そして敗戦と続く20年の対外「戦争」のみを意味しているのではなさそうです。
勝算もないままに、無謀な対中、対米英戦にしゃにむに突き進んだ陸軍、海軍(それも双方の戦略観、主義、主張のためにがんじんがらめになっての不協和音の中での)軍部、それに対抗するすべもなく無定見で右往左往し、結局は追認していく政党政治家達、という構造的な体質・体制下。
その中にあって、戦争回避を願い、「立憲君主制」のもとでの政党政治のあり方を何とか追及しようと苦心した、働きかけていった人たちの「戦争」でもあった、と。
筆者が特に取り上げているのはそうした人々の日記を重要視していることからもうかがわれる。特に「清沢洌」さんへの思い入れは強いように感じる。
その他にも、古川ロッパ、永井荷風、高見順、伊藤整、若き日の山田風太郎などの日記もからめながら、戦争の実相に迫っていく。
筆者が総括としてあげている点を列記したい。(P243)
① 立憲君主制の危機の時代
現地軍対陸軍中央、陸軍対海軍、外務省対軍部、政党間対立、これらの対立が複雑にからみ合って、立憲君主制は機能不全に陥っていく。・・・極限の戦時体制下にあっても、・・・権力の遠心化と責任主体の喪失状況のなかで、「聖断」による降伏決定が下された。
② 「ファシズム」と民主主義は紙一重
一方の政治勢力は「ファシズム」体制の確立を求めて、戦争をはじめる。他方の政治勢力は平和と民主主義を守ろうとする。この対抗関係において、戦前昭和の歴史は、前者の勝利=後者の敗北の過程ではなかった。両者は同床異夢の関係だった。・・・戦争は体制変革と体制破壊の二つの作用を併せ持つ。このような戦争の機能に依存する新体制の追及の末路は、帝国日本の崩壊だった。平和と民主主義は、協調外交と政党政治の相乗作用によって発展する。この定石通りの選択をすることの重要性を示唆している。
③全体戦争の全体性
1945(昭和20)年まで、断続的に戦争が続いた。人人々の生活の隅々まで戦争の影響が及んだ。のちの世代の私たちは、・・・そんな同時代の人々になぜ戦争に反対しなかったのかと問いかけるのは、的外れである。
永井荷風を苛立たせた従順さと伊藤整を不思議がらせた平静さは、戦時下の人びとがそれぞれの立場で戦争の責任を引き受けながら、運命を受容したことの表われだった。
「新書」という形式、さらにもとは「日経新聞」での連載記事だったこともあって、わかりやすい反面、突っ込みが足りない点があるのは致し方ないか。
清沢 洌(きよさわ きよし)
1890年(明治23年)2月8日 - 1945年(昭和20年)5月21日)は、ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。
外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。
1907年(明治40年)、17歳のとき当時の同地での渡米熱をうけて、研学移民(学生となるための立場での移民)としてアメリカ合衆国ワシントン州に渡航した。シアトル、タコマで病院の清掃夫、デパートの雑役などを務めるかたわらタコマ・ハイスクール、ワシントン大学などで学んだ。
1911年(明治44年)頃からは現地の邦字紙の記者となり、数年にして現地日本人社会で著名な存在となった。当時はアメリカ西海岸において日本人移民排斥運動が高潮に達していた。日本人に対する蔑視と敵意を、日本国内の為政者として、あるいは恵まれた立場の在米外交官としてでなく、日本政府からの庇護の薄い移民という立場で味わったにも拘わらず、清沢は晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた希有の自由主義平和思想家であった。
1918年(大正7年)帰国した清沢は、貿易関連の仕事を転々とした。
1920年(大正9年)には中外商業新報(現在の日本経済新聞)に入社した。ここでもはじめは米国関連、日米問題関連のエキスパートとしての執筆活動を行ったが、大正デモクラシー、政党政治の伸長、関東大震災後の混乱(なお清沢は妻子をこの震災で喪った)、日本の満州進出などを受けて、国内問題や対中関係も彼の執筆対象となっていった。
1927年(昭和2年)には東京朝日新聞に移籍し、またこの頃から新聞以外での著作活動も精力的に始まった。清沢の基本的な立場は、対米関係においては協調路線、国内では反官僚主義・反権威主義、対中関係では「満州経営」への拘泥を戒めるものであって、石橋湛山のいわゆる「小日本主義」と多くの共通点をもっていた。だが清沢のリベラルな論調は右翼勢力からの激しい攻撃にさらされた。特にその著作『自由日本を漁る』所収の「甘粕と大杉の対話」(大杉栄殺害犯として獄中にある甘粕正彦憲兵大尉を大杉の亡霊が訪ね、甘粕の迷妄を論破する、というストーリー)は国体を冒涜するものとして批判された。
1929年(昭和4年)には清沢は東朝退社に追い込まれ、以後は生涯フリーランスの評論家として活動することになる。
フリーとなった清沢は1929年から1932年(昭和7年)までの3年間のほとんどを欧米での取材・執筆活動にあてることとなる。
1929年にはアメリカの「暗黒の木曜日」とそれに続く大恐慌を現地で体験する。
1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議は、雑誌「中央公論」の特派員という肩書で取材した。会議では、補助艦の対米比率7割死守を図る日本海軍側代表団と清沢は互いに批判的な関係にあり、清沢は「六割居士」という綽名を頂戴する始末であった。その他、この欧米滞在中にはチェコスロバキア外務大臣ベネシュ、イタリア首相ムッソリーニ、実業家ヘンリー・フォードなどと会見、それら会見記は公刊されている。
1931年(昭和6年)の満州事変勃発、1932年の第一次上海事変は滞米中に遭遇しており、日本の大陸進出に対するアメリカの厳しい世論を目の当たりにすることにもなった。
1932年、帰国した清沢は日本の内政・外交に対する鋭い評論を行うこととなる。満州国単独承認問題、国際連盟における満州問題の討議、引き続くリットン調査団派遣を巡って国内世論は沸騰していたが、「国を焦土と化しても」日本の主張を貫徹する、と答弁した外相内田康哉、スタンドプレーに終始し意味のある成果を引き出せなかった国際連盟首席全権松岡洋右をそれぞれ批判した「内田外相に問ふ」「松岡全権に与ふ」は、この時期の代表的評論である。また、数多くの国内講演、著作、雑誌論文などを通じて、清沢は商業主義・迎合主義に流されやすい日本のジャーナリズムに対する批判と、自己の漸進主義とでもいうべき自由主義の立場を明らかにしていった。
1937年(昭和12年) - 1938年(昭和13年)には、堪能な語学力を買われてロンドン開催の国際ペン・クラブ世界会議の日本代表という立場で再び欧米を訪問し、各所で精力的な講演活動を行う。日中戦争の勃発・激化を受けて欧米の対日感情は極度に悪化していたが、愛国者を自負する清沢はむしろ積極的に講演で、あるいは現地新聞への投書などを通じて日本の立場の擁護・正当化を行っていった。皮肉なことに、彼自身が国内で反対の論陣を張っていた硬直的・非協調的外交政策のスポークスマンの役を担わされたわけである。また駐英大使を務めていた吉田茂とは、このロンドンでの新聞投書による世論工作の過程で親しくなっていったという。
帰国後の清沢は、再び本来の対米協調を主軸とした外交への転換を訴える立場を取り、「新体制」「東亜新秩序」などの言葉に代表される抽象的かつ空疎な政策を諫め、アメリカを威嚇することで有利な結果を得ようとする外交政策の愚を説き、ドイツとの連携に深入りすることなく欧州情勢の混沌から距離をおくことを主張したが、事態は1940年(昭和15年)の日独伊三国軍事同盟、1941年(昭和16年)の日ソ中立条約、南部仏印進駐とそれらに対する米国の一連の対抗措置は、ことごとく自らが提言した潮流と相反する方向へ進んだ。
1941年2月26日、情報局は各総合雑誌に対し執筆禁止者のリストを交付し、清沢の名前もそこに含まれていた(他には矢内原忠雄、馬場恒吾、田中耕太郎、横田喜三郎、水野広徳、等)。これ以降の清沢は時事問題に対する直接的な意見の表明は不可能となり、外交史に関する著作という形で間接的に当時の政策を評論することとなった。幕末開国時から日ソ中立条約までを俯瞰する『外交史』およびその増補改訂版として太平洋戦争開戦までを記す『日本外交史』は著名であるし、大久保利通がいかにして征韓論を打破し、台湾出兵およびその後の北京における対清交渉を果断にまとめていったかを賞揚する『外政家としての大久保利通』は、昭和戦前期日本外交に対する痛烈な批判となっている。大久保の外戚である吉田茂(妻が牧野伸顕の娘で、利通の孫にあたる)がこの本を贈呈されて一読、感銘を受けた旨を記した清沢宛の書簡が現存している。その他、石橋湛山が主幹を務める「東洋経済新報」誌上では匿名執筆の形で時事問題をしばしば論じる一方で、ダンバートン=オークス会議にて討議された国際連合憲章原案をいち早く入手、分析批判し、清沢の対案を同誌上で提示している(石橋の勧めもあったという)点などは、その先見性を示すものといえる。
1942年(昭和17年)開戦1年後、清沢は「戦争日記」と題した、新聞記事の切抜きなども含む詳細な日記を記し始めた。いずれ時期が来れば、日本現代史(昭和史)の著述にあたり、その備忘録とするつもりであったとされる。官僚主義の弊害、迎合的ジャーナリズムの醜態、国民の対外事情に対する無知、社会的モラルの急速な低下などを記録する(広い意味でファシズムへの抵抗を示した)。この日記は1954年に『暗黒日記』の題名で、東洋経済新報社で出版され、数社で新版刊行された。
1945年(昭和20年)5月21日、終戦を目前に急性肺炎により東京築地の聖路加病院にて急逝した。吉田茂、石橋湛山という後に首相となった2人を知己にもち、戦後存命であれば政界・言論界で重きをなしたであろう知米派知識人の、55年の短い生涯であった。
(以上、「Wikipedia」参照)