「白澤宿」の中心部は350㍍ほどで終わって「枡形」(西の出入口)になってしまいます。
それほど大きな集落ではありませんが、何だかもったいないほどの町並みです。宇都宮の繁華街から歩いてもわずか3~4時間で着くところなのですが、まだ街道情緒を残す建物などが残っています。
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新しいおうちも目立ちますが、敷地は街道筋らしく、間口が狭く奥行きが長い。これまでの東海道など街道歩きでしばしば見てきたようすと変わりません。
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(12:28)正面が枡形(鈎の手)になります。![]()
その突き当たりには「澤姫」という地酒を造っている「井上清吉商店」。「真・地酒宣言」。杉玉もしっかり。
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宿内を振り返って望む。左奥から来ます。![]()
(12:30)右折し、しばらくして渡る橋が「九郷半橋」。
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この先が道を間違ったところ。案内板でもあったならば(もしかしたら見逃したのかもしれませんが)と悔いても後の祭り。
宿場を出ると、広い道が西(左)にカーブしていきます。目の前のまっすぐな道はちょっと細くて何だか心許ない。つい広々とした道路の方へ向かってしまいました。
先達の案内書を見ると、「しばらく行くと、鬼怒川の土手に出る」という風にあります。そのうち出会うだろうと歩いて行きました。いっこうに「鬼怒川」にぶつからない。
変だと思ったときはすでにかなり来てしまった! 「白澤宿」を出たら、そのまま先ほどの道を北に向かわなければならなかったのです。そのため、「白澤の一里塚跡」記念碑にも遭わないはず。路線バスの行き先が「白沢河原」とあったのを思い出しました。その道の先に終点があったわけです。・・・
向こうに見える山は「笠松山」?
(12:41)土地改良工事のモニュメント?
ユニーク!
(13:09)ひたすら歩いてやっと「鬼怒川」に架かる「阿久津大橋」のたもとに着きました。右手から来る道が鬼怒川の土手道。
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土砂降りの雨に遭わなかったのがせめてもの慰め。車以外はまったく誰にも会わない車道を歩いてきたのでした。「鬼怒川渡し場」跡の標識も見ずじまい。
この先もまた大変! 「阿久津大橋」を行かなければならないのですが、車道のみ。歩行者用の道はなく、端にある白線だけが頼り。
車はどんどん飛ばして来るし、大きな車でも来たときには冷や冷やもの。何しろ人がこんな橋の上を渡っているなどと運転手は思いもしないはず。お互いに冷や冷や。
後ろから刎ねられたらたまったものじゃないと反対車線の方に行こうとしても車の列は途切れない。危険極まりない歩き。
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(13:13)橋の真ん中付近で「さくら市」になります。![]()
下流側。![]()
河原を見下ろすと、鮎釣りの人がそこかしこに。![]()
下流。河原の様子からけっこう幅が広い川です。![]()
橋を渡って突き当たりを左折して行きます。(13:27)途中、「浮島地蔵」「船玉神社」の案内表示があります。「鬼怒川」べりにあるようですが、雨が降ってきそうで、省略。この道が旧道かどうか定かではなく、ちょっと不安に。
右手に蕎麦畑が広がり、その先に食堂があったので、道を聞きがてらビールと地元のうどんを食し、ゆっくり休憩。
「勝山食堂」さん。親切に教えてくれました。
(14:20)そのすぐ先、右手に「将軍地蔵」。
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将軍地蔵
源義家が奥州に進軍したとき鬼怒川釜ヶ淵の悪蛇のため進めません。秀円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたので、勝山城を守護する寺院として堂原に将軍山地蔵院満願寺を建てました。
室町時代のころ、ここから日光山へ修行にいったお坊さんが意地悪山伏に素麺を無理やり食べさせられて気絶しました。別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べ尽くしたので山伏は降参しました。お坊さんは将軍地蔵の姿となりお坊さんを連れて勝山に帰りました。これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ、日光責め・強飯式が起こったと言われています。戦国時代に那須勢が攻めてきて焼き打ちをしたので満願寺は焼けてしまいました。
江戸時代には再建されて堂原地蔵堂となり奥州街道の道中安全に利益があるので有名となり、遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石灯籠などが残されています。
境内には古くて大きなイチョウがあります。推定樹齢約600年、樹高28.2㍍、目通周囲4.9㍍。
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堂原の公孫樹(天然記念物)
本来の旧道はこの先工場の敷地内でなくなってしまっているらしいので、そのまま進んで、「ベイシア」への入口を右折していきます。
(14;28)![]()
道路をはさんで左手は「さくら市ミュージアム」「勝山城址公園」となっています。
「スーパーベイシア」の駐車場に沿って左に行くと、上下線片側2車線、中央分離帯もがっちり設置された「国道4号線」にぶつかってしまいます。
旧道はそのまま向こう側につながっていきますが、信号機がなく、車はひっきりなしに通過するので、ここも危険極まりありません(「阿久津大橋」よりも危険! )。
遠く左には信号のある交差点、南には横断歩道橋。そこで、横断歩道橋を行くことにします。
「スーパーベイシア」正面。![]()
(14:36)歩道橋から望む。
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「那須塩原」方面。 「宇都宮」方面。
国道4号線の距離表示「東京まで124㎞」ポスト。![]()
正面の道から、
この道へ。
それほど大きな集落ではありませんが、何だかもったいないほどの町並みです。宇都宮の繁華街から歩いてもわずか3~4時間で着くところなのですが、まだ街道情緒を残す建物などが残っています。

新しいおうちも目立ちますが、敷地は街道筋らしく、間口が狭く奥行きが長い。これまでの東海道など街道歩きでしばしば見てきたようすと変わりません。

(12:28)正面が枡形(鈎の手)になります。

その突き当たりには「澤姫」という地酒を造っている「井上清吉商店」。「真・地酒宣言」。杉玉もしっかり。


宿内を振り返って望む。左奥から来ます。

(12:30)右折し、しばらくして渡る橋が「九郷半橋」。


この先が道を間違ったところ。案内板でもあったならば(もしかしたら見逃したのかもしれませんが)と悔いても後の祭り。
宿場を出ると、広い道が西(左)にカーブしていきます。目の前のまっすぐな道はちょっと細くて何だか心許ない。つい広々とした道路の方へ向かってしまいました。
先達の案内書を見ると、「しばらく行くと、鬼怒川の土手に出る」という風にあります。そのうち出会うだろうと歩いて行きました。いっこうに「鬼怒川」にぶつからない。
変だと思ったときはすでにかなり来てしまった! 「白澤宿」を出たら、そのまま先ほどの道を北に向かわなければならなかったのです。そのため、「白澤の一里塚跡」記念碑にも遭わないはず。路線バスの行き先が「白沢河原」とあったのを思い出しました。その道の先に終点があったわけです。・・・

(12:41)土地改良工事のモニュメント?

(13:09)ひたすら歩いてやっと「鬼怒川」に架かる「阿久津大橋」のたもとに着きました。右手から来る道が鬼怒川の土手道。


土砂降りの雨に遭わなかったのがせめてもの慰め。車以外はまったく誰にも会わない車道を歩いてきたのでした。「鬼怒川渡し場」跡の標識も見ずじまい。
この先もまた大変! 「阿久津大橋」を行かなければならないのですが、車道のみ。歩行者用の道はなく、端にある白線だけが頼り。
車はどんどん飛ばして来るし、大きな車でも来たときには冷や冷やもの。何しろ人がこんな橋の上を渡っているなどと運転手は思いもしないはず。お互いに冷や冷や。
後ろから刎ねられたらたまったものじゃないと反対車線の方に行こうとしても車の列は途切れない。危険極まりない歩き。

(13:13)橋の真ん中付近で「さくら市」になります。

下流側。

河原を見下ろすと、鮎釣りの人がそこかしこに。

下流。河原の様子からけっこう幅が広い川です。

橋を渡って突き当たりを左折して行きます。(13:27)途中、「浮島地蔵」「船玉神社」の案内表示があります。「鬼怒川」べりにあるようですが、雨が降ってきそうで、省略。この道が旧道かどうか定かではなく、ちょっと不安に。
右手に蕎麦畑が広がり、その先に食堂があったので、道を聞きがてらビールと地元のうどんを食し、ゆっくり休憩。

(14:20)そのすぐ先、右手に「将軍地蔵」。


将軍地蔵
源義家が奥州に進軍したとき鬼怒川釜ヶ淵の悪蛇のため進めません。秀円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたので、勝山城を守護する寺院として堂原に将軍山地蔵院満願寺を建てました。
室町時代のころ、ここから日光山へ修行にいったお坊さんが意地悪山伏に素麺を無理やり食べさせられて気絶しました。別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べ尽くしたので山伏は降参しました。お坊さんは将軍地蔵の姿となりお坊さんを連れて勝山に帰りました。これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ、日光責め・強飯式が起こったと言われています。戦国時代に那須勢が攻めてきて焼き打ちをしたので満願寺は焼けてしまいました。
江戸時代には再建されて堂原地蔵堂となり奥州街道の道中安全に利益があるので有名となり、遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石灯籠などが残されています。
境内には古くて大きなイチョウがあります。推定樹齢約600年、樹高28.2㍍、目通周囲4.9㍍。


堂原の公孫樹(天然記念物)
本来の旧道はこの先工場の敷地内でなくなってしまっているらしいので、そのまま進んで、「ベイシア」への入口を右折していきます。
(14;28)

道路をはさんで左手は「さくら市ミュージアム」「勝山城址公園」となっています。
「スーパーベイシア」の駐車場に沿って左に行くと、上下線片側2車線、中央分離帯もがっちり設置された「国道4号線」にぶつかってしまいます。
旧道はそのまま向こう側につながっていきますが、信号機がなく、車はひっきりなしに通過するので、ここも危険極まりありません(「阿久津大橋」よりも危険! )。
遠く左には信号のある交差点、南には横断歩道橋。そこで、横断歩道橋を行くことにします。
「スーパーベイシア」正面。

(14:36)歩道橋から望む。


「那須塩原」方面。 「宇都宮」方面。
国道4号線の距離表示「東京まで124㎞」ポスト。


この道へ。
