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Channel: おやじのつぶやき
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「相模運輸倉庫専用線跡」その1。(JR横須賀線「田浦」駅下車。)

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JR横須賀線「田浦」駅は「田浦梅林」の最寄り駅として今の季節は少しばかりの賑わいぶり。梅林には南側(山側・国道16号線側)へ向かいますが、北側(海側・長浦港側)に向かうと、倉庫街に。その中に廃線跡が点々とあります。けっこうマニアには知られたところ。
 「田浦梅林」へ向かう人とは反対に駅の北口側へ。こちら側は人通りもなく、お店も一軒しか見当たりません。倉庫と自衛隊の施設が点在する地域。
 
相模運輸倉庫専用線
 田浦駅から長浦港方面へ「相模運輸倉庫」が保有する専用線が分岐しています。この路線は長浦港に張り巡らされており、一部は在日米軍の施設である田浦送油施設へ続いていました。かつては、その施設から発送されるジェット燃料や周囲の倉庫からの飼料輸送などを行っていましたが、1998年より使用されていません。
 現在、路線は撤去されないまま存置されている箇所もあったり、朽ち果ててしまったところ、道路拡幅、舗装工事等で完全撤去されたり、アスファルトに埋もれてしまった線路など、廃線マニアには探究心をそそる廃線跡です。
 ただし、「相模運輸倉庫」はもとより、自衛隊の施設だったり、国有地だったりして、立ち入り禁止区域も多く、また、軍事施設もあって、むやみやたりに立ち入ったり、写真を撮るのもはばかられる場所もあります。カメラを片手に興味深そうに歩き回ったり、やたら建物や基地内部を撮ったりしていると誰何されることもありそうな、・・・そんな廃線跡探訪です。

横須賀側。左が専用線トンネル。

すでに使用されていません。

逗子側を望む。

    

改札口を出たところにある案内図。下方に専用線の線路。

 田浦駅は駅の両側がトンネルになっていて、特に鎌倉側は車両の一部がトンネル内になってしまい、乗降できません。
鎌倉側。

 人もほとんど見かけない階段を下りてくるとお店が一軒。「夜城」。営業しているのどうか定かではありません。


 道路を渡ると、こんな「相模運輸倉庫」の案内板が掲示されています。
鉄道線路が表示され、たくさんの倉庫が点在しています。

 「相模運輸倉庫株式会社」は、そのHPによれば、
 主に東京湾各港(横須賀・横浜・川崎・東京・船橋・千葉)での港湾運送荷役事業を行う会社で、完成自動車の輸出船積作業および原糖輸入作業等や船舶代理店業務、ポーター業務なども行っているようです。

 また、「田浦」地区は戦前から、横須賀海軍とのつながりの中で、発展してきたようです。以下「横須賀市」HPによると、

 横須賀の海軍工廠は明治から大正にかけて規模を拡大し、大正12年に横須賀海軍軍需部が新しく設置された。庁舎は、はじめ湊町(現在の汐入町1丁目)にあったが、さらに規模を拡大するため、田ノ浦海岸が海軍により買い上げられ、湊町から移転することになった。当時、この地区は長浦の村民が住んでいたため、立ち退かされた村民は、現在の国道16号線をつくるために移転させられた村民とともに、国道よりも南側にあたる現在の安針塚駅近くに移り住んだ。
 こうして、村民から買収した海岸地区の建設工事がはじまり、昭和2年、軍需部本部・倉庫等ができ湊町からの移転が完了した。これと並行して、国道から軍需部正門までの道路(現在の田の浦プール沿いの道)も整備された。長浦は、昭和になって、軍需部の湊町からの移転と国道の開通という2つの出来事により、町の姿は大きく変わっていった。国道の開通により、田浦全町と横須賀が結ばれ、軍需部で働く人も多くなった。
 軍需部というのは、砲弾、魚雷、機雷などの兵器類から軍艦で使う燃料、食糧、被服までいっさいの軍需物資を工場などから集めて保管し、軍艦や前線に送り出すところである。横須賀海軍軍需部の本部は田の浦に置かれ、JR田浦駅の裏にある数多くの倉庫が長浦倉庫と呼ばれていた。長浦(倉庫13棟、その他10棟)・比与宇(倉庫12棟、その他2棟)・田ノ浦(倉庫24棟、その他32棟)、郷戸・狢・日向地区、吾妻山・箱崎(重油槽16)の本部地区のほか、久里浜倉庫・池子倉庫・久木倉庫・大船倉庫などに分かれていた。正門は現在の野球場入口付近にあり、裏門はJR田浦駅裏にあった。長浦から引込み線があり、連日、貨車が出入りしていた。戦前・戦時中、軍需部前駅(現在の安針塚駅)から軍需部など海軍関係の施設へ通う人々で行列が続いたという。
 しかし、戦争が激しさを増してくると軍需部付近(現在の長浦1丁目など)の民家は「建物疎開」で強制的立ち退きをさせられ、他の土地へ引っ越ししなければならなかった。また向かい側の山に防空壕が掘られ、倉庫と従業員の避難場所とされた。
戦後、軍需部等軍の施設は進駐してきた米軍が使うことになり閉鎖されたが、1年足らずで日本に返され、昭和21年には、東京湾倉庫(後に相模運輸倉庫)、その後、大洋漁業、横須賀メリヤス工場などの民間会社が旧海軍施設に進出し操業をはじめた。長浦は、軍港長浦から平和産業の会社などのある新しく活気のある町となったが、現在は、捕鯨禁止の影響をうけ大洋漁業が去り、その後横須賀メリヤス工場もなくなった。付近は海上自衛隊や米海軍に使用され、一部横浜ベイスターズ球場などになっている。

 上記の通り、 JR田浦駅北口・海岸地区一帯は、戦前、海軍により明治37年水雷術練習所の建物などがつくられ、さらに大正8年海軍工廠造兵部の長浦倉庫(のちの軍需部長浦倉庫)と海軍水雷学校の拡張工事の敷地となったところ。長浦湾の岸壁にそった倉庫地帯は、旧海軍軍需部の、主に兵器庫があったところで、いまでも軍需部当時の古い建物が多く残っています。
戦後、旧軍需部の倉庫群は、現在、相模運輸倉庫(株)などの倉庫会社や長浦港湾施設に使用され、また比与宇火薬庫は、現在も海上自衛隊が使用しています。
 廃線跡だけではなく、建物などの戦争遺跡が残された地域でもあるようです。

 こうした予備知識をもとにしての探索ですが、ちょっとの時間で、というわけにはいかないようです。

「相模運輸倉庫F号倉庫」。
 大正6年に旧海軍の倉庫として造られた。終戦直前には軍需部修理場として使われた。レンガ・コンクリート製だが、モルタル塗りのためわかりにくい。現在も倉庫として使用されている。

 この他にも、旧海軍当時の倉庫が残されています。

    

    



 そして、それぞれの倉庫に関連しての物資輸送の鉄道が敷設されていたわけです。

「相模運輸倉庫」。

 建物にしても廃線にしてもあえてこうして残しているのは、横須賀市の(あるいは市民の)戦争遺跡保存という考えがその根底にあるのかもしれません。
 一方で、日本中、至る所にあれだけの大空襲を行った米軍。中でも横須賀基地は明治以来の日本海軍の重要な拠点港。その猛攻撃のなかにあって、海軍関連の建物や線路を残したのは、日本の敗戦、その後の占領による有効支配という深謀遠慮が働いたのに違いありません。用意周到なアメリカの空襲作戦だったのでしょう。おかげで横須賀周辺にこのように戦争遺跡が数々残されていることに。
 もちろん、そのために、(横須賀は1年足らずで返還されたようでが)首都圏では立川基地、横田基地、池子などの横須賀周辺地域に長期間に亘る膨大な土地を占拠する米軍基地の存在(一部は、その後の自衛隊の基地化)という事態を生んだわけです。



1970年代のようす。左手トンネル先のJR横須賀線「田浦」駅から分かれてカーブを描いて北西に進む線路。

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