2月2日(火)。午後からの予定がなくなって、せっかくの晴れ間。11時少し前の上野発高崎行きに乗って「本庄」までやってきました。到着は12時20分過ぎ。車内で弁当を食べて、準備万端、のつもり。
ところが、降り立ってみると、かなり風が冷たく吹く昼下がり。時々雲がお日様を遮り、体感的にはけっこう寒い! せめて3時間くらいは歩いて「新町宿」までは、と歩きはじめました。思ったよりも北風が強く、寒さにちょっとくじけそうに。
本庄宿
中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて10番目の宿場。
武蔵国の北部国境付近に位置し、武蔵国最後の宿場。江戸より22里(約88km)。中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場で、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。江戸室町にも店を出していた戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家は全国的に富豪として知られていた。
市街地の北西端には、中山道と信州姫街道の追分がある。場所は、現在の千代田3丁目交叉点付近。追分はT字路状で、江戸側から見ると、左折すれば信州姫街道、右折してすぐ左折という枡形ルートで中山道京都方面、となっていた。
元禄6年(1693年)頃では384軒ほどだったが、享保7年(1722年)には500軒となり、文化8年(1811年)には1072軒、文政5年(1822年)には1088軒、天保14年になると1212軒となった。
中山道では本庄宿に次いで大宿なのが、近江国の高宮宿(64番目)、武蔵国の熊谷宿(8番目)、上野国の高崎宿(13番目)、美濃国の加納宿(53番目)となる。
商家を中心に構成されていた宿内だが、寛永2年(1625年)に参勤交代が制度化され、この時、本庄宿に田村本陣などができた。しかし、宿泊人数が増え、本陣だけでは対応できなくなってきたため、明暦2年(1656年)頃には内田脇本陣ができた(寛政4年(1792年)には本陣に昇格している)。田村本陣は北本陣と言い、現在の中央1丁目6番付近にあった。
本陣が2軒、脇本陣が2軒。一般の人々が宿泊する旅籠(はたご)も多く軒を並べた。たとえば、文化元年(1804年)には町並み全体の475軒に対し、77軒と多い。特に仲町の日野屋は上級であったと言われる。これらとは別に、飯盛旅籠屋もあり、天保13年(1842年)には54軒を数えている。
本庄宿は、商人(あきんど)の町として発展していったため、店の種類が多い。
医師、殻屋、豆腐屋、米屋、酒屋、煙草屋、菓子屋、八百屋、古着屋、桶屋、建具屋、鍛冶屋、傘屋、研師、陰陽師、職人、大工、石工、髪結、畳屋、鋳掛屋、経師屋、薬種屋、魚屋、本屋、質屋、両替屋など。
本庄宿の19世紀当時の風景を今に伝えるものとして、渓斎英泉作中山道六十九次の『支蘓路(きそろ)ノ駅本庄宿神流川渡場』があるが、その他にも幕府が作成した『中山道分間延絵図』である。これは寛政12年(1800年)から文化3年(1806年)にかけて作成された国内の各道中を集成した測量絵巻。縮尺は約1800分の1で、1982年に国の重要文化財に指定されている。この『中山道分間延絵図・本庄宿』の模写(レプリカ)は、本庄市立本庄歴史民俗資料館の2階に展示されている。
本庄宿が中山道で最大の宿場町と成り得たのは、早い時期に城が廃城(本庄藩が廃藩)となったことで、城下町全体を宿場町としてそのまま利用できたことによる。文字通り、城下町(武家の領地)から宿場町(商人の町)へと方向転換していった町であり、幕府の政策意向による。結果として、大飢饉や天災が生じた時でも、諸藩が財政難から領民を救えなかったのに対し、本庄宿では豪商達が宿内民の救済処置に当たることができた。
基が城下町であるため、道が入り組んで細かいことも特徴の一つであり、近年になって道路整備が行われるまで、複雑な町の造りが交通事故の多さに繋がっていた。
本庄宿は、宿場町としては規模が大きかったため、何度か大きな火災被害を受けており(特に町の拡大が進んだ18世紀から)、近世当時の面影を残す建物は少ない(明治期の近代建築の方が目立つ)。本庄宿の蔵作りは街道沿いの正面ではなく、店先を一つ下がった部分に建設されている。これらは隣家の蔵と繋がり、蔵の帯とも言うべき家並みを作った。その理由は、火事になった時、防火帯の役目をはたしたからである。商家の資産を保管していた、こうした蔵々が火災の時に盾となった。これも近世当時の建物が少ない理由である。

『支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場』天保6- 8年(1835-1837年)渓斎英泉 画
宿より5.5キロ離れた神流川渡し場を題材としている。背景の山は上毛三山であり、右から赤城・榛名・妙義山である。土橋は初代戸谷半兵衛こと光盛が架けさせたものであり、長さ30間(約55メートル)、幅2間(約3.6メートル)。出水で橋が流された場合に備え、別に長さ5間5尺(10.6メートル)、幅7尺の渡し船も用意された。光盛は無賃渡しとする為に金100両を上納した。また、右手前(および向こう岸)の常夜燈は3代目戸谷半兵衛こと光寿が寄進したものである(在地豪商である戸谷半兵衛家の経済力と影響力がうかがえる浮世絵となっている)。
(「以上、「Wikipedia」参照)
歴史のある街並みのようす。「本庄駅入口」で中山道に復帰。すぐそばの「りそな銀行」付近が「田村本陣」跡ということですが、特に標識はありません。
しばらく進むと、「戸谷八商店」。「創業永禄3年」とあります。その前のおうちは「創業 元禄二年」とありました。「永禄3年」は西暦1560年、桶狭間の戦いがあった年。「元禄2年」は、1689年、芭蕉が「奥の細道」に出かけた年。その古さに驚きです。

(12:35)続いて「本庄仲町郵便局」。昭和9年建設のもの。

その脇には「中山道 本庄宿」の碑。

そして「ほんじょう かるた」。史跡にちなんだ「かるた」が要所、要所に。

「本庄市歴史民俗資料館」への曲がり角にある「蔵髪」さんのお店。

古い蔵造りのお家をそのまま再利用。なかなか粋なお店つくり。


その角を右に曲がって少し進み、右に入ったところにあるのが、「本庄市歴史民俗資料館」。そこに「田村本陣」の正門が移築されています。


本庄市指定文化財 田村本陣門
この門は本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の正門です。
本陣とは宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。田村本陣があったのは現在の中央1丁目6の杭域で寛永16年(1642)から宿泊記録が残されています。
本庄市教育委員会
その奥にあるのが「資料館」。明治16年(1883年)に旧本庄警察署として建設されたものを利用しています。

建物正面にはコリント式列柱を配したバルコニーがあって、当時のハイカラな印象を今も残しています。


「資料館」から出て、すぐに中山道に戻らずに右に行くと、小さな橋ですが、趣のある親柱が。


賀美橋 国登録有形文化財
この橋は、大正15年に元小山川に架けられた鉄筋コンクリート桁橋です。従来の伊勢崎道の幅員は狭く、「寺坂」と呼ばれる急勾配の屈曲した道であったため、荷車や自動車等の増大する交通量に対応できませんでした。また、利根川には仮設の木橋が架けられているのみであったため、当時の基幹的な産業であった生糸・織物業関係者の通行に不都合が生じ、坂東大橋の架設に伴う伊勢崎新道の開設に際して架橋されたのがこの橋です。この橋は、近代的な意匠を凝らした装飾をもつ親柱やタイル張りの高欄など竣工時の様相を残す貴重な近代化遺産です。
平成25年3月 本庄市教育委員会
「元小山川」の流れ。

煉瓦造り倉庫。「本庄商業銀行」。1896年(明治29年)に建てられたもの。生糸産業全盛期に、本庄商業銀行が繭や生糸を担保にお金を貸していた、その倉庫となっていました。
1976年(昭和51年)からは「ローヤル洋菓子店」の店舗兼工場として使われていましたが、平成23年からは本庄市の所有となりました。現在、修復工事中。


左手にあるお蕎麦屋さん。

ちょっと横町を覗くと、蔵造りの建物が多く残っています。市ではそれを生かした街づくりを進めているようです。詳細な解説版が掲示されていましたが、内容は省略。


ここは「本庄・宮本 蔵の街」です。旧小森商店(酒問屋)の跡地、建物を保存活用しました。
