「水神社」前から戻って、右折(戸田橋からでは左折)。
土手方向を振り返る。
しばらく行くと左手に小公園があり、「歴史のみち 中山道」という解説板があります。
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歴史のみち 中山道
この道は、江戸時代の中山道の一部といわれています。
中山道は、慶長7年(1602)に整備が始められ、日本橋を起点に、武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を経て、京都まで百三十五里余り、宿場は板橋宿から東海道と重なる草津・大津宿を含めて六十九宿ありました。
戸田渡船場から北に約200mほど残るこの中山道の道筋は、文化3年(1806)に作成された「中山道分間延絵図」にも、現存する地蔵堂とともに描かれています。
渡し口には渡船を取り仕切る川会所がおかれ、その西方には、かつて羽黒権現がありました。街道筋には、渡船にも携わる家々や通行人を相手に商う茶屋などが立ち並んでいました。江戸と京都を結ぶ主要街道として、大名や公家の行列も通行し、文久元年(1861)最後の大通行といわれる皇女和宮の下向にも利用されました。
しかし、菖蒲川を越えたところからの道筋は、現在まったく失われてしまいました。旧中山道はしばらく北上した後、昭和の初期まであった荒川の旧堤防を斜行しながら横切り、ほぼ現在の国道17号線に沿っていました。国道とオリンピック通りとの交差点付近には一里塚の跡ではないかといわれる場所もありました。そして再び旧中山道は国道から離れ、下戸田ミニパークの脇を西に曲がり、蕨市に残る旧中山道へとつながっていきます。
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1896年~1909年。現在残されている旧道は、A、B(現中山道・国道17号線に組み込まれている)、Cの三ヶ所のようです。
この先、A地点までは「国道17号線」に沿って歩く一部以外は「旧中山道」の道筋ではなさそうです。
C地点から北に向かうと、「菖蒲川」にぶつかるので、右折、橋を越えて行きます(①)。公園のすぐ先を左折、突き当たりを右折。細い道の住宅地を北上(②)、商店街通りにぶつかるので左折して(③)「国道17号線」に出て、北上します(この辺りは旧道の一部? )。本町1丁目の信号を右折し、すぐ左折し、北上します。団地が右にある広い道を進むと、「川口信用金庫」前の交差点。その向こう側に「下戸田ミニパーク」があります。
①
②![]()
③![]()
「下戸田ミニパーク」。
A地点に到着。
こんな風に右左折を繰り返すより、「国道17号線」をそのまま進んで、「本町」交差点で右折してここに来るのでいいと思います。
「下戸田ミニパーク」にある解説板。![]()
先ほどの解説板とほぼ同じ内容です。
・・・再び旧中山道は国道から離れ、この説明板の建つ公園の脇道約80㍍とつながります。ここは市内に残るもう一ヵ所の中山道筋で、川岸から北上してきた旧中山道が大きく西へ曲がる部分となっていました。道筋は、この脇道から再び現在の国道に重なり、蕨市に残る旧中山道へとつながって行きます。
旧道。行く方向に「国道17号線」。
「国道17号線」を北に向かいます。右手に旧家らしいおうち。
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11:50。「錦1丁目」交差点から右に入る。
G・Sが目印。
江戸方宿入口モニュメント。
「冠木門」。
「蕨宿」は、江戸から2番目の宿。板橋宿から2里10町。町並みは10町(約1.1㎞)。天保14年(1843)の「宿村大概帳」では人口2223人、家数430軒。本陣2、脇本陣1、旅籠23軒。問屋場1、高札場1。
地名の由来については諸説あり、「藁火(わら-び)」説と「蕨」説に大別されます。
・「藁火」説
源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、在原業平が藁を焚いてもてなしを受けたことから「藁火」と命名した、など。
・「蕨」説
近隣にも見られる「青木」「笹目」「美女木(びじょぎ)」[7]などといった植物由来地名と同様、蕨(ワラビ)が多く自生する地であったことに基づく命名とするもの、など。
なお、「戸田の渡し」の川留めに備えて東隣りの塚越村にも本陣が置かれ、二の本陣、あるいは東の本陣と呼ばれました。
蕨宿の周りには用水と防備を兼ねた構え堀が巡らされていました。 この堀に面した家々には小さな跳ね橋が設けられていて、早朝下ろされ、夕刻になるといっせいに跳ね上げられ、宿場の出入り口である上下の木戸も同じ時刻に閉じられるので、夜の蕨宿は隔絶された小さな空間となっていました。
古民家などが多数健在で、かつての面影を伝える町並みを残しています。
国道の喧噪から落ち着いた宿場歩き。
道も茶色に。
「観光案内図」。
足元には中山道69次の宿場がタイル絵に。
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「大宮宿」。 「高崎宿」。
マンホールにも「蕨宿」。![]()
このキャラクターは、何という名前? 公式HPにも載っています。
「鳩」「三度笠」?
新しいおうちも街道風の趣。![]()
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歴史民俗資料館分館
分館は、明治時代に織物の買継商をしていた家をそのまま利用したものです。敷地は516坪(1,705㎡)あり、建物は床面積95坪(313㎡)の木造平屋、寄棟造りで、中山道に面した店の部分は明治20年(1887)に作られたものです。
店先。
商店も古い造りがそのまま。
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「蕨市歴史民俗資料館」。
「民俗資料館」には、当時の宿場の再現模型や旅籠の様子、機織りの道具などが展示されています。撮影禁止と知らず、パチリ!
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すぐ隣が本陣跡。1973(昭和48)年に建てられました。
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蕨市指定文化財 蕨本陣跡
蕨宿は江戸時代に中山道第2の宿駅として栄えたところである。
慶長11年(1606年)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられている。
その後、その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた。
蕨本陣の建物は今は同家にのこる本陣絵図面などによって知る外はないが、公家大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には御休息の場となり、ついで、明治元年(1868年)同3年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
現在、岡田家には古文書古記録歴史的遺品などわが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。
撰文 大野 晋
蕨市教育委員会
「中山道蕨宿 江戸江五里 京江百三十里」。
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当時の本陣の銅版画。 大名・公家等宿泊一覧。「和宮」の名も。
そこから、来た道を振り返って望む。

しばらく行くと左手に小公園があり、「歴史のみち 中山道」という解説板があります。

歴史のみち 中山道
この道は、江戸時代の中山道の一部といわれています。
中山道は、慶長7年(1602)に整備が始められ、日本橋を起点に、武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を経て、京都まで百三十五里余り、宿場は板橋宿から東海道と重なる草津・大津宿を含めて六十九宿ありました。
戸田渡船場から北に約200mほど残るこの中山道の道筋は、文化3年(1806)に作成された「中山道分間延絵図」にも、現存する地蔵堂とともに描かれています。
渡し口には渡船を取り仕切る川会所がおかれ、その西方には、かつて羽黒権現がありました。街道筋には、渡船にも携わる家々や通行人を相手に商う茶屋などが立ち並んでいました。江戸と京都を結ぶ主要街道として、大名や公家の行列も通行し、文久元年(1861)最後の大通行といわれる皇女和宮の下向にも利用されました。
しかし、菖蒲川を越えたところからの道筋は、現在まったく失われてしまいました。旧中山道はしばらく北上した後、昭和の初期まであった荒川の旧堤防を斜行しながら横切り、ほぼ現在の国道17号線に沿っていました。国道とオリンピック通りとの交差点付近には一里塚の跡ではないかといわれる場所もありました。そして再び旧中山道は国道から離れ、下戸田ミニパークの脇を西に曲がり、蕨市に残る旧中山道へとつながっていきます。

1896年~1909年。現在残されている旧道は、A、B(現中山道・国道17号線に組み込まれている)、Cの三ヶ所のようです。
この先、A地点までは「国道17号線」に沿って歩く一部以外は「旧中山道」の道筋ではなさそうです。
C地点から北に向かうと、「菖蒲川」にぶつかるので、右折、橋を越えて行きます(①)。公園のすぐ先を左折、突き当たりを右折。細い道の住宅地を北上(②)、商店街通りにぶつかるので左折して(③)「国道17号線」に出て、北上します(この辺りは旧道の一部? )。本町1丁目の信号を右折し、すぐ左折し、北上します。団地が右にある広い道を進むと、「川口信用金庫」前の交差点。その向こう側に「下戸田ミニパーク」があります。
①


③

「下戸田ミニパーク」。

こんな風に右左折を繰り返すより、「国道17号線」をそのまま進んで、「本町」交差点で右折してここに来るのでいいと思います。
「下戸田ミニパーク」にある解説板。

先ほどの解説板とほぼ同じ内容です。
・・・再び旧中山道は国道から離れ、この説明板の建つ公園の脇道約80㍍とつながります。ここは市内に残るもう一ヵ所の中山道筋で、川岸から北上してきた旧中山道が大きく西へ曲がる部分となっていました。道筋は、この脇道から再び現在の国道に重なり、蕨市に残る旧中山道へとつながって行きます。

「国道17号線」を北に向かいます。右手に旧家らしいおうち。


11:50。「錦1丁目」交差点から右に入る。

江戸方宿入口モニュメント。

「蕨宿」は、江戸から2番目の宿。板橋宿から2里10町。町並みは10町(約1.1㎞)。天保14年(1843)の「宿村大概帳」では人口2223人、家数430軒。本陣2、脇本陣1、旅籠23軒。問屋場1、高札場1。
地名の由来については諸説あり、「藁火(わら-び)」説と「蕨」説に大別されます。
・「藁火」説
源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、在原業平が藁を焚いてもてなしを受けたことから「藁火」と命名した、など。
・「蕨」説
近隣にも見られる「青木」「笹目」「美女木(びじょぎ)」[7]などといった植物由来地名と同様、蕨(ワラビ)が多く自生する地であったことに基づく命名とするもの、など。
なお、「戸田の渡し」の川留めに備えて東隣りの塚越村にも本陣が置かれ、二の本陣、あるいは東の本陣と呼ばれました。
蕨宿の周りには用水と防備を兼ねた構え堀が巡らされていました。 この堀に面した家々には小さな跳ね橋が設けられていて、早朝下ろされ、夕刻になるといっせいに跳ね上げられ、宿場の出入り口である上下の木戸も同じ時刻に閉じられるので、夜の蕨宿は隔絶された小さな空間となっていました。
古民家などが多数健在で、かつての面影を伝える町並みを残しています。
国道の喧噪から落ち着いた宿場歩き。


足元には中山道69次の宿場がタイル絵に。


「大宮宿」。 「高崎宿」。
マンホールにも「蕨宿」。

このキャラクターは、何という名前? 公式HPにも載っています。

新しいおうちも街道風の趣。



歴史民俗資料館分館
分館は、明治時代に織物の買継商をしていた家をそのまま利用したものです。敷地は516坪(1,705㎡)あり、建物は床面積95坪(313㎡)の木造平屋、寄棟造りで、中山道に面した店の部分は明治20年(1887)に作られたものです。



商店も古い造りがそのまま。



「民俗資料館」には、当時の宿場の再現模型や旅籠の様子、機織りの道具などが展示されています。撮影禁止と知らず、パチリ!


すぐ隣が本陣跡。1973(昭和48)年に建てられました。


蕨市指定文化財 蕨本陣跡
蕨宿は江戸時代に中山道第2の宿駅として栄えたところである。
慶長11年(1606年)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられている。
その後、その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた。
蕨本陣の建物は今は同家にのこる本陣絵図面などによって知る外はないが、公家大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には御休息の場となり、ついで、明治元年(1868年)同3年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
現在、岡田家には古文書古記録歴史的遺品などわが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。
撰文 大野 晋
蕨市教育委員会



当時の本陣の銅版画。 大名・公家等宿泊一覧。「和宮」の名も。
