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Channel: おやじのつぶやき
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志村一里塚からさいたま副都心駅まで。その1。(旧中山道をゆく。第2日目。)

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 12月22日(冬至)快晴。せっかくの晴れ。23日からはぐずつくお天気のよう。空を見上げて、即、出かけました。都営地下鉄三田線「志村坂上」駅下車。そこからスタート。

 午前10時頃から午後3時30分頃まで。

 「国道17号線」を交番のところで左斜めに進み、「清水坂」の急坂を下ります。

 坂にさしかかる手前の角には、
        

「富士・大山道の道標と庚申塔」。  

 富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山に通じる道です。この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。
 向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政4年(1792)に建てられたもので、正面には「是より大山道并(ならびに)ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(1860)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、練馬・柳澤(西東京市)・府中への距離が示されています。
 この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な存在であり、昭和59年度に板橋区の文化財に登録されました。
 
 平成17年3月    板橋区教育委員会 

坂の上にある「清水坂」碑。急激に下る。

大きく左にカーブする坂。振り返って望む。

左側は高台で急な崖になっている。

    

清水坂

 日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代とともにその呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。坂の下には板橋・蕨宿をつなぐ合(あい)の宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。この辺りは昭和30年代頃までは旧街道の面影を残していましたが、地下鉄三田線の開通など、都市化の波によってその姿を変えました。

 平成12年3月    板橋区教育委員会

 ほぼ真西に進んでいた「清水坂」は、この碑のところで、すぐ、45度くらいの角度で北に折れて戸田方向へ一気に下って行きます。
振り返って望む。

 富士山が正面右手に望めたというのはこのあたりでしょうか? 先ほどの「富士山・大山道」という道標付近のような気もしますが。


 1917年~24年(大正時代)


1927年~39年(昭和初期)「国道17号線(中山道)」が開通。


1992年~2005年(平成初期)

 ちなみに坂上は標高20㍍、清水坂で一気に下って坂下では5㍍となる。(いずれも「今昔マップ」より)

 都営三田線のガードをくぐって、「国道17号線」に合流します。「環八」との交差点を渡って、斜め右に進みます。

    
 ほんの少し、旧道を歩く。                   再び17号線に合流(来た道を振り返る)。

「(日本橋まで)15㎞」ポスト。「戸田橋」までは国道沿いに歩く。 

「新河岸川」(下流で隅田川と合流)。 

10:30「戸田橋」。けっこう長い。北風が強い。
                                      「新幹線」が通過中。

 「戸田の渡し」は、現在の「戸田橋」よりも100㍍ほど下流にありました。
                    

「荒川」河川整備に伴う「戸田橋」と旧中山道の変遷。









「戸田橋」の上から振り返ると、はるかかなた右手に真っ白な富士山の姿が。「清水坂」では無理だった「富士山」がくっきり、といっても肉眼で確認できるだけ。写真でははっきりしません(↓)。これから先、「中山道」歩きで富士山を眺めることがあるのでしょうか?

        

戸田橋を渡ると、右側の堤防上に案内板。

その先には解説板。
    

歴史のみち 中山道のご案内
 ここから階段を下り、東へ約130m先へ進むと、「歴史のみち 中山道」があります。
 中山道は、江戸日本橋を起点として慶長7年(1602)に整備が始められ、第一の宿場である板橋宿を過ぎ、次の蕨宿との間にあるのが荒川(戸田川)にあった「戸田の渡し」でした。
 戸田渡船場跡から北に約200mほど残るこの中山道の道筋は、文化3年(1806)に作成された「中山道分間延絵図」にその様子が描かれています。
 また、天保13年(1812)「中山道戸田渡船場微細御書上」によると、渡船場には家数が46軒
あり、渡し口には渡船を取り仕切る川会所がおかれ、街道筋には渡船にかかわる家々や旅人を相手に商う茶屋などが建ち並んでいました。現在もその様子が残っており、周辺には水神社や地蔵堂があります。

 「荒川」の堤防道路上に「解説板」と「碑」があります。階段を下りると、右手の頭上に位置するため、分かりにくい。左手にある「水神社」の先で、土手を右に上がります。

    
戸田の渡し

 中山道は木曽街道・木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは、慶長7年(1602)のことです。宿駅は六十七、越える川は大小十以上を数え、荒川は江戸を出るところに位置していました。この荒川には江戸防衛の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道「戸田の渡し」です。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次ぎの蕨宿の間にあり、交通の要所でありました。
 この渡しは、資料によると天正年中(1573~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保13年には13艘と増えています。 
 また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。
 やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治8年(1875)5月に木橋の戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。

平成26年1月    戸田市教育委員会

戻って土手下、右手には「水神社」。
 創立など詳しいことはわかりませんが、正面の「水神宮」の碑には寛政8年(1769)の銘があります。
 古くは荒川の端にあったもので、新堤防ができてから移され、川岸に住む人々の氏神様のようになっています。
 境内の正面には、「水神宮」や「船玉大明神」(船の守り神)と刻まれた大きな石碑が鎮座しています。また、「山王大神」や、茨城県の大杉神社から勧請した「大杉大神」(航海安全の神)などの石碑も合祀されています。
 この神社の祭礼は、7月14日、15日ですが、最近ではその日に近い日曜日に行われています。この祭礼のときに飾られる獅子頭は、もとは荒川のそばにあった羽黒社に古くから伝えられてきたものです。色や形、大きさとも偉容を誇る獅子頭で、市の指定文化財になっています。昔は、その年にはじめて採れた胡瓜をこの水神社に供え、この後に荒川に流してからでないと泳ぐことができないとされていました。

 平成8年3月   戸田市教育委頁会

        
         『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉

 蕨宿の近隣にあって一帯の水運を担う戸田の渡しが描かれている。人馬の別無く舟に乗り合い、白鷺が舞う戸田川を往く、天保の頃の人々ののどかな様子である。対岸の渡し場に続く道の左右には戸田村の家々が見える。渡船権はこの村が握っていた。

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