東海道は右の下り坂を進みます。神社脇にある「ようこそ『歴史の道 東海道』へ」との案内板。
ここは、土山町蟹ヶ坂です。
これより、往時の東海道を歩かれる方は、左図に示すとおり「海道橋」を渡り、道の駅「あいの土山」方面へ向かって下さい。
尚、「東海道土山宿」へはここから800mです。
土山を訪れていただいた皆様の道中のご無事をお祈りします。
甲賀市
このような道を進みます。
農作業をしている方もちらほら。
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振り返って集落を望む。
昔、この辺りに旅人を食べる巨大な蟹がいたという伝説から「蟹ヶ坂」と呼ばれています。それに因んだ名物が「蟹ヶ坂飴」。
「蟹ヶ坂飴」は、古くから土山宿の名物と知られ、浅井了意の「東海道名所記」(万治元年1658年)に「生野、茶屋あり、飴を煎じて売る。」とあります。
大昔、鈴鹿山麓に身の丈3mの巨大な蟹が出没し、旅行く人や近郷の村人に危害を加えていました。
ある時恵心院の僧都がこの地に赴き、大蟹に印明を示し、さらに大慈悲深く天台宗の「往生要集」を説き、説法を施すと不思議にも大蟹が随喜の涙を流して悪行を悟るが如く、我が身の甲羅を八つに割裂いてとけ失せました。
僧都は八つの甲羅を埋めて、蟹塚を建てると、不思議にも蟹の血がかたまって、八個の飴となったそうです。それを竹の皮に包んで村人に授け、「この八ツ割飴は、諸々の厄除けに効あり」と伝えました。
その後、数百年に亘り「厄除けの蟹ヶ坂飴」として世にその名声を高めたと伝えられています。江戸時代では、旅の疲れを癒す糖菓子として旅人に喜ばれました。
(以上、「
」HPより)
工場の間を抜け、しばらく行くと「蟹坂古戦場跡」。
蟹坂古戦場跡
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守及び飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。
平成7年3月 土山町教育委員会
「蟹坂古戦場跡」の碑を過ぎ、そのまままっすぐ新しい道に進みます。すぐに林の中となり、正面に新しい橋が見えてきます。
江戸時代前半は現在の「国道1号線」より約50m下流のあたりを徒歩で田村川を渡っていましたが、安永4年(1775)に木橋が架けられ、「東海道」は神社の参道を通るようになったといわれています。当時の板橋を復元した「海道橋」が2005年(平成17年)に竣工しました。江戸以来の旧来の橋名は「田村川橋」。
高札の解説について
この高札の文章は、田村川橋について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。
この田村川橋ができるまでは、この橋から約六百メートル程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人か多く出たため、その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。また、川止めも再三あり、旅人を困らせていました。
そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め、今までの東海道の道筋を変えて新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました。
『この橋を渡ることのできるのは、安永4年(1775)の閏月12月の23日からである(旧暦には閏月があり、この年は12月が二回続く)。この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民および一般の旅人については1人につき3文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬1頭につき3文、渡り賃を取ることになっている。この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである』
と書かれています。
「海道橋」。
この橋を渡るといよいよ土山宿です。広重の浮世絵もここを描いていると言われています。
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東海道五十三次之内 土山 春之雨 / 歌川 広重(「知足美術館」HPより)
ただ「知足美術館」HPの解説では異なっています。
土山宿を出て、四町ほどの所にある松尾川に、15間ばかりの橋が架けられていた。この付近は雨が多く、春の雨の中を行かなければならない行列と、水量を増して流れの激しい河が描かれている。箱根に匹敵する難所であった。
(注:「松尾川」は「野洲川」のことで、「土山宿」の西のはずれにあたります。)
「大正期の土山」(「同」HPより)。これは「田村川橋」付近。雪道のようです。
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歌川広重は、多くの道中図や名所図を描いているが、天保4年(1833年)に刊行された「東海道五拾三次」(保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、叙情豊かな作風を生み出している。土山を描いた「春の雨」は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。
土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5km)に細長く連なっていた。東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775年)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている。
「鈴鹿馬子唄」の一節「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」に因んだ絵柄であるようです。
「田村川」の流れ。
句碑「鮎の背に 朝日さすなり 田村川 井上士郎」。
参道を進み神社の前を左に曲がります。![]()
曲がり角に「高札場跡」碑と「海道橋」の解説板。![]()
橋が出来る以前の旧道が示されています。それによると、「道の駅・あいの土山」の南側の道につながっていたようです。
薄くらい参道を抜け、「国道1号線」を歩道橋で越えると、待望の「道の駅あいの土山」に到着。午後5時10分過ぎ。やれやれ!
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夕方の時刻でしたが、車での訪問客もちらほら、買い物客でそこそこの賑わい。「関宿」以来の人々の姿でした。
しばらく施設内をうろうろしたあと、地元の公共交通機関「あいくるバス」でJR「貴生川」駅に。お客さんは途中から乗った二人を合わせて3人でした。そこから「草津」経由で「京都」に。そこから新幹線で帰京しました。先に京都に着いてしまった、感じ。
次回は、「道の駅・あいの土山」から。宿場の数であと5つです。「土山」、「水口」、・・・。いよいよゴールが見えてきました。
ところで「あいの土山」のいわれは?
1.相の土山説
鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂(坂下宿)は晴れ、鈴鹿(鈴鹿峠)は曇り、相対する土山(土山宿)は雨が降るとする説。鈴鹿峠を境に伊勢側と近江側では天候ががらりと違う。
2.間の宿説
宿駅制度ができ、土山が本宿に設定される以前は間(あい)の宿であったことから、坂下宿程繁栄していないことを唄ったとする説。「照る」を栄える、「雨が降る」を「さびれる」と解するようだ。
3.鈴鹿の坂説
峠の頂上付近に土山という土盛があったとする説。
4.間の土山、松尾坂説
鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂を松尾坂(土山宿の西、野洲川西岸部分にある坂のこと)と考え、鈴鹿(鈴鹿峠)との間にある土山(土山宿)は雨が降るとする説。
5.藍の土山説
当時土山では藍染めが盛んで藍草の栽培が行われていたとする説。
6.鮎の土山説
当時、土山では鮎漁が盛んで、特産物として有名であったとする説。
7.あいのう土山説
北伊勢地方の方言に「あいのう」という言葉があり、「まもなく」という意味であることから、「まもなく土山へ着く」とか「まもなく雨が降ってくる」と解釈する説。
8.かけ声説
鈴鹿馬子唄は民謡なので、民謡独特のかけ声ではないかという説。
【参照:機関紙「土山浪漫」〔現:土山ろまん〕第2号(平成3年2月 土山の町並みを愛する会発行)】
(以上、「甲賀市」公式HPより)
平仮名にしてあることで、上のようないわれを抜きにして、「会い」、「逢い」あるいは「愛」というイメージづくり。
「鈴鹿馬子唄」の詞「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と不思議とマッチしています。地元の愛着と熱心な取り組みを感じます。
ここは、土山町蟹ヶ坂です。
これより、往時の東海道を歩かれる方は、左図に示すとおり「海道橋」を渡り、道の駅「あいの土山」方面へ向かって下さい。
尚、「東海道土山宿」へはここから800mです。
土山を訪れていただいた皆様の道中のご無事をお祈りします。
甲賀市
このような道を進みます。



振り返って集落を望む。
昔、この辺りに旅人を食べる巨大な蟹がいたという伝説から「蟹ヶ坂」と呼ばれています。それに因んだ名物が「蟹ヶ坂飴」。
「蟹ヶ坂飴」は、古くから土山宿の名物と知られ、浅井了意の「東海道名所記」(万治元年1658年)に「生野、茶屋あり、飴を煎じて売る。」とあります。
大昔、鈴鹿山麓に身の丈3mの巨大な蟹が出没し、旅行く人や近郷の村人に危害を加えていました。
ある時恵心院の僧都がこの地に赴き、大蟹に印明を示し、さらに大慈悲深く天台宗の「往生要集」を説き、説法を施すと不思議にも大蟹が随喜の涙を流して悪行を悟るが如く、我が身の甲羅を八つに割裂いてとけ失せました。
僧都は八つの甲羅を埋めて、蟹塚を建てると、不思議にも蟹の血がかたまって、八個の飴となったそうです。それを竹の皮に包んで村人に授け、「この八ツ割飴は、諸々の厄除けに効あり」と伝えました。
その後、数百年に亘り「厄除けの蟹ヶ坂飴」として世にその名声を高めたと伝えられています。江戸時代では、旅の疲れを癒す糖菓子として旅人に喜ばれました。

(以上、「

工場の間を抜け、しばらく行くと「蟹坂古戦場跡」。


蟹坂古戦場跡
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守及び飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。
平成7年3月 土山町教育委員会
「蟹坂古戦場跡」の碑を過ぎ、そのまままっすぐ新しい道に進みます。すぐに林の中となり、正面に新しい橋が見えてきます。
江戸時代前半は現在の「国道1号線」より約50m下流のあたりを徒歩で田村川を渡っていましたが、安永4年(1775)に木橋が架けられ、「東海道」は神社の参道を通るようになったといわれています。当時の板橋を復元した「海道橋」が2005年(平成17年)に竣工しました。江戸以来の旧来の橋名は「田村川橋」。


高札の解説について
この高札の文章は、田村川橋について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。
この田村川橋ができるまでは、この橋から約六百メートル程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人か多く出たため、その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。また、川止めも再三あり、旅人を困らせていました。
そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め、今までの東海道の道筋を変えて新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました。
『この橋を渡ることのできるのは、安永4年(1775)の閏月12月の23日からである(旧暦には閏月があり、この年は12月が二回続く)。この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民および一般の旅人については1人につき3文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬1頭につき3文、渡り賃を取ることになっている。この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである』
と書かれています。

この橋を渡るといよいよ土山宿です。広重の浮世絵もここを描いていると言われています。

東海道五十三次之内 土山 春之雨 / 歌川 広重(「知足美術館」HPより)
ただ「知足美術館」HPの解説では異なっています。
土山宿を出て、四町ほどの所にある松尾川に、15間ばかりの橋が架けられていた。この付近は雨が多く、春の雨の中を行かなければならない行列と、水量を増して流れの激しい河が描かれている。箱根に匹敵する難所であった。
(注:「松尾川」は「野洲川」のことで、「土山宿」の西のはずれにあたります。)


歌川広重は、多くの道中図や名所図を描いているが、天保4年(1833年)に刊行された「東海道五拾三次」(保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、叙情豊かな作風を生み出している。土山を描いた「春の雨」は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。
土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5km)に細長く連なっていた。東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775年)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている。
「鈴鹿馬子唄」の一節「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」に因んだ絵柄であるようです。


参道を進み神社の前を左に曲がります。

曲がり角に「高札場跡」碑と「海道橋」の解説板。

橋が出来る以前の旧道が示されています。それによると、「道の駅・あいの土山」の南側の道につながっていたようです。
薄くらい参道を抜け、「国道1号線」を歩道橋で越えると、待望の「道の駅あいの土山」に到着。午後5時10分過ぎ。やれやれ!

夕方の時刻でしたが、車での訪問客もちらほら、買い物客でそこそこの賑わい。「関宿」以来の人々の姿でした。
しばらく施設内をうろうろしたあと、地元の公共交通機関「あいくるバス」でJR「貴生川」駅に。お客さんは途中から乗った二人を合わせて3人でした。そこから「草津」経由で「京都」に。そこから新幹線で帰京しました。先に京都に着いてしまった、感じ。
次回は、「道の駅・あいの土山」から。宿場の数であと5つです。「土山」、「水口」、・・・。いよいよゴールが見えてきました。
ところで「あいの土山」のいわれは?
1.相の土山説
鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂(坂下宿)は晴れ、鈴鹿(鈴鹿峠)は曇り、相対する土山(土山宿)は雨が降るとする説。鈴鹿峠を境に伊勢側と近江側では天候ががらりと違う。
2.間の宿説
宿駅制度ができ、土山が本宿に設定される以前は間(あい)の宿であったことから、坂下宿程繁栄していないことを唄ったとする説。「照る」を栄える、「雨が降る」を「さびれる」と解するようだ。
3.鈴鹿の坂説
峠の頂上付近に土山という土盛があったとする説。
4.間の土山、松尾坂説
鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂を松尾坂(土山宿の西、野洲川西岸部分にある坂のこと)と考え、鈴鹿(鈴鹿峠)との間にある土山(土山宿)は雨が降るとする説。
5.藍の土山説
当時土山では藍染めが盛んで藍草の栽培が行われていたとする説。
6.鮎の土山説
当時、土山では鮎漁が盛んで、特産物として有名であったとする説。
7.あいのう土山説
北伊勢地方の方言に「あいのう」という言葉があり、「まもなく」という意味であることから、「まもなく土山へ着く」とか「まもなく雨が降ってくる」と解釈する説。
8.かけ声説
鈴鹿馬子唄は民謡なので、民謡独特のかけ声ではないかという説。
【参照:機関紙「土山浪漫」〔現:土山ろまん〕第2号(平成3年2月 土山の町並みを愛する会発行)】
(以上、「甲賀市」公式HPより)
平仮名にしてあることで、上のようないわれを抜きにして、「会い」、「逢い」あるいは「愛」というイメージづくり。
「鈴鹿馬子唄」の詞「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と不思議とマッチしています。地元の愛着と熱心な取り組みを感じます。