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Channel: おやじのつぶやき
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滋賀県へ。鈴鹿馬子唄。山中一里塚。猪鼻。(・・・「亀山駅」から「道の駅・あいの土山」まで。その8。)

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 前方に「滋賀県 甲賀市」という道路標示。いよいよ滋賀県甲賀市に入ります(鈴鹿峠付近で三重から滋賀へ入りましたが)。
 ついでですが「甲賀市」の読み方。「伊賀(いが)忍者」との類推で、ず~と「甲賀(こうが)」と思っていましたが、「が」と濁らずに「こうか」でした。初めて気づきました。

峠付近からのこの標識がこれからの道案内。

「(日本橋から)434㎞ポスト。
           「関宿」から国道1号線に合流した時は、「425.8㎞」だったので、国道沿いに歩いたなら約8キロ歩いたことに。ただ、旧道の峠道の方が短縮コースになっています。

鈴鹿峠方向を振り返って望む。

けっこう長く国道沿いを歩きます。お店も何もないところ。急峻な三重県側とは異なって、ゆるやかに下って行きます。

「山中」交差点に「飛び出し坊や」がありました。
                                   「ゴルゴ13」風?

横断歩道の向こうにも。

 それに導かれるように向こう側に渡りました。すると、若い男女が自転車に乗ってやってきました。
「こんにちは」
「これから亀山まで出て、鰻を食べる予定です。」
「道の駅まではどのくらいかかりますか? 」
「そこから10分くらいでここまでだったので、1時間もかからないと思いますよ。」

 時刻は3時40分過ぎ。彼らがスポーツ車仕様の軽快な自転車だったことをつい忘れて、それならよかった、とぬか喜び。まだまだ国道歩きは続きます。

しばらくすると、右手に小公園。

「鈴鹿馬子唄」の石碑があります。
              「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」

「観光案内図」。「旧東海道」についてはかなり大ざっぱ。

    

そのまま道を進むと、またまた例の「飛び出し坊や」(とび太くん)。

その道を道なりに行くと、頭上には第二名神の橋梁。

    

 その先で「国道1号線」に合流し、道沿いに進みます。すぐに右手に先ほどよりこぶりの小公園。

「山中地区圃場整備竣功記念碑」と「常夜燈」。

そして、「山中一里塚公園」碑。日本橋から109里目。


公園内にある道標。

櫟野(いちゐの)観音道(大原道)道標(土山町山中)
 山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの付近から南西に伸びる道がある。この山道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)・櫟野村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。
 当時、道標は東海道との分岐に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には、櫟野(らくや)寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白(きょはく)の「盡十方 世にはえぬきや 大悲心」という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺への参詣道でもあったことを伝えている。
 自動車交通の発達にともなう道路の整備が進み、山づたいに広がっていた生活の道はほとんど使用されなくなったが、わずかに残る道標は、道を通じての人々の交流を物語っている。

 平成15年3月 土山町教育委員会

さらに奥には、「鈴鹿馬子唄之碑」。
    

 「公園」を挟んだ国道の向かい側に旧道がつながっていくらしいです。
 しばらく「国道1号線」沿いに進み、「猪鼻」交差点を右に入ると、ほんの少しの区間ですが、「旧東海道」が残っています(先ほどの「一里塚公園」付近からのつながり)。

    
                            「東海道猪鼻村」。道の色も茶色に。

             「猪鼻村」解説板と句碑。

猪鼻村
 猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。
 村中を東海道が東西に5町36間余(約610メートル)、商いを営む者も多く、往時50戸を越え街道を賑わしていた。
 土山宿から坂下宿間の立場(休憩所)があり、草餅や強飯が名物であった。村高は、53石余(天正19年(1591)徳川家康知行目録写」、おもな産業は農業で、製茶や林業も行われた。
 赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中に詠んだ「いの花や 早稲のもまるゝ 山越(を)ろし」の句碑がある。井上士朗の『幣袋』に、「安永3年(1774)鈴鹿峠に向かう途中で「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・」とある。

・・・

平成20年12月 土山町猪鼻区

句碑  いの花や 早稲のもまるる 山をろし 子葉

 大高源吾は俳人宝井其角とも交流がありました。

 討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた源吾雄が両国橋のたもとで偶然其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶をした源吾に対し、其角は餞に「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠みました。これに対し、源吾は「あした待たるるその宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残されています。下に挙げた句も含めて、其角の偽作だという説もありますが。

 「日の恩や たちまち砕く 厚氷」という大高源吾の句碑が東京・両国橋のたもとにあります。

         
 赤穂浪士・大高源吾の句「日乃恩や 忽(たちま)ちくだく 厚氷」の句碑。この句は討ち入りの夜、俳句の師匠宝井其角に両国橋で出会って詠んだものといわれています。昭和3年建立。奥にあるのが、「日露戦役戦没者慰霊碑」。

その先の右手には「旅籠 中屋跡」碑。明治天皇が休息されたとか。

急坂を上って「国道1号線」に復帰。

振り返って「猪鼻村」を望む。

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