2003年(平成15年)に開館した「旧新橋停車場」「鉄道歴史展示室」。日本橋から品川までの「旧東海道」歩きの途中で寄ってきました。
どなたにも気軽に利用いただける無料の展示室です。日本の鉄道発祥地である汐留の歴史をご紹介するとともに、明治期に日本の近代化を牽引した鉄道の発展と影響を、様々な事物を通じてご覧いただけます。
企画展のご案内 第38回企画展 温泉と文芸と鉄道 2015年8月4日(火)~11月23日(月・祝)
130年前、1885(明治18)年に日本初の温泉療養センターといえる医学的施設 が熱海温泉につくられました。小田原~熱海間の交通といえば、1896(明治29)年に、豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)がようやく全通したという時代です。 例えば、明治の大ベストセラー尾崎紅葉の「金色夜叉」は、1897(明治30)年の元旦から讀賣新聞に連載され好評を博しましたが、小説の場面に描かれた熱海の海岸や梅園は、全国的に有名になり一躍人気スポットとなったほか、塩原温泉や箒川(ほうきがわ)の渓谷も「金色夜叉」の舞台として名声を高めていきました。 本展では、“温泉”“文芸” “鉄道”をキーワードとして見えてくる時代や景色を、主に関東周辺や花巻を中心にご紹介してまいります
以上「

館内は、こじんまりとしていますが、上のようにかつての鉄道草創期のようすなどパネルや映像で紹介しています。けっこう興味ある資料が多く展示されています。館内は写真撮影は禁止なので、具体的な内容は実際に出かけてご覧になるといいです。

1872年10月14日(明治5年9月12日)に日本最初の鉄道路線の起点として開業した新橋駅(初代)。リチャード・ブリジェンスの設計による木造石張り2階建ての西洋建築の駅舎があり、長らく東京のターミナル駅として機能していた。また1873年(明治6年)9月には、当駅と横浜駅(初代・現在の桜木町駅)との間で日本初の貨物列車の運行が開始された。1日1往復の運行で、イギリス製の有蓋車や無蓋車を使用していたという。
しかし、1914年(大正3年)12月20日に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、旅客営業が廃止された。駅構内が広大だった当駅は貨物駅として再使用されることになり、汐留駅と改称し、同時に、電車線の駅であった烏森駅が、新橋駅(2代目)と改称している。
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により開業時からの駅舎は焼失し、しばらく後になった1934年(昭和9年)3月に鉄筋コンクリート2階建ての駅舎に建て替えられた。
1959年(昭和34年)に当駅 - 梅田駅間で日本初のコンテナ専用貨物列車「たから号」が運転されるようになり、1964年(昭和39年)には小荷物取扱を開始した。
東海道・山陽方面へ向かう貨物列車・荷物列車のターミナル駅として君臨し続けたが、荷物輸送が宅配便の登場で衰退し、貨物輸送はコンテナ列車中心に変化していく。
駅敷地が狭く増加するコンテナの取扱量に対応できず、やがて鉄道による荷物輸送が1986年(昭和61年)11月1日に廃止されると、東京貨物ターミナル駅(1973年開業)に機能を譲り、汐留駅もその長い歴史に幕を閉じた。


1872年10月14日(明治5年9月12日) - 新橋駅(初代)として開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日から。
1873年(明治6年)9月15日 - 貨物の取扱を開始。
1914年(大正3年)12月20日 - 東京駅開業に伴い旅客営業を廃止、汐留駅に改称。
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(以上、「Wikipedia」参照)




1880年(明治13年~)代のようす。「新橋停車場」時代。「汐留川」がある。




1970年(昭和45年~)代のようす。「汐留駅」が健在の頃。「汐留川」は埋め立てられ、首都高に。
跡地は、1996(平成8)年12月10日に「旧新橋停車場跡」として国の史跡に指定された。発掘調査の後、風化を防ぐために埋め戻され、2003(平成15)年、その上に開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられました。
また、建物の裏手には、復元された開業当時の線路と、鉄道の起点であった「0哩(マイル)標」が当時と全く同じ位置に再現されています。



0哩(ゼロマイル)標識
1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、『旧新橋横浜間鉄道創設起点跡』として国の指定史跡に認定されました。
創業時の線路
創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対称のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の精油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両者からご寄贈いただきました。


プラットホーム
構造
プラットホームは「盛土式石積み」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3F段が出ていました。最下段部分は小口面をそろえて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、市立に小口面と長手面が交互になっているわけはでなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり。4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。
規模
プラットホームの全長は151.5mありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25mです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35mです。
地中に眠るプラットホーム部分。


建物に併設されて「BEER DINING 銀座ライオン 汐留店」があります。