さて、7月21日(火)。2日目。晴天。7時半頃にホテルを出発、なるたけ陽が高くならないうちに道をかせごうとしましたが、すでに暑い日差し。さすがに昨日の炎天下歩きの疲れが残っています。亀山まで行ければと思っていますが、・・・。
旧東海道はほぼ四日市あすなろう鉄道内部(うつぶ)線(あすなろう四日市駅~内部駅)に沿って南下しています。
四日市あすなろう鉄道内部線
開業は、1912年10月6日。軌間762mmという特殊狭軌の軽便鉄道として建設され、現在も当時のままの軌間で運行される。あすなろう四日市駅 - 日永駅間には、同じく軌間762mmの八王子線の列車が直通している。
1965年(昭和40年)4月から近畿日本鉄道(近鉄)が運営していたが、2015年(平成27年)4月より、四日市市が第三種鉄道事業者として鉄道施設と車両を所有し、新たに近鉄と四日市市が共同で出資して設立した四日市あすなろう鉄道が第二種鉄道事業者として公有民営方式により鉄道施設と車両を無償で借用して運行する。
廃線寸前までいった路線が命脈を保っています。


1890年ころのようす(「今昔マップ」より)。鉄道開通前。中央の道が「旧東海道」。

1932年ころ。→が現四日市あすなろう内部線(当時は「三重鉄道」)。

1960年ころ。→「近鉄内部線」とある。

現在。旧東海道は他の道路と見分けがつかない。
昨日の続き。間もなく左側に崇顕寺というお寺があり、門前に「丹羽文雄生誕之地」と刻まれた石碑が立っています。


諏訪神社方向を望む。
丹羽文雄は明治37年(1904)、崇顕寺の長男として生れ、早稲田大学在学中に文学を志し、「鮎」で高い評価を受けました。ふるさとの四日市を描いた「菜の花時まで」などを発表。昭和52年(1977)には文化勲章を受章しました。四日市市名誉市民となっています。
近鉄名古屋線のガードをくぐり、古い町並みを進みます。



鈴木薬局(旧鈴木製薬所)
竹の切り口を示す「丸二つの組合せ」の登録商標に、「赤万能即治膏」・「無二即治膏」・「萬金丹」・「真妙円」などの膏薬の名前が書かれた古い看板を掲げる鈴木薬局は、300年以上も製薬業を営む旧家である。
当家は、代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在の当主鈴木友造で第十一代を数えるが、同家に伝わる家系ヅによると、第四代勘三郎高春が、寛延3年(1750)2月に蘭学勃興の地長崎に赴き、漢方を伝授されたといわれている。
当家の建物は、東海道沿いの古い家の中でも一際がっちりとしたものである。これは、第六代勘三郎高光が、嘉永5年(1852)に建てられたものであることが、家系図によってわかる。玄関には、約60㎏の重い木製の上げ下げ奴があり、東海道に面した家の表には連格子がはめられ、六畳から十二畳の部屋が奥に続き、そのうちのひとつの欄間には、厚い檜の近江八景を形どった一枚彫りがある。また、土蔵とともに膏薬をつくった作業場があり、薬研などの貴重な道具が保存されている。

「鹿化橋」を渡ると、古い町並み。



日永つんつくおどり【日永地区】
元和6年(1620年)の記録にすでに見られる郷土色豊かな踊り。
地固め、地つきに歌い踊られたものと考えられており、滝川一益の母の隠居所建築のため、天白川の堤防を築くため、などとする伝承がある。
太鼓・笛などの囃子と歌に合わせて円陣を作って踊る。
8月14日~16日に両聖寺境内で披露されている。

しばらく道なりに進みます。けっこう暑くなってきます。


この写真を撮っていたら、ゴミを出しに来た方が「これからどちらまで」と声を掛けてきました。
「一応、亀山までの予定ですが」
「私も東海道を歩きましたよ、京都から日本橋まで。木曾街道にも少し取りかかっています。でも、こういう暑いころにはあんまり歩いている人いませんよ、普通。僕も涼しいころに歩きました。いや、ご苦労さんです。」
「そうそう、日永神社に寄りましたか? そこにこれから行く追分の道標よりももっと古い旧い道標がありますよ、市にももっと知ってもらうように言っているんですが・・・」
先に立って案内してくれました。少し戻って「日永(ひなが)神社」の境内に。


追分道標
この石柱は昔、日永の追分の神宮遙拝鳥居の傍らに立てられていた道標である。
この道標には正面に「大神宮 いせおいわけ」右側面に「京」左側面に「山田」そして裏面には「明暦二丙申(ひのえさる)三月吉日南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。
この道標が建てられた明暦2年(1656)といえば、神宮遙拝鳥居が建立されたときよりも約120年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである。
更に立てた人がお坊さんであること、そして南無阿弥陀仏と彫られていることも興味あることである。
嘉永2年(1849)神宮遙拝鳥居の脇に現在の立派な道標が立てられたとき、この小さな道標が不要に也、近くにあった追分神明社の境内に移され、その後明治40年に追分神明社が日永神社に合祀された際に道標も一緒にここに持ってこられたものと推定される。
知立にあった道標が元禄9年丙子(ひのえね)(1696)のものだったので、それよりも40年前であったことになります。感謝! 感謝!
「気をつけて行って下さい、無理せずに。」
「ありがとうございます」。時刻は、まだ8時半。先に進みます。
まもなく右手の建物と建物との間に石柱。「日永(ひなが)一里塚跡」碑。この一里塚は日本橋からちょうど100番目のものです。


「史蹟 日永一里塚阯 三重縣」
一里塚は、江戸時代に整備された街道において約1里(約4キロ)ごとに設けられた塚で、市内には東海道筋に4ヶ所築かれた。文化3年(1806)の『東海道分間延絵図』にも、富田・三ツ谷・日永・采女の一里塚がそれぞれ描かれている。
日永一里塚は、当初は天白橋の北詰西側の榎の老樹のある場所と思われており、標柱が建てられ、県の史跡に指定されていた。しかし、その後の考証により、日永5丁目の現在地が正しいということになり、標柱を移した。
この日永の一里塚は、もとは5メートル四方で高さ2.5メートルの塚が、東海道の両側に築かれており、西側の塚には榎が残っていたが、明治2年(1869)に伐採され、塚もその姿を消した。
四日市市教育委員会
解説板は最近設置されたようで、碑のみで何も無かった頃、先達の中には「日永一里塚跡碑」を見逃すケースもあったようです。これからはそういうことはないでしょう。
しばらく進むと、右手にかつてあった松並木のうちの1本だけが残されていて、脇に「東海道名残りの一本松」の解説板があります。


東海道名残りの一本松
むかし、この辺りから泊の集落までは東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に大きな松の木が並んで植えられていた。
その向こうには、家は一軒もなく、縄手(なわて)と呼んでいた。この松は、その蝿手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして大切に維持しなければならない。
縄手の道の幅は、土手も入れて約5間(9m)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は、3間(約5.5m)で、現在も変わっていない。

1890年ころのようす(「今昔マップ」より)。
○の部分が「縄手(畷)」。これまでも「川崎宿」の先などにありました。直線の道筋。

現在のようす。
