いよいよ「知立」(池鯉鮒)の「松並木」に到着です。


歩道橋から望む。 来た道(東)を望む。


暗渠になった「明治用水」が松並木の左側の緑道となっている。
東海道松並木
徳川家康が江戸に幕府を開いたとき、禁裏にある京都と江戸間の交通を重視し、東海道を整備したのは慶長9年(1604年)のことである。当時幅2~4間(3.6~7.2メートル)の道は随分の大道であったに違いない。やがて参勤交代が始まり、逐年交通量は増えてきた。そのため寒暑風雨から旅人を守るため、中国の古例にならい両側に松木を植えたものである。
知立の松並木は、近年まで牛田町から山町まで約1キロ続いていたが、住宅が次々と建てられて今では450メートル程になってしまった。戦前までは、昼なお暗いほど老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年の伊勢湾台風により60~70%の松が折られたり、根ごと吹き倒されてしまった。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松食虫の防除に努め、昔の姿を今にとどめています。

1813年(文化10年)に木綿市の繁昌を詠んだもの。銭叺(ぜにかます)=わら製の銭入れ


知立松並木 市指定文化財(名勝)
慶長9年(1604)江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅7m、約500mにわたり凡そ170本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。
また、この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(701)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾(引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに)長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。
知立市教育委員会
万葉歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能 知師爾(引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに) - 長忌寸奥麻呂」 702年(大宝2年)の持統天皇の三河行幸の際の捧呈歌。

池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく・旧仮名遣いでは「ちりふ」)は、東海道五十三次の39番目の宿場。日本橋から約330kmで、当時でおよそ10日間かかったといわれています(当方は、その倍以上もかかっています)。
馬市が立ったことで知られており、 毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていた。 また三河地方の特産品であった木綿市も開かれていました。
街道沿いの松並木は、馬をつなぐためにも使われていました。
明治時代に馬市は松並木から慈眼寺(山町桜馬場)へと移動、牛市・鯖市に移り変りましたが、昭和初期に終了しました。

東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市 / 歌川 広重
池鯉鮒は珍しい地名である。鯉と鮒が沢山いた池があったという。毎年4月25日から5月5日に馬市が開かれる。400から500頭の馬が集まり、馬喰や馬主が来た。大きな松は談合松と呼ばれていた。この時期には遊女や役者まで集まってきて賑わったそうである。初夏の爽やかな風景である。
(「知足美術館」HPより)
※「首夏」=初夏の頃。旧暦で4月の異名。


「万葉歌碑」。 「馬市之址」碑。

馬市句碑
かきつばた 名に八ッ橋のなつかしく
蝶つばめ 馬市たてしあととめて
俳人麦人は、和田英作を訪ねてこの地を訪れたことがある。
万葉の歌碑
引馬野に
にほふはりはら
いりみだれ
衣にほほせ たびのしるしに
この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。


大正期の池鯉鮒(「同」より) 現在のようす。
なお、「知足美術館」」では、7月2日から恒例の「歌川広重 東海道五拾三次(保永堂版)」展を開催中です。



広重の「池鯉鮒宿・ 馬市」。 左の通りは「国道一号線」。
保永堂版『 東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市』歌川広重 天保三~4年(1832~1833)頃
歌川広重が浮世絵東海道五十三次の池鯉鮒で描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。鎌倉時代の初期に書かれた『海道記』に「池鯉鮒が馬場を過ぎて・・・」とあり、早くから馬にかかわる地であったことがわかる。また、江戸時代の浅井了意の『東海道名所記』、梅月堂宣阿『富士一覧記』、井原西鶴『一目玉鉾』、秋里籬島『東海道名所図会』等にに馬市の盛大な様子が述べられている。これらによると馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、遠く甲斐や信濃から馬が集められ、その数は4~500にもおよんだ。馬を売買する人はもよよりその他の商人や遊女、芸人、役者、人形遣いまでが集まってきてにぎやか極まりない有様であったという。刈谷藩では山町に馬市番所を設けて馬市の監督にあたった。
松並木が終わると、「御林」の交差点。「国道1号線」を地下道で向こう側に横断します。

地下道を上がると、「池鯉鮒宿」という標示。

しばらくして名鉄三河線の線路を越えます。




街道沿いの古い家並み。
中にこんな看板が。「天竺豆買います」。

「天竺豆」とは、「ソラマメ」の異名。
天竺(てんじく)とは、インドの旧名。『西遊記』において玄奘三蔵一行が目指した地とされます。ただし、現在のインドと正確に一致するわけではないようです。
かつては唐土(中国)・天竺(印度)・日本(倭国)を三国と呼んでいました。「ソラマメ」は、インド原産の植物?
「ソラマメ」

紀元前3000年以降中国に伝播、日本へは8世紀ごろ渡来したといわれている。インド僧・菩提仙那が渡日し、行基に贈ったのが始まりともいう。 古くから世界各地で栽培され、食用にされている。現在は南米、北米、ウガンダ、スーダンなどで栽培されている他、中華人民共和国河北省張家口で最高級品が栽培されている。
高さ50cmほど。秋に播種する。花期は3−4月で直径3cmほどで薄い紫の花弁に黒色の斑紋のある白い花を咲かせる。収穫は5月頃から。長さ10−30cmほどのサヤには3−4個の種が含まれている。
和名の由来は、豆果(さや)が空に向かってつくため「空豆」、または蚕を飼う初夏に食べ、さやの形が蚕に似ていることから「蚕豆」という字があてられた。酒処では「天豆」と表示している場合も多い。(以上、「Wikipedia」参照)
「天豆」という表記は、「天竺豆」とも関連ありそうな、・・・。
先に進みます。
