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Channel: おやじのつぶやき
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本宿。本宿一里塚。麦秋。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その1。)

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 翌 5月20日(水)。

 早朝からすでに明るい陽ざしが。
 さて、行動開始。暑くなりそうだし、足元の具合はあまりよくない、豆ができたせいで。せっかくここまで来たのに、岡崎を制覇せずして何の目的があったのか! 
 途中でリタイアしたら身も蓋もないので、まず、岡崎宿を制覇して、その後は足の調子を見ながら歩いてみることに。

 「岡崎宿冠木門」~「岡崎二十七曲がり」~「矢作橋」~「矢作橋」駅=電車=「本宿」駅~「藤川」~「岡崎宿冠木門」、という予定。さて、その通りにいきますか、どうか?

《当日の結果》

 「岡崎セントラルホテル」(7:50発)~「冠木門」(8:15)~「矢作橋西詰」(10:00)~「矢作橋駅」(10:15)

 「矢作橋駅」(10:23発)=「本宿駅」(10:49着)

 ~「法蔵寺」(11:00)~「冠木門」(15:35)~「東岡崎駅」(16:00)

 「東岡崎駅」(16:17発)=「豊橋駅」(16:37着)  ・・・東京へ。
 
 ということで、炎天下の東海道を何とか歩きました。だましだまし歩いたので、足の豆は見るのも恐ろしいくらいに・・・。「東海道」そのものを歩いた時間は約6時間15分ほどでした(休憩時間含む)。 

 次回は、「矢作橋」西詰からということになります。

 今回の報告は、実際の行動通りではなく、「東海道」に沿って、「本宿」駅から「矢作橋」駅とします。

左手に大きなお寺が見えます。徳川家康ゆかりの「法蔵寺」。

 お寺の入口にあるのが「御草紙掛松」説明板。

 寺伝によれば徳川家康公は幼少の頃、当寺にて学問、手習いに励んだといわれる。この松は家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから、家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。また「御茶屋の松」「御腰掛の松」ともよばれた。
 代々受け継がれてきたが、平成17年8月、虫害により枯れた。その後「慣れ親しんだ松を後世に伝えようと」と、地元有志「もづく会」の手により、平成18年3月、4代目の松が植樹された。
 周囲の石柵は文化12年(1815)は旗本木清左衛門俊往の寄進である。

 平成18年4月吉日     郷土史本宿研究会

「法蔵寺橋」を渡ると、間の宿・「本宿」内に入ります。

「本宿陣屋跡と代官屋敷(現富田病院)」。

 元禄11年(1698)、旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家末孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。
 陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政10年(1827)の建築である。

              郷土史本宿研究会

 少し上ったところに大きな敷地内に建物が。
    
        居宅。                             富田病院。

古い家並み。平日の昼間。ほとんど車も人も通りません。

右手にある「常夜燈」。隣の「火の見櫓」との関係が絶妙。

足元には、「本宿村道路元標」。

1919年(大正8年)の「旧道路法」で各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされ、ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されました。
 その後、取り壊されたり、移設されたりするものが多い中で、「東海道」を歩いていると、当時の「道路元標」がわずかながら残されていることに気づきます。
 その先の左手には「十王堂跡」の説明板。

十王堂跡

 街道に沿うこの地に十王堂(閻魔堂)があり旅行者や村人から尊信されていた。
 本尊木造地蔵菩薩坐像(鎌倉期)は昭和六十二年岡崎市文化財に指定された。(非公開)

          郷土史本宿研究会

そこから振り返る。

その右手には「本宿一里塚」。
                
                       江戸・日本橋から78里目。

 そのまま進んで行くと、左側に古い建物が見えます。「宇都野龍碩邸跡と長屋門」。

    

宇都野龍碩邸跡と長屋門

 本宿村医家宇都野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ宝暦年間(1751-63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。
 七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に、医学を学んだ蘭方医として知られている。
 安政年間、当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施している。

          郷土史本宿研究会          


「本宿」の西の出口にある、大きな案内板。 

是より東 本宿村 赤坂宿へ壱里九丁

 本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並が形成された。
 鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢地から宮路山中へと続いていた。
 近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。
 享和2年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁余、立場茶屋二か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。
 東海道中膝栗毛に「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とある。本宿は古くから麻縄(召縄)、農家の副業として麻細工が盛んであった。また、家康公が食したといわれる当地独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。
 往還南に大宝元年(701)僧行基開設と伝えられる古刹法蔵寺がある。歴代の松平氏をはじめ、家康公幼少の頃のゆかりの寺として近代を通して下馬の寺であり、往来する諸大名をはじめ、旅人の参詣があとを絶たなかったという。
 その他、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜灯などが設置されていた。
 慶応4年(1868)に柴田勝誠が新政府に提出した高取調帳には、村高536石余、(柴田知行所457石余、法蔵寺領79石余)と報告している。明治7年(1874)の額田郡誌には135戸、550人と記されている。
 この辺りは、山綱村との村境であり、往古の駅家はこの付近といわれている。南の山裾平五沢では荻野流、高島流の砲術家でもある代官富田牧太庸秋が砲術稽古を実施した所である。また、シーボルトの「江戸参府紀行」に、この辺りの山中から法蔵寺裏山にかけて植物採集をしたと記述されている。
 この辺りから上衣文村を経て宮崎村に至るおよそ三里程の山家在道があり、山地との交流に欠かせない道であった。

 1994年 9月  国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会  郷土史本宿研究会

当時の街道絵図。但し、東西が反対方向(右が西)。

 ほんの少し残された松並木が終わると、「国道1号線」と合流します。
              
                               「(日本橋から)316㎞」ポスト。名古屋まで51㎞。

 途中から国道を右側に横断して行きます。名鉄の線路と国道との間に大きな敷地が広がり、警察車両が。そのそばを歩いているうちに撤収。交通量の調査でもしているのかと思ったら、積載オーバーのトラックの取締りのようでした。

右手には麦畑が広がります。手前の線路は、名鉄線。これから収穫期。まさに「麦秋」。

 「麦秋(ばくしゅう)」とは、麦の穂が実り、収穫期を迎えた初夏の頃の季節のことです。麦が熟し、収穫の「秋」であることから、名づけられました。「夏」の季語。時々、「秋」の季節と間違う人もいます。



 そのまま、線路脇の細い道に入ります。
    
 「東海道」の表示。                              振り返る。

のどかな道筋ですが、陽ざしが強い。(実は、11時45分頃。)

 名電山中駅を右に見て、進むと、現代の旅人の便宜を図って、小休止できる広場が左にあります。ここにも解説板があります。


是より西、藤川宿へ 是より東、赤坂宿へ

【東海道】
 慶長6年(1601)、徳川家康は、東海道の各宿に伝馬朱印状と伝馬定書を発給し、江戸と京都・大阪を結ぶ東西交通路の確保を図りました。
 慶長8年(1603)家康が征夷大将軍に任じられると江戸に幕府を開き、江戸を政治・軍事の中心に位置づけ、江戸日本橋を起点に一里塚を築き、幕府の直轄交通路として整備しました。古代・中世の駅馬・伝馬制度にならい、公用の人や物資は無料、公用以外は有料で次の宿駅まで継ぎ送る宿駅伝馬制度を定め、全国的な交通制度に統一しました。
 東海道には五十三の宿駅が設けられ、道巾は約三間半(6.3メートル)で一里塚や並木が整備されました。

【舞木町の由来】
 舞木の地名は、山中八幡神宮記の一部に、「文武天皇(697~707)の頃、雲の中より神樹の一片が、神霊をのせて舞い降りる」と書いてあるところから、「木が舞い降りる」をとって「舞木」とつけたといわれます。また舞木村は、昔は山中郷に属していましたが、慶安元年(1648)に幕府の三河代官が同じ山中郷で隣村である市場村の一部六十八戸を藤川宿に移転させたため、昔の市場村の一部と舞木村が合併して、現在の舞木町になったと言われています。

 平成15年3月



【山中城址】
 起伏を利用した室町時代の典型的な山城で、眼下に東海道と額田郡南部に至る吉良道、現在の蒲郡市方面に至る西郡道などの街道をおさえる交通の要衝に位置していました。山頂(標高204メートル)と山腹一帯を東西400メートル、南北200メートルの規模で主郭・二の郭を中心として帯状の曲輪が囲む三河地方最大規模の連郭式山城でした。
 岡崎松平氏の三代信貞の城でしたが、大永4年(1524)に安祥松平氏の済清の命により大久保忠茂らによって攻略され、以後家康の祖父の済清のものとなりました。
 平成15年3月



【山中八幡宮】
デンデンガッサリ
 市指定無形民族文化財。室町時代に始まる五穀豊穣を祈る古式床しい素朴な御田植神事で正月三日に行われ、歌詞のはじめに「デェンデンガッサリヤー」という詩があるので、こう呼ばれるようになりました。祭りの内容は、田をあらわす太鼓を中心に「前歌」「後歌」「せりふ」「所作」の四部に分かれています。

鳩が窟(はとがぐつ)
 永禄6年(1563)の三河一揆の戦いで、家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれています。洞窟の中から白鳩が二羽飛び立ったので、追手の兵は「人のいるところに鳩などいるわけはない」といって通り過ぎ、家康は難を逃れたといいます。

オオクスノキ
 樹齢650年と推定され、根回り14メートル、主幹が二股の御神木で均整のとれた広い樹冠は屈指の樹姿です。市指定天然記念物。

 平成15年3月   

 これらの解説文を読みながら、小休止です。

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