いよいよ日帰りでは時間的に無理になってきました。今回から「1泊2日」コースにしました。この場合、事前に宿の予約が必要です。今までは天気を見ながら予定を立てていましたが、そうもできない。台風も近づいているし、さてどうしたものか? また、前日の予約だと空きがあるかどうか? あれこれ心配していても仕方がありませんので、とりあえずホテルの予約を。
日程的には、5月19日(火)~20日(水)。「吉田宿」から「岡崎宿」まで。
そこで、前日になってあれこれインターネットで予約を。できたら「豊橋」付近がベストですが、なかなか空きがない(高いホテルは敬遠)。ちょっと場所はそれますが、「豊川稲荷」付近も寸前で予約が入り、ダメ。諦めてしまいそうになりました が、何とか、ということで、悪戦苦闘、あれこれ検索した結果、「東岡崎」駅付近のビジネスホテルにたまたま空きあり。何だか先に行き過ぎるような気もしましたが、そこに決定。
予定としては「JR二川~名電赤坂」が初日。そこから名電で「東岡崎」まで出て宿泊。翌日は「名電赤坂」まで戻って、そこから再び岡崎を目指す、という何だか時間も運賃もけっこうロスの多い計画となりました。
さて、実際はどうなったか? そんな報告です。
朝から雨模様。初めての雨の中。今も昔もいい天気ばかりの旅ではないのは、当たり前。ということで、JR二川駅前を出発です。

渥美半島の田原市にある阿志神社、先端の伊良湖岬の近くにある伊良湖(胡)神社への道。直線距離にして約40㎞。二川は、「渥美半島」の付け根にあることが分かります。
けっこう雨脚が強い。「火打坂」の信号で県道3号線を渡ります。左手にあるのが「豊橋市視聴覚教育センター 地下資源館」。プラネタリウムがあるようです。


入口までのアプローチにある石像群。
緩やかな坂道を上っていきます。


左手に園芸専門店「ガーデンガーデン」を見ながら進み、最初の信号を左に曲がります。「岩屋緑地」と書かれた木の柱を左手に見て進みます。

その先で左側に松の若木が植えられています。松並木の復元事業のようです。




「旧東海道クロマツ跡」。


江戸時代、東海道の両側には松が植えられ、夏の強い陽ざし、冬の行きや寒風から旅人を守ってきました。
この地区には、昭和40(1965)年代に100本を越える松が残っていましたが、松食い虫や道路拡幅などにより、減少し、ここにあった最後の松も松食い虫の被害に遭い、平成19年2月28日に伐採されました。
年輪から。江戸末期の安政年間(1854~60)頃植えられたことがわかります。

郵便局の所で、左手から来る、国道1号線から分岐した少し広い道と合流します。そこだけ、道路が拡幅されているので、その先の所の拡幅計画があるのでしょう。区画整理計画が持ち上がっているようで、反対運動のポスターなどがあります。
「飯村町(いむれちょう)二軒茶屋ちびっこひろば」。

この付近の地名は「茶屋」、国道1号線をはさんで西側には「元茶屋」という地名も。


沿道の家並み(新旧様々)。
しばらく道なりに進み、「殿田橋」を渡って国道1号線と合流します。そこにあるのが、「飯村(いむれ)一里塚」。


「江戸日本橋から73里」。
来た道を振り返る。(正面の道)

ここからはしばらく「国道1号線」を進みます。ほぼ北西に向かっています。思ったよりも少なめの交通量。沿道には昔ながらの家並みが見られます。雨もやっと上がり、そんなに降られずに助かりました。



30分ほど歩くと、ようやく豊橋の繁華街に近づいてきます。「東八町交差点」。

右側の角には大きな「常夜燈」。


歩道橋を下りると「東惣門」の復元模型と説明板があります。

交差点の筋向かいにある「常夜燈」。



東惣門
東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていました。
門の傍らには十二畳の上番所、八畳の下番所、勝手があり門外の西側の駒寄せ場十一間がありました。
惣門は朝六つ(午前六時)から夜四つ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。
豊橋市 2002年3月
「東惣門」を右手にして少し進み、次の道を右に入ります。


次の交差点を左に。

突き当たりを右に。

しばらくまっすぐな道をそのまま進みます。


広い通りにぶつかると、左手の中央の緑道のところに「吉田宿」と刻まれた石碑があります。


「吉田宿」「江戸 74里」。
右手の生け垣には「曲尺手門跡」の石碑。

宿内に入っても再びジグザクの道になります。通りを渡って最初の交差点を左に。角が「うどん 嶋田屋」さん。

広い通りにぶつかるので、そこを右に曲がります。通りの向こうにある「東海道」の標識が目印。中心部へ。

吉田宿
慶長6年(1601年)東海道が設定された当初からの宿場であった。江戸の日本橋より西方73里(約287km)に位置し、東の二川宿とは1里20町(約6.1km)、西の御油宿とは2里20町(約10.5km)離れており、町並は23町30間(約2.6km)の長さがあった。
徳川将軍家の老中・大坂城代・京都所司代格の大名の吉田藩の所領であり、吉田城城下町と湊町(吉田湊、船町)を合わせた宿場町であった。
表町12町と裏町12町の計24町で宿を構成されており、本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠は65軒あった(1802年)。戸数は約1,000軒で人口は5,000から7,000人ほどであった。
本陣のあった札木町(豊橋市札木町)は吉田城大手門のそばにあり、また人馬継立の問屋場もあった(現在のNTT西日本三河支店のあたり)ため、中心として賑わった(最寄りの交通機関は豊橋鉄道東田本線札木停留場)。
街道は東から吉田城東惣門の南を通過、吉田城の総堀に沿って続き、吉田城西惣門西側を北上し、征夷大将軍の直轄の天下橋である吉田大橋(現在の豊橋(とよばし))で豊川を渡り、下地(しもじ、当時は宝飯郡)とつながっていた。軍事上の観点から曲がり角が多く作られ、曲尺手町(豊橋市曲尺手町)として名前にも残っている。
吉田城内にあった牛頭天王祠(吉田神社)で開かれる天王祭(6/15)の前夜(6/14)において放花炮(はなび)と呼ばれた立物花火が行われた、立物花火は、現在は行われていない。幸田町、新城市、小坂井町で立物花火が行われているだけである。また飯盛女が非常に多かったことでも知られ、「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が」などのうたが広く知られている。
(以上、「Wikipedia」参照)