大泉水の東側を回るようにして進む。

光圀が農民の苦労を彼の嗣子・綱條の夫人に教えようと作った田圃。現在は文京区内の小学生が5月に田植え、9月に稲刈りを行い、伝統行事を継いでいる。

往時は松うっそうとして空もみえざりしと伝えられる。光圀殿も珍重せる所にて将軍来園の際にも「これ天下の威光をもっても能はず」と観賞せられたる由なり。







「瘞鷂(えいよう)碑」。
七代治紀は将軍家から賜った鷹を大切にしていた。鷹は治紀が没した4年後に亡くなったため、八代斉脩がこれを哀しみ碑を建てたものである。
注:「瘞」=「埋める」の意。「鷂」=猛禽類・ハイタカのこと。

「たか」がたかとあなどってはいけないよね。
日帰りは無理でしょ、あそこまでは。泊まりがけでないと。
夜行バスという手はあるけれど、疲れるし。
「甘樫の丘」、とか「石舞台」とか一般的だけど。


奥の右手が「竹生島」。

1870年(明治3年)3月(旧暦)、造兵司は東京の旧幕府営の関口製造所と滝野川反射炉を管轄とし、それらの設備を元に東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡に建設し、1871年(明治4年)に火工所(小銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業が開始された。このとき藩邸内の日本庭園施設を一部残し、1874年(明治7年)以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を栄を受けた。
1879年(明治12年)、「東京砲兵工廠」となり、1923年(大正12年)、「陸軍造兵廠火工廠東京工廠」と改称した。また庭園部分は同年、小石川後楽園として国の史跡および名勝の指定を受けた。
同年9月1日の関東大震災によって甚大な被害を受けたあと、小石川工場の本格的な復旧には多大な経費が必要なことから、造兵廠長官の直轄であった小倉兵器製造所への集約移転が図られ、1931年(昭和6年)から逐次、小倉へ移転が実施された。
1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転を完了し、約66年間の歴史の幕を閉じた。
工廠跡地は翌年設立した「株式会社後楽園スタヂアム」に売却され、翌1937年(昭和37年)9月、職業野球専用の新球場、通称「後楽園球場」や遊園地、競輪場など一大レジャー施設としてオープンした。
小石川後楽園は都立公園として整備され、世界的にも名園として知られている。園内には現在も砲兵工廠の遺構がいくつか保存され、また工廠敷地の形状をかたどった記念碑がある。
(以上、「Wikipedia」参照)
石の外郭は敷地13萬坪の形を表している(右下が「水道橋」駅方向になる)。

「陸軍造兵廠・東京工廠」の頃。(「今昔マップ」より)

現在のようす(「同」より)
南側の丘には祠のようなものが。



「内庭」。
本園は大別すると内庭と後園(後楽園)とに分けられる。内庭は水戸藩邸の書院の庭であって、江戸時代には「うちの御庭」などと呼ばれていた。江戸の大名屋敷がほとんど消滅した現在、書院の庭の旧態をよく残しているものとして貴重である。

内庭から後園に入る門で、唐様の極彩色の彫刻をもった壮麗な建築物で朱舜水の書いた「後楽園」の扁額がかけられていたが、戦災で焼失した。
酒船石、麓の方で亀形の石像物が発掘された、ちょうどその最中に見学したことがあった。ずいぶん経つよね。