「愛宕坂」にさしかかる。といっても、石段。京都愛宕坂にならって造られたもので47段からなっている。今は通行禁止。


けっこうな高台。
藤棚と花菖蒲田。

八卦堂跡。

二代光圀7歳のとき、将軍家光に謁見したおり「文昌星」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり、文昌星を思い起こし、八卦堂を造りその像を安置したという。なおこの堂破は大正12年の関東大震災で焼失した。
注:「文昌星」とは?
道教の神々の一つ。道教では星を神と見なして信仰の対象としている。北斗の魁星の近くにある文昌六星を神格化した神で、学問・文章の神とされている。
今度は「小町塚」。

塚石が常陸の小野の産地であることから光圀が戯れて小町塚と呼んだという。
注:「小町伝説」は各地にあり、特に東北地方に多い。この「小野」は現在の常陸大宮市小野だと思われる。この近辺には「小町の墓」だという伝承の地なども散在し、「小町」とあながち無縁ではなさそうだが。
下ると、梅林が広がる。





その奥まったところにあるのが、「藤田東湖」記念碑。「藤田東湖先生護母致命之處」
幕末の水戸藩士で勤王家として知られた藤田東湖(1806~1855)は、水戸藩江戸上屋敷で安政の大地震に遭った。
その際母を助けて外に出たが、火鉢の火を心配した母が屋内に引き返したため救い出そうとしたところ鴨居が落ちてきた。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したが、東湖は力尽きて下敷きになり圧死した。
圧死した場所は、白山通りの拡幅により道路となったため、記念碑は小石川後楽園(文京区後楽1-6)の中に移された。
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園内には関口で神田川(江戸川)から取水された上水道「神田上水」の流れが残っている。


かつてはこの流れは水道橋から神田方面に続いていた。

こんな都会のど真ん中に残され、よく手入れされた自然空間。

ただびっくりしながら歩く(のみ)。
「不老水」。

この井戸がいかなる旱魃にも水が枯れず、またいかなる洪水にもあふれ出すことがなかったことから不老水と呼ばれる。
もう少し若ければねえ、・・・。せめて10年、・・・。