Quantcast
Channel: おやじのつぶやき
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2707

旧長浜駅舎。慶雲館。芭蕉句碑。城下町。・・・(旧東海道番外編。北国街道。その2。)

$
0
0

 長浜は初めて訪問しました。長浜市は羽柴秀吉が長浜城の城下町として整備して以来の湖北地方の中心地で、長浜城廃城後は大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展した、ということもよく知りませんでした。帰りがけでほんの少し歩いただけですので、中途半端もいいところ。また機会があったら、じっくり見学したいと思います。そこで、通りすがりの探訪。

    



日本で一番古い駅舎 旧長浜駅

 この建物は、明治15年(1882)3月に北陸線の始発駅として建てられた最初の長浜駅です。今では日本に残る一番古い駅舎であり、文明開化を伝えるイギリス式の珍しい建物として一般公開しています。
 この建物の裏側には、長浜の鉄道史に関する鉄道文化館があり、D51型蒸気機関車を展示しています。

    

 建物の中は、当時のままに出札口や改札口などの表札が残されて、大八車や子供連れの人物が配置されています。

    

「1、2等待合室」。右手の看板は、「琵琶湖滊船」の広告。
                                           

前庭にはトンネルの石額が展示されています。

 明治政府にとって鉄道の建設は、国をあげての一大事業でした。イギリスでの最初の鉄道開通から、遅れること50年。政府は、国策の中心として鉄道建設を進めていきます。「鉄道スクエア」には、政府の中枢であった3人が書いた石額を展示されています。


伊藤博文(初代内閣総理大臣)『萬世永頼』。

 旧北陸本線の柳ヶ瀬トンネル東口(滋賀県長浜市余呉町)にあった石額。「万世(ばんせい)永(なが)く頼(たの)む」と読み。この鉄道が世のために働いてくれることをいつまでも長く頼りにするという意味。


 左に見えるのが、黒田清隆(第二代内閣総理大臣)『徳垂後裔』。

 旧北陸線山中トンネル(福井県南条郡南越前町)の山中信号場口にあった石額。「徳(とく)は後裔(こうえい)に垂(た)れる」と読み、この鉄路を完成させた徳は子々孫々まで残ることになるという意味。

 他にも黒田清隆の書いた石額が展示されています。

 右に見えるのが、後藤新平(鉄道院総裁)『大享貞』。

 旧北陸本線子不知(こしらず)トンネル(新潟県糸魚川市)にあった石額。易経の「大いに亨(とお)り貞(ただ)しきに利(よ)ろし」の一文で鉄路事業を治めて大いに通ずるという意味。

 通りを挟んだ目の前にある「慶雲館」の庭には日本一大きい芭蕉の句碑があります。

    

芭蕉の句碑

蓬莱にきかばや伊勢の初たより はせを

 「はせを」は松尾芭蕉のことで、世を去る元禄7年(1694)の正月に江戸で詠まれた。
 蓬莱は、神仙が住み不老不死の伝説がある蓬莱山になぞらえた正月飾りのこと。句の意味は、めでたい蓬莱飾りを眺めていると伊勢からの初便りが聞こえてくるようだ、解されている。

 俳人で書家の瀬川露城が揮毫し、明治後期に建てられた。高さ約5メートル、重量は10トン。日本最大の芭蕉句碑。

 「慶雲館」。

 敷地は約6千平方メートル。建物は尾張産の総檜造り寄棟造。2階建で約500平方メートル。建設費は当時破格の1万円。当時の内閣総理大臣伊藤博文が「慶雲館」と命名したと伝わっています。
 2階には玉座が設けられ、琵琶湖と伊吹山が一望できるようになっており、当時の新聞はその景色を「美麗壮観同地に冠たるものなり」と記しています。
 慶雲館は浅見氏の別邸としてだけでなく、その後も長浜の迎賓館として使われていましたが、昭和10年(1935年)の国史跡指定に伴い、翌年長浜市に寄付されました。また、この場所は江戸時代後期の絵図に大通寺(真宗大谷派長浜別院)別殿と記され、住職の別荘であったことが確認されています。
 その後は市の施設として、盆梅展や会議場所等として使われてきました。近年、庭園等の復元整備が進み、平成18年(2006年)には国の名勝に指定されました。

 日本一の「盆梅展」が有名。

浅見又蔵と鉄道

 明治時代、政府は海運と陸運を直結し、物資と人を運ぶ為に鉄道を敷設する計画を打ち出しました。その際に神戸‐東京を結ぶ路線、敦賀‐琵琶湖周辺を結ぶ路線の二つを整備すべきと決定します。
 敦賀と琵琶湖周辺を結ぶ鉄道を建設するため、町民有志が長浜停車場の設置を請願し、用地を提供できる旨を政府に表明します。加えて浅見又蔵氏は長浜‐関ヶ原間に私鉄を敷設するための許可を請願し、同時に長浜港の修築を滋賀県に願い出て、汽船会社の買収を進めました。その結果長浜の活力と経済力が期待され、敦賀‐長浜間の鉄道敷設の計画が決定しました。
 明治13年(1880年)に鉄道工事が着工し明治15年(1882年)に長浜駅舎は開業します。明治16年(1883年)浅見氏の請願を契機に、長浜‐関ヶ原間も開業。翌年には大垣まで鉄道がのび、加えて長浜港も完成しました。これによって長浜駅は、北の敦賀や東の大垣、南の大津・京都を結ぶ要の駅となりました。

長浜近代化の父 浅見又蔵(1839~1900年)

 浅見又蔵氏は長浜市内で薬種商の三男として生まれ、22歳の時に浅見家の養子となりました。浅見家は長浜の地場産業である浜縮緬(はまちりめん)製造業を営んでいましたが、又蔵氏は長浜を代表する豪商に浅見家を育てあげました。
 滋賀県第一小学校(開知学校)や銀行設立、鉄道敷設など地域の発展に尽くし、長浜近代化の父とも言える偉大な先人です。

(以上、HP参照)

さて、町の中心部へ向かいます。古い造りの酒屋さん。

                              

「長浜浪漫ビール」。

 その前の堀が「長浜城外堀跡」。

    

    
             城下町らしい落ち着いた雰囲気の建物が並んでいます。

                         

 「長浜曳山まつり」。子ども歌舞伎。今年は4月13日から16日でした。

    

 寿山 大手町組

 亭(ちん)は八つ棟造で、軒唐破風を付ける。舞台屋根千鳥破風棟上に鯱を置く。舞台天井は折上げ小組格天井(ごうてんじょう)となる。正面唐破風に「桃樹に孔雀」、舞台前柱に「昇り龍・降り龍」の飾金具を付ける。胴幕には、「竹林七賢人」の刺繍を施す。

 黒壁通りには「曳山博物館」があるそうです。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2707

Trending Articles