繁華街はもう少し北の方のようで、このあたりは人通りも少なく、静かな道筋。

隣の説明板には、「下舟町」の由来が。
「下舟町」
天正年間から明治12年までの町名。豊臣秀吉公の城下町造営により成立。船待ちや船乗りが多く住んでいたことに由来する。・・・(秀吉四十九ヶ町由来)
このように、ところどころにかつての町名由来が掲示されています。


新旧混じった街の景観。



それでもまだまだ古風な家並みが続きます。


「北国街道に沿った賑わいの町 大安寺町」
江戸時代の長浜町を構成した五十二町の一つ。北国街道と交差する東西通りの町。町名は奈良大安寺領と関係すると思われるが、詳細は不明である。元治元年(1864)の切り絵図によれば、北国街道との交差点の南西角に番所があったことがわかる。元禄8年(1695)の記録では、家数11軒、男29人、女24人が居住していた。
この記述に従えば、ここが長浜宿の南側(京側)入口だった、と考えられます。また、秀吉が造営した頃よりも宿内の町の数が増えているようです。
少し進むと、左手の「市立長浜幼稚園」前には、本陣跡の説明板が設置されていました。

長浜まちづくりの先覚者 吉川三左衛門 吉川三左衛門本陣絵図
北国街道を往来する貨客は長浜港を経由して湖上交通に連結し、古代から水陸の要衝の地でしありました。
豊臣秀吉公は天正初年(1574年頃)に長浜の湖辺に城を築き、港を整備し町並みをつくりました。この事業を指揮し、人心を統率する役割を果たした人が吉川三左衛門です。
北国街道筋の往来で賑わった船町通りの吉川三左衛門家は、大名や門跡が宿泊した本陣で、伝馬が14頭常備されていました。
秀吉公から三年寄筆頭の称号を受け常に長浜の町政を委任されていましたので、彦根藩主井伊家もこの功績を称賛して
「楠木の石になるまで世を経りて名も長浜に高き吉川」と詠んだ扇面の書を贈っています。
吉川三左衛門の名前は江戸時代末期まで13代に渉って世襲され、現在の長浜の基盤をつくりあげました。
この幼稚園は、吉川三左衛門家の本陣跡です。
第八連合自治会


本陣・吉川家のあった町 上船町
江戸時代の長浜を構成した五十二町の一つ。北国街道に沿う両側町で、北は西本町・瀬田町、南は大安寺町に接する。元禄8年(1695)の記録では、家数21軒、男60人、女51人が居住した。秀吉公の町づくりに協力した町年寄・吉川三左衛門の屋敷跡(現在の長浜幼稚園)が西側にある。吉川家は幕末まで本陣・船年寄も代々つとめた。

堀割。


かなり目をひく建物です。松本にある旧「開智学校」を思わせる建物名。もともとその名のごとく小学校の校舎でした。明治時代の建築物。その後、校舎としての役割を終え、場所も移され、現在はここに。
1階は「ビアレストラン」になっているそうです。
この界隈になると、観光客も多くなり、賑やかになってきます。

残念ながらかなり老朽化していて、判読不能な個所があります。



「鯖そうめん」ののれん。 黒壁ガラス館。

アーケード街。



「黒壁五號館」。
そろそろ帰りの新幹線の時間も迫ってきたので、ここら辺りで駅方向に向かいました。


「長浜城大手門跡」。 「長間城家臣団屋敷跡」。
その横には大きな「長浜の地名起源歌碑」があります。
豊鑑巻一 長濱真砂
君が代も 我が代も共に 長濱の
真砂のか須(ず)の つき屋(や)らぬまで
竹中半兵衛
豊臣秀吉公は、天正元年(1573)浅井氏を滅ぼして小谷城主になったが、山の雪と寒気に悩まされ翌春より今浜城の建築に着手した。地名を長浜と改め 小谷城下や近郷から寺院や商家を移し、楽市楽座の制度と三百石の地租免除の恩恵を与え、商工業の発展に力を尽くした。
昭和48年、長浜開町四百年祭を挙行するにあたり、豊太閤の遺徳を讃え、竹中半兵衛の子重門の著する豊鑑より自筆の歌碑を刻む。
豊国神社


「歌碑」。 歌碑建設のいわれを記した説明板。


駅前のロータリーにある「秀吉公と石田三成公 出会いの像」。

街道の東側にも町は広がっています。
今回、「伊吹山」を改めて眺めました。長浜駅の東口が「伊吹山口」。
「新幹線」の車窓から眺める「伊吹山」はそれほどの山とは思っていませんでした。けれども、「長浜」を歩いていると、家並みの向こうには伊吹山が顔を出しています。ここから見ると、けっこう立派な山容をしているのに驚きました。
西が琵琶湖、東が伊吹山と町の東西を豊かな自然に立地した土地であることを感じました。もしかしたらこれが今回の一番の収穫だったかもしれません。
