さて、再開です。

大磯付近で、長く続き、大きく古い松並木を通過したあとで、こうしてここに戻って改めて眺めると、ちょっと物足りませんが、市挙げて何とか松並木を維持・保存しようとしている姿勢は強く感じます。


古く大きな切り株のそばに若い松。


「日本橋まで57㎞」ポストを通過。

「松林中学校」「茅ヶ崎高校」付近にも松並木が続きます。


東海道の松並木
茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より1.2メートルの高さで測定)2.2メートル(推定樹齢400年)の大きな松が育っております。
遠い昔より、地域の人達に親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、この風景はその時代の画家、安藤広重の東海道五十三次にも描かれています。
長い間風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。
みんなで大切にしましょう
茅ヶ崎市教育委員会 茅ヶ崎の文化財を守る会 建設省(現国土交通省)
昭和62年9月
安藤広重の浮世絵が掲げられています。

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藤沢方向。 平塚方向。
お豆腐屋さんの看板。


「本村」交差点付近の右手に「タブノキ」の大木。



本村のタブノキ
市内の自然植生の代表的な樹種であるタブノキの巨木。市街地では珍しく自然の形で大きく育っており、変わりゆく周囲の景観とは対照的に変わらない姿で在り続け、緑のある沿道の景観を創り出している。
この辺りは、道の両側は少し低地に。東海道は、高台の上を通っていたようす。南北と3~4メートルの高低差があります。


北側を望む。下り坂。 南側から。上り坂。
しばらく進むと、「相模線」の上。



その先も松並木。まだまだこれからの若い松が目立つ。普段から北西の風が強いのか、曲がった松が多いようです。
交差点、右手に「平成の一里塚」。

平成の一里塚
一里塚は慶長9年(1604年)徳川家康が息子の秀忠に命じ、旅人たちの目安となるよう東海道や東山美智、北陸道の沿道に一里(約4㎞)ごとに設けられました。塚は沿道の両脇に築き、大きさは5間四方と決められていました。市指定重要文化財である一里塚は、起点である江戸の日本橋から14番目のものです。現存する一里塚の向かい側にあたるこの近辺に、塚があったといわれています。しかし、昭和に入って、道路の拡張に伴い取り除かれてしまいました。
参勤交代の大名行列もとおり、多くの旅人たちが行きかった東海道。記録によると、塚の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられています。また、エノキが植栽されていたことが延享2年(1745年)の『東海道巡礼記』や幕府の道中奉行が江戸後期に作成した『東海道宿村大概帳』などに記されています。
この場所は、歩道整備工事の一環として平成22年、ポケットパークとして整備され、江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されています。
一里塚は、市内でも数少なくなってしまった近世茅ヶ崎の東海道の面影と、当時の素朴なぬくもりを伝えてくれる貴重な文化財です。南側の史跡「一里塚」とともに「平成の一里塚」として、末永く市民に愛される場となることを願っています。
茅ヶ崎市 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館
平成23年10月

交差点の向こう側に、「茅ヶ崎一里塚」。




「茅ヶ崎一里塚跡」碑。
茅ヶ崎一里塚 茅ヶ崎市史跡指定
徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し、以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかりました。
慶長9年(1604)、徳川爆破東海道などの一里(約4キロ)ごとに塚を築き旅人の目安にしました。東海道は江戸の日本橋を起点にしています。茅ヶ崎の塚は日本橋から十四里目にあたります。
かつては道の両側にありました。
茅ヶ崎市教育委員会


今回は、ここまで。前回同様、茅ヶ崎駅から帰りました。