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Channel: おやじのつぶやき
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「大山道標」。「四ッ谷一里塚」。東海道松並木。・・・(藤沢・引地橋から茅ヶ崎駅まで。その1。)

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 このところ、なんだかんだ忙しくて、なかなか一日がかりでの遠出ができません。さて、今日は少し時間が取れそう。
 そこで、前回、携帯で撮った写真をPCにコピーする時、保存したつもりが・・・、すべてパーになったところ(藤沢~茅ヶ崎)、言葉だけの探索報告になってしまった! 悔いの残った訪問。 
 ここなら4,5時間(現地は2時間くらい? )で往復できる。そこで、再度行ってみました。他は写真付きで何とか掛川までたどり着いた。この個所だけ写真がないのは、何だかつまらないので。

 3月11日(水)。晴れ。前回は、昨年9月22日。今回、約半年ぶりの再訪です。

 JR藤沢駅から前回と同じく「引地橋」までバス。そこから茅ヶ崎駅まで歩きました。

 「引地橋」の手前。旧東海道は、カギ型に曲がっています。まずそこからスタート。

    
  右の細い道に入り、                     突き当たりを左に。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い線が現在の道(↑)
 
 道路の形状(カギ型)からすると、この辺りに「西方(京方)見附」があったのかもしれません。

 県道44号線(43号線)から国道1号線を歩きます。

 しばらくはゆるい上り坂。右手に「メルシャン」の工場が見えてくると、左手に「おしゃれ地蔵」。

    

おしゃれ地蔵

 「女性の願い事なら何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰ともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。
 形態的には「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい

 平成7年2月 藤沢市教育委員会

 唇の赤さが妙になまめかしい。

「メルシャン藤沢工場」。

    
                    旧街道筋らしい町家が残っています。

    
                     道路沿いには松並木も見えてきます。


 「国道1号線」藤沢バイパスと合流する辺り、正面の道路脇に「大山道標」がありました。丹沢山塊にある大山信仰の参道(登山道)。 

    

四谷不動(大山道標)

 東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものです。堂外の道標が初代のもので、万治4年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。今でも7月1日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われています。

 平成5年2月 藤沢市教育委員会

「(日本橋から)54㎞」ポスト。まだまだだったんですね(ちなみに、2月24日現在では日本橋から約230㎞のところまで行きました)。

 この辺からは、国道1号(現東海道)と重なり、交通量も多い街中に入っていきますが、「新湘南バイパス」のせいか、車の往来も心なしか少なめ。交差点・繁華街を抜ける頃には、道幅は狭く(片側一車線)。曲がりくねっていて、旧道らしい雰囲気。この先「平塚」宿までこんな感じ?
  
 しばらく進むと、右手に「四ッ谷一里塚跡」碑。日本橋から13番目の一里塚。

 この付近から東海道の松並木がちらほら続いてきます。

 けっこう大きな松が残っています。ただし、根っこは、コンクリートで固められていて、何だか息苦しい感じ。それでも、見上げれば青空に映えて見事な枝振りでした。

「庚申供養塔」。

 そこから来た道を振り返る。

 茅ヶ崎市に入りました。松並木が続きます。

                                

    
          沿道には古木もありますが、若い松もあって代替わりをしつつあるようです。

                       

 しばらく進むと、少し商店が建ち並ぶ地域に入ります。これが「国道1号線」という印象を持つほど、片道一車線で、埃っぽい道が続きます。

「小和田」バス停。

 「小和田」を過ぎたあたり、右手に「牡丹餅茶屋」跡」碑。

    

牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)の跡

 徳川家康は、慶長6年(1601年)、東海道に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。その後、宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。
 藤沢宿と平塚宿の間には四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。
 立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が名物なのでそのように呼ばれていました。
 また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。

 平成19年1月吉日 茅ヶ崎市教育委員会 菱沼茶屋町稲荷講中 国土交通省
 茅ヶ崎郷土会長 三橋伊勢松書                        

(参考「今昔マップ」より。)

明治末。↓(A)に「牡丹餅」とある。↓(B)が「茅ヶ崎一里塚」(もう少し平塚寄りかもしれない)。

 この先から、街中をはずれて、左手の視界が開けてきました。
                        
  
 すると、右手に前回も立ち寄った「増田屋」さん。都内にもあるお蕎麦屋さんののれん? さっそく入ってみました。静かにジャズ(サザンの曲をジャズ風にアレンジした、なかなかのセンス。)が流れるお店。内装も少ししゃれた趣。ちょうど昼時、一休み。

    
          「春野菜の天せいろ」。タラの芽。ふきのとう。タケノコ。茶の花。お蕎麦もおいしいし、なかなかけっこうでした。

 店主。故郷新潟を後にして東京・青山の増田屋さんで修行、昭和43年中野で念願の独立創業。苦節12年昭和55年、現在の地を取得、茅ヶ崎に居を構えることになった、とか。青山の「増田屋」には何度か行ったことがあります。やはりその系列だったのですね。

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