案内絵図でも分かるとおり、「宇津ノ谷峠」を越えて行く(抜ける)のには、いくつものルートがあります。
1.蔦(つた)の細道…平安時代から鎌倉時代の古道。
2.旧東海道…江戸時代の道。
3.明治トンネル…明治9年開通、初の有料トンネル。
4.宇津ノ谷隧道…昭和5年開通(県道208号線)。「大正トンネル」ともいう。
5.昭和宇津ノ谷トンネル…昭和34年開通(国道1号線)。
6.平成宇津ノ谷トンネル…平成10年開通(国道1号線)。
5,6以外はそれぞれに歴史を持つ道筋です。旧道歩きの人間は一般的に「2」を行くことになります。そこで、まずは「宇津ノ谷」の集落方向へ。ここは、「丸子」と「岡部」の宿との間にあった「間(あい)の宿」でした。「宇津ノ谷峠」を背後にひかえた集落。
狭い上り坂に沿って軒を連ねる宇津ノ谷の集落。

街並みの景観保存のために、家屋や道の保全、補修など積極的な取り組みがあるようです。
宇津ノ谷地区は静岡市の西端、旧東海道の丸子宿と岡部宿の間に位置し、街道を往来する旅人たちが休憩した静かな山あいにある40戸ほどの集落です。ここでは、街道の面影を残す懐かしい雰囲気を感じることができます。
当地区では、地元住民などによる協議会をつくり、歴史や街道の面影を継承していく活動をしています。また、静岡市では、この地区を都市景観条例で「美しいまちづくり推進地区」に指定し、街道の面影を残すまちなみの保存に取り組んでいます。
そして、この活動が評価され、国土交通省による平成17年度都市景観大賞「美しいまちなみ賞」の美しいまちなみ優秀賞を受賞しました。

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このHPには、このかんの、宇津ノ谷地区の取り組みが細かく紹介されています。
右側のおうちが、「お羽織屋」。


秀吉公のお羽織の由来
天正18年(1590)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷(うつのや)に休息した。その際、当家の祖先が馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話をしたので、帰りに立ち寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である、。表は紙、裏はカイキ(注:和紙と絹でできた陣羽織)、後に家康もこの羽織を見て、記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。
東海道宇津谷 石川家
集落を抜けると、高台にひなびた趣の食事処「ななみ」。

手前の看板「今昔」は、甘味処とものづくりのお店。
道が二手に分かれ、右手が「出世街道」=旧東海道。峠越えの山道。左は、「明治トンネル」方向。

今回は、あえて旧東海道の道筋から離れて、左手の「明治トンネル」の方へ進みました。

車道になっていますが、午後の陽は差しこまず、薄暗い道。広場には、宇津ノ谷峠の立体模型。

あまり人目に触れられていなさそうで、人が立ち寄る雰囲気ではありません。
いよいよ「明治トンネル」へ。車止めの杭があります。

トンネル入口。

点々と天井から明かりがあるので、足元は心配ありません。


けっこう一人で歩いていると、何だか吸い込まれそうな気分になります。どこからか話し声が聞こえて来るような。一瞬、ぎょっ! 確かに二人連れの話し声が後ろから聞こえてきます。振り向くと、親子が自転車でやって来ます。ビックリしたのは、お互い様です。


出口にあった説明板。

明治トンネルの由来
・・・
明治6年、岡部町の杉山喜平治ら7人が「結社」を創立し、明治7年5月工事に着手しました。総工費24,800余円、労役人夫延べ15万人で静岡口約20mは青石造り、岡部口の大部分は木角合掌造りの「く」の字型のトンネルが明治9年6月に完成しました。
日本最初の有料トンネルで明治9年11月からは東海道本道として使用されましたが明治29年に照明用のカンテラの失火によって、枠組みが焼失崩壊して一時使用不能になりました。
現在の赤煉瓦トンネルは、静岡口を一部変更し直線とした長さ約203mで明治36年に着工し、明治37年に完成しました。
しかし、昭和5年、この西側に、近代的な旧国道トンネルが開通したことに伴いあまり使用されなくなりました。
平成8年に近代土木建造物の保護を目的として新設された国の登録文化財制度により、平成9年5月29日、現役のトンネルとしては全国で初めて文化財建造物に登録されました。
藤枝市教育委員会 藤枝市建設課

舗装された道路はそのまま下って行きますが、道を左にとって、東海道からの峠道に合流することにしました。
明るい日差しの元、宇津の谷峠方向を振り返る。



下りの山道が続きます。
左手に「髭題目碑」。



蘿径記碑は文政13(1830)年、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末長く残すために建立した石碑です。
「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります。
しばらく下ると、広い道と合流します。




旧東海道(別名 大名街道)
この道は、駿河国の安倍郡と志太郡の境にある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である。上り下り八丁(約870メートル)の険路であった。ここで鬼退治にからむ十団子の伝説の生まれたのも、難所であった証拠であろう。
豊臣秀吉が天正18(1590)年7月、小田原城を落し、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通ったのも今は兵士共の夢のあとである。慶長6(1601)年 徳川家康が、五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、二十万石以上の大名は武将が二十騎、足軽が百二十人から三百人もあり、一万石の大名でも五、六十人の供揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。この道も明治9(1876)年トンネルの開通によってとざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。
藤枝市教育委員会
坂を下ると道の分岐点の付近に坂下の延命地蔵堂(鼻取地蔵)があります。

「坂下」バス停に向かう途中で、宇津ノ谷峠方向を望む。

上り線にある大きな駐車場脇の「坂下」バス停から静岡駅に戻りました。この路線バスには、「PASMO」が使えて、500円なり。
ところで、JR東海道線で熱海駅から西へ行くときには、「PASMO」が使えません。JR東海エリアは別のカードシステム。
ですから、乗るときに到着駅までの切符を購入してから乗ることになりますが、かつてのように駅員がいる窓口はあまり見かけません。そのままPASMOで改札口を入ることに。
と、下車駅の窓口で精算となります。乗り越しのカード精算機に入れてもはじかれてしまいます。そこで、駅員のいる窓口へ。そこでは、改札口を入ったという記録を「なし」にして現金で全額払うか、カードを使うかを選択します。
帰りも同じですが、同じように駅員がいないケースも多く、したがって、2000円以内の切符を買って乗る。当然、下車駅のところで、精算。
横浜駅南口では「PASMO」も使えず、全額、現金扱い。この前、「新蒲原」駅から乗って横浜駅で精算、差額を聞いたら、4000円も請求された。びっくりして違うんじゃないの、と駅員を問い詰めたら、間違えました、と。正しい金額になった。このときの駅員の行動を見ていると、小さな路線図を見ながら、あれこれ電卓で計算し、いくらです、と言うのみ。まったく客は言われっぱなし。間違ってもそのままのことも?
その支払い金額の変更も、まずこちらがもらったおつりを出させ、こちらの切符などが入った「引き出し」(「箱」?)に入れ、こちらが払ったお札を「引き出し」から出してこちらに返し、改めて、こちらがお金を出す、というやりとり。さっさと差額をくれればいいのに。・・・
後ろには同じようなお客さんが並んでいるし、入ってくる人、降りる人、質問する人と立て続け。中にはくってかかる人も(たいていはJR東海管内、たとえば御殿場線からの)。それらを一人でやっている、気の毒と言えば、気の毒。
同じ精算でも、都内の駅では、パソコンに駅名を打ち込んで計算し、さらに電卓で差額を請求してきます。
せめて、「自動乗り越し精算機」なら、こういう間違いもなくなるだろう。
何よりも、どうしてJR東海管内はPASMOが使えないのか、もちろん、JR東海仕様のカードも東日本では通用しない。
JR東海の車内や駅構内には、やたら「PASMO、Suicaは使えません」キャンペーン・広告が貼ってあります(横浜駅にも貼ってあるが、駅のホームでは役に立ちそうもない)が、それよりも共通にできないのですか? JR東海は「新幹線オンリー」で、在来線などはかまっていられないのかも。でも、庶民の足としてけっこう在来線の乗客も多いような気がします(大きな荷物を持った人が乗っているのは、静岡空港の利用者? )。
JRで扱っている「青春18きっぷ」。こういう旅にはなんといっても格安で、便利で、お得、なのですが、残念ながら通用する期間が決まっていて、「天気」と「都合」と「気分」で家を飛び出す者には、少し不便(去年の暮れは使った方がよかった! 春シーズンは、使うかもしれない)。
冬:平成26年12月10日~平成27年1月10日
春:平成27年3月1日~平成27年4月10日
夏:平成27年7月20日~平成27年9月10日
冬:平成27年12月10日~平成28年1月10日
大阪など近畿地方では、地下鉄や私鉄など、どこもPASMOが使えます。「静鉄バス」でも使えるのに。何とかできませんか!
切実なお願いです。これからもしばしばJR東海管内へ行きますので。