日にちを改めて再び、静岡駅へ。前回の続きを、と。2月3日(火)。
静岡駅からバスに乗って「宇津ノ谷峠」まで。静岡駅でバスを待っていると、外国人夫妻。地図を拡げて、何やら思案顔。
少し話しかけると、地図を見ながら「宇津ノ谷峠」に行きたいようす。そこで、乗り場まで一緒に。前回帰りに乗ったバスのコースでいいはずですので。一応念のため、案内所で聞いて確認。
「七番乗り場」。やって来たバスに一緒に乗り込みました。こちらは、曇り空だったこともあって、峠のトンネルを越えた岡部側の「坂下」で降りて、と思っていましたが、峠に近づいても、外国人達は降りる気配は、なし。
そこで、「ボタン」を押してここですよ、と。結局、一緒に降りてしまいました。その方達には、歩道橋を渡って向こう側に行くように勧め、さて、当方は、と。
曇っているし、肌寒いし・・・。でも、せっかくなので気になっていた「蔦の細道」をたどってみることにしました。それから「岡部宿」を経て「藤枝宿」までは行けるかな、と。予定よりも1時間のタイムオーバーになりますが、・・・。

この階段を上って行きます。

すぐに、日が差し込まない鬱蒼とした、上りの山道に。道も狭く折れ曲がる急な勾配で、まさに「登山道」。この日の光じゃ、小生の携帯電話では色が飛んでしまい、ぼんやりとした写真にしかなりません。箱根路の時と同じです。

途中にある「文学碑」。

建治3年(1277年)~弘安元年(1278年)、あるいは弘安2年(1279年)~弘安3年(1280年)にかけて、実子藤原為相(冷泉為相)と為相の異母兄・藤原為氏(二条為氏)との間の、京都では解決出来ない所領紛争を鎌倉幕府に訴えるために京都から鎌倉へ下った際の道中、および鎌倉滞在の間の出来事をつづっています。日記が10月16日に始まっていることを由来として後世に現在の名前が付けられました。
その中で、「宇津ノ谷峠」に関わる内容が記されています。
うつの山こゆるほどにしも、あざりのみしりたる山ぶしゆきあひたり。「夢にも人を」など、むかしをわざとまねびたらん心地して、いとめづらかに、をかしくもあはれにもやさしくもおぼゆ。「いそぐ道なり。」といへば、文もあまたはえかゝず。たゞやむごとなきところひとつにぞ、おとづれきこゆ。
我心うつゝともなしうつの山夢にも遠き昔こふとて
つたかえでしぐれぬひまもうつの山涙に袖の色ぞこがるゝ
こよひは手越といふところにとゞまる。なにがしの僧正とかやののぼるとて、いと人しげし。やどかりかねたりつれど、さすがに人のなきやどもありけり。
廿六日、藁科川とかやわたりて、興津の濱にうちいづ。


登り始めて20分ほどで、峠に着きます。


在原業平 伊勢物語
駿河なる宇津の山辺の
うつつにもゆめにも
人にあはぬなりけり
碑の頭越しに富士山(↓)。



業平、阿仏尼は京からの旅で、「東下り」。こちらは江戸からの東海道歩きで、「京下り」です。

岡部側は、ミカン畑。



「猫石」。どういう方角で見たら、猫に見えるのでしょうか?

しばらく下りの石畳道が続きます。

石畳み道の脇にはせせらぎ。


蔦の細道
蔦の細道は宇津ノ谷峠越えの最も古い道で、峠は標高210㍍、勾配24度、道のり約1500㍍で、文学の名所として著名である。
『伊勢物語(第九段東下り)』の一節に
「ゆきゆきて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く(中略)
駿河なるうつの山辺のうつつにも
夢にも人にあはぬなりけり
富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白うふれり。
時しらぬ山は富士の嶺いつとてか
鹿子まだらに雪のふるらむ」
とあるが、この文と歌が「蔦の細道」という名の起こりといわれている。
岡部町教育委員会
注:この部分の現代語訳
さらに行って駿河の国(静岡県)にたどり着いた。宇津の山に着いて、私がこれから入ろうとする道はとても暗く細い上に、つたや楓が茂っていて、なんとなく心細く、(中略のところ:つらい目に遭うのだろうと思っていたところ、とある修行者に会った。
「どうしてこのような道にいらっしゃるのですか」と修行者が言うので見てみると、知っている人だった。(そこで)京にいる愛しい人への手紙を書いて、言づてを頼んだ。)
駿河にある宇津の山辺にきていますが、うつつ(現実)にも夢の中でもあなたに会わないことです。
※山の名前「宇津」と「うつつ」をかけている。「駿河なるうつの山辺の」が「うつつ」にかかる「序詞」。
富士山を見ると、五月の末だというのに、雪がとても白く降り積もっている。
季節をわきまえない山というのは、この富士山のこと。今がいつだと思って、鹿の子のまだら模様のように雪が降るのでしょうか。
「阿仏尼」もこの部分になぞらえて、山中での偶然な出会いを記しています。
『伊勢物語』の成立は、9世紀後半から10世紀前半で、『十六夜日記』は、13世紀後半の作品ですから、約400年ほどの後の作品ということになります。このかん、「蔦の細道」・東下りの章段は、長く語り継がれてきたということになります。今でも、「昔、男(在原業平に想定される)」が主人公の東下りは、印象深いお話しです。
あらためて、来た道を振り返る。

ここまでの下りも、20分ほどの道のりでした。

宇津ノ谷峠をめぐる全体図。

時間にゆとりがあれば、「道の駅」から、①「蔦の細道」を歩き、次に②「旧東海道」を上り、宇津ノ谷の集落の手前で、③「明治トンネル」を歩く、そして④「大正トンネル」を歩く、というコースもありそうです。
結局、今回たどったのは、③「明治トンネル」、②「旧東海道」の下り(の一部)、①「蔦の細道」でした。いずれも変化に富んだ興味深い道でした。
「蔦の細道」は、峠越えの道として「(旧)東海道」が官道となった以降(「お羽織屋」の伝承で言えば、豊臣秀吉の頃から)廃道になってしまった。まさに蔦や楓、雑草、倒木に覆われ、道筋すらまったく不明になったはずです。400年近くの時が経過していくわけですから。
その廃道を復活させるために、地元の歴史家などのおそらく熱心な、不屈の探求、現地調査があったことでしょう。そのおかげで現在のような「蔦の細道」として歩けるようになったことに感謝しなければなりません。
さらに、明治以降、「(明治)(大正)(昭和)トンネル」によって安全に早く通過できるようになって、その東海道も通行する人もいなくなり急速に廃れていった、と思われます。ここにも、地元の方々の復活の並々ならぬ苦労、努力があったにちがいありません。
こうした先人の労苦、歴史を知るには、ぜっこうの場所でした。