「国道1号線」の「佐渡交差点」を左に折れると、いよいよ「丸子宿」。歩道橋の上からの富士山。眼下の中学校のグランドでは「少年野球大会」が開かれていました。はつらつとした歓声が上がっていました。



しばらく行くと、道は右に大きく曲がり、賑やかな商店街に入ります。コンビニの脇には大きな松の木が。そして、説明板あります。


ようこそ丸子路へ 旧東海道の松並木
江戸幕府は街道を整備するにあたり、道の両側に松の木を植えました。。夏の日除けか、冬の西風よけのためか?
この松は、東海道の名残の松です。手越から丸子宿入口まで松並木が続いていました。
この所は「大曲」と呼ばれ、道の両端には松を植える土手が築かれ、土手には笹が生えていました。
戦後までは人家も明かりもなく、夜になると「オバケ」「オイハギ」が出没すると噂されほど淋しい場所でした。
そんな面影はなく、商店が並び、人通りも多くあります。この松の写真を撮っていたら、近所の買い物帰りの女性から「何かあるんですか? 」「いや、この松は東海道の松並木の名残だそうです」「あら、ちっとも知らなかったわ。」通り過ぎていきました。
地元では、いつも見慣れた風景なのでしょうね。
上の説明文の中に「冬の西風よけ」とあります。東京(関東)では、冬は「北風」のイメージが強いと思います。しかし、このあたりでは、冬には「西風」が強いことを知りました。「三島宿」以来、静岡県内をしばらく歩いてきて、たしかにそんな感じがします。
「長田西小」を過ぎると、お店などもまばらに。その先の三叉路のところに、「丸子宿」の案内版があります。


静かな道をしばらく進むと、道路の右側、歩道に「一里塚」跡の石碑。


「一りつかあと」。日本橋から46番目の「丸子一里塚」跡です。歩道上にあり、左右にポールが立てられていました。気がつかないことがないようになのか、通行人がぶつからないようになのか、果たして?
写真をよく見ると、右のフェンスの奥に何やら「説明板」があるようです。拡大してみましたが、何が書いてあるか、まったく判読不能ですが。
いちだんと静かな道になり、山が次第に近づいてきます。


左手にある説明板。

これから丸子宿 江戸方見見付跡
東海道五十三次のうち丸子宿は日本橋から46里数えて20番目の宿でした。宿場は旧道に沿って350間、規模は小さいが正式な宿場でした。
宿場の入口(江戸方)出口(京方)に見付という場所があり、街道の見張場の役目をしていました。
○本陣 建坪280坪、門構え玄関付きの大きな公認の宿泊所でした。参勤交代の殿様や幕府の役人、勅使が利用する宿でした。
○脇本陣(2軒) 本陣に準ずる宿でした。
○問屋場 宿場から宿場への荷物を継ぎ送る伝馬業務を担当していた。丸子宿は小さな宿場でしたが百人の人足と百疋の馬を備えた。
○七里役所 徳川家紀伊殿様の宿泊連絡所
○旅籠屋大2軒、中16軒、小6軒
○茶屋 めし、茶、酒、団子と共に近在からの籠物を販売していた。この中に丸子の山から掘り出した山芋が「とろろ汁」として名物となった。
芭蕉の句「梅若菜 鞠子の宿の 当路々(とろろ)汁」

道幅も昔のままなのでしょう。家の軒先には屋号の看板が掲げられています。



歴史の道 東海道のご案内
この道筋は、江戸時代の東海道です。ここ丸子宿は文治5(1189)年、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を設けたのが起源といわれています。今の元宿といわれる辺りです。戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も「丸子という里、家五,六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記しています。
江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて20番目の宿場町に定められました。比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも人足や馬を供給していました。これを助郷制度といいます。
ここは東の見付を通り丸子宿に入ってきた所です。見付は、宿場の出入口にあり、往来を監視する機能をもっていました。
現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、本陣跡、脇本陣跡の碑や格子戸の残る家、間口が狭く奥行きの深い家並みなどから、丸子宿のようすを思い起こすことができます。
天保4(1843)年の『東海道宿村大概帳』では、宿内町並み東西7町、惣家数211軒、そのうち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口895人、と記録されています。
丸子宿には、お七里屋と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もありました。
静岡市教育委員会
この造り酒屋さんの軒先にも「杉玉」がありました。



「脇本陣」跡。 「問屋場」跡。



「本陣」跡。 「脇本陣」跡。

江戸時代の丸子宿 駿河国有度郡丸子宿 駿府町奉行所支配所
一 丸子宿の成立
慶長6年(1601)徳川家康により東海道の伝馬駅として指定される
一 位置
江戸へ46里4町10間(約180粁)
府中へ1里16町 岡部へ2里
一 宿内人口 総数795人
内 男366人 女429人
一 宿内家数 211軒
一 宿泊施設 本陣1軒 建坪280坪
脇本陣2軒
旅籠屋 大2軒 中16軒 小6軒
一 問屋場 一ヶ所 人足100人 馬100疋
一 高札場 一ヶ所 宿場入口に立つ
鞠児学校跡。

お七里役所跡。

お七里役所
江戸時代の初期、寛政年間 紀州 徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里に沿って七里間隔の宿場に、独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎ役所を設けた。
県内では、《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ、この役所を『紀州お七里役所』と呼び五人一組の飛脚を配置した。
これには健脚にして剣道、弁舌、に優れた仲間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て《七里飛脚》の看板を持ち腰に刀、十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。
普通便は毎月三日、江戸は五の日、和歌山は十の日と出発し道中八日を要し、特急便は四日足らずで到着した。幕末の古文書に、入山勘太夫役所、丸子勘太夫などと記されている。
丸子駅におけるお七里役所は、当家のことである。
徳川頼宣は、徳川家康の第十子で家康が亡くなって三年後に駿府を追われ紀州和歌山にお国替えさせられた。こうした事もあって紀州家では、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いたのである。
奥には、街道の詳細な絵図。

そろそろおなかもすいてきました。「丁子屋」まであと少し。「とろろ汁」を食べるぞ!