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Channel: おやじのつぶやき
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川会所跡。安倍川餅。安倍川橋。手越の里。杉玉。・・・(静岡駅から「宇津ノ谷峠坂下」まで。その2。)

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 「新通り」からいよいよ「安倍川橋」へ向かいます。

「川会所跡」説明板。

 「県道354号」との合流点にある交番脇にあります。

川会所跡

 江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。
 川越人夫による渡しでは、小型川越えの興津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川などが、いずれも代表的な存在であった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督するところが川会所であった。
 安倍川にも両岸に川会所があった。ここには、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越え賃金の取り扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当たっていた。
 この川会所は間口6間、奥行き4間半であり、5人位の裃を着た役人が務めていたといわれている。
 ちなみに、安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人64文、へそ上は55文、へそまでは48文、へそ下は46文、股までは28文、股下は18文、膝下は16文であったといわれている。

 昭和60年1月 静岡市

「新通り」を振り返る。

 この辺りは「弥勒」というところです。

弥勒町

 江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で、「正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を『安倍川餅』という。これが『弥勒町』の名の由来となったと記されています。
 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、「ほどなく弥勒といへるにいたる。ここは名におふ安べ川もちの名物にて両側の茶屋いづれも奇麗に花やかなり」と著され、「弥勒茶屋」と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。
 弥勒町は、駿府の城下町の西の見付の前面に位置し、駿府96ヶ町に準じた扱いを受けていました。
 近世の安倍川は、歩行(かち)渡りの川として川越のための川会所が設けられていました。しかし、明治4年の渡船と仮橋、明治7年の宮崎総五の手になる安水(あんすい)橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変わりと共に、弥勒の町も大きく変化を遂げてきました。
 弥勒の町には、近世以降の歴史の中で、「由井正雪墓址碑」、昭和の初めの小学4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、溺死や劔難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎総五の篤行を称える「頌徳の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。

  平成7年7月         監修 静岡市教育委員会

 「弥勒緑地」にある石碑。

「由井正雪公之墓址」。

「安倍川架橋の碑」。

「安倍川餅・石部屋(せきべや)」。

                

 お店のすぐ隣にあるのが「安倍川の義夫の碑」。

   

安倍川の義夫(ぎふ)の碑

 この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。
 元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫(ぎょふ)が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落し主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。
 昭和4年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。

 碑文 難に臨まずんば忠臣の志を知らず
     財に臨まずんば義士の心を知らず
 
  昭和60年1月           静岡市

 戦前の道徳の教科書にでも採用されたのでしょうか?

 その先にあったもう1軒のお店「かごや」。

 ここでは3軒のみが販売しているとか。

橋のたもと付近から振り返る。

   「安倍川橋」。けっこう長い。

 ところで、広重が「府中宿」で描いたのは、この安倍川の渡しでした。



 江尻より2里27町。いまの静岡市で、安倍川のほとりにある。ここには、徳川家康が諸侯につくらせた駿府城があり、かれは晩年をここに送ったのである。図は安倍川の渡渉を描いたもので2人の女の輦台渡のありさまをつたえる。輦台渡とは各種渡渉法の一つで2種の方法があり,高貴の人は輿に乗ったままわたし、他は梯子形のものに乗ってわたる。これは武家の娘とその供の女であろうか。『広重 東海道五十三次』

(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)


 「安倍川橋」は、気分のいい橋。というのは、ボーストリングタイプ(弓と弦)トラスト形式で、それがいくつもつながり、リズム感(そんな印象)に富んでいます。これまでも何度か見てきた橋の、古いタイプの構造です。
 振り向くと、富士山。上流には、白雪の山々、と晴れていれば、のんびりと。併設されている歩道橋からの眺めもいい。橋の構造もしっかり観察できます。雨風が強いときは、大変でしょうが。

土木学会選奨土木遺産「安倍川橋」

 中部5県で最古期の鋼トラス橋であり、ボーストリングトラスとして最大級の橋長である。橋門構中央の球形装飾も特徴的である。

《沿革》

 安倍川(あべかわ)橋は、静岡市街の西方を流れる安倍川に、旧国道1号の橋として1923(大正12)年に架けられた。このあたりは江戸時代、かつての東海道筋の府中宿(駿府)と丸子(まりこ)宿の中間で、川越人夫により人や荷物が川を渡っていた「川渡し」が行われたところであった。左岸側の弥勒(みろく)、右岸側の手越にはそれにまつわる旧跡がいろいろとある。
 明治に入って川越制度はなくなり、旅人は不自由を強いられていたが、これを見かねた宮崎総五という一民間人が多額の私財を投じて木橋を架けたのが初代の安倍川橋である。しかし、名は安水(あんすい)橋といった。1874(明治7)年3月竣工、長さ280間(約509m)、幅2間(約3.6m)、架設費用は8250円と記録されている。通行賃を徴収する民営の賃取橋(有料橋)であった。1897(明治30)年頃、修理基金1000円を付けて静岡県に寄贈された。弥勒側の橋のたもとには、小さな宮崎総五頌徳碑があり、付近の弥勒公園には、立派な安倍川架橋碑があって、顛末を今に伝えている。
 1902(明治35)年には二代目の安水橋が架けられた。この橋も木造であったが、桁は木鉄混合のポニー・クイーンポスト・トラスで、構造計算に基づくものであった。橋脚のほうは4本一組の丸太杭であった。
 三代目の弓形を連ねる大正生まれの現橋は、1921(大正10)年着工、1923(大正12)年竣工された。名も安倍川橋と変わって、鋼鉄製のトラス構造のものとなり、静岡県下の四大河川に架けられた最初の永久橋であった。上弦材が放物線(折れ線で)を描くボーストリング(弓と弦)タイプのトラス桁を14連並べたものであった。橋長と橋桁の数では日本一のボーストリング・トラス橋である。
 実用一点張りの鋼トラス橋ではあるが、アーチ形がリズミカルに連続していることもあり、現代の直線的な橋よりのどかな印象を受ける。近寄ってみると各部材は形鋼や板材が細かい綾材とリベットによって組んであり、現代の橋にはない『技(わざ)』を感じさせる。橋の両端(1番目と14番目)のトラス正面上方には「安倍川橋」の名を表示する橋名額が掲げられていた。現在も左岸側(弥勒側)の元14連目にはこの額が昔のまま残っているが、安倍川橋の切り抜き文字はない。
 国道1号のメインルートは下流側の駿河大橋に移ったが、安倍川橋は県道藤枝静岡線の橋として重責を担っている。右岸側橋詰の手越の信号で停車した車の列の後端が日中でも左岸側橋詰に達するほどの交通量があるので、橋を管理する静岡市では頭を痛めており、早晩4車線化が課題となると思われる。
 なお、右岸側(手越側)に大きなアーチ橋が1連架かっているが、これは1990(平成2)年、右折レーンを設けるために、2連のトラスを撤去して、3車線分の幅をもつアーチの1種ローゼ桁に取り替えたものである。アーチ形式を採用したことと、この新しいアーチ橋の正面に旧橋の橋名額が移設されているのは、粋な計らいである。安倍川橋の支間は34.14mだが、この取り替えの結果、1連目だけが69.11mになっている。
 橋の下流側にはプレートガーダーの歩道が追加架設されているが、下流側から眺めると太い直線となり、弓型のトラスが連なる橋梁景観大いに損ねているのは残念である。しかし、歩道自体は必要不可欠、また、橋のディテールを観賞するにはまことに具合がよい。頻繁に行き来する自転車に注意しつつ、リベットの丸い頭に触ったり、鋼材に浮彫りされた英国のメーカーの名前を読み取ったりするのも一興である。
 なお、弥勒側橋近くには名物「安倍川餅」の店がある。つき立ての餅の味は格別であり、店の風情と人情もまた格別である。丸子宿に足を伸ばすとこれも名物の「麦とろろ」が味わえる。

《諸元・形式》

形式 鋼ボーストリング・トラス(1連目のみローゼ桁)、コンクリート井筒基礎、コンクリート橋脚
規模 橋長約490m/車道幅員7.3m(文献により差がある)/支間長(1連目)69.11m、(2~13 連目)34.14m
竣工 1923(大正12)年7 月23 日(1連目のみ1990年)
管理 静岡市(2005 年4 月より)

                                             (以上、HPより)

                  明治時代の木橋。(「Wikipedia」より。)

   
    橋の向こう、遠くに富士山。                 上流方向。

橋を渡って振り返ると、遠くに富士山。

 (一番手前に見える橋の構造は、それまでの他の橋桁とは異なり、近代的な工法によって、別の構造のものに造りかえられている。)


 渡ると、手越の里。

 「手越の里」は、「千手の里」とも言われ、「平家物語」に出てくる絶世の美女である白拍子「千手の前」の出身地であるらしい。

   

 杉玉(すぎたま)とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。「搾りを始めました」という意味である。
 吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語る。
 今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 「杉」つながりで、たしか「お酒の神様」、奈良の三輪神社との関連もあったように思いますが、・・・。

 しばらく進むと、松並木が、といっても1本ずつぽつんぽつんと。かつては松並木が旅人の目を楽しませたのでしょう。

        

 
 「手越原」で国道1号線と合流します。その歩道橋から東を望む。松が見えて、その奥に富士山。

                  

 「丸子」の宿もあとわずかで到着です。「丸子」は、つい「まるこ」と読んでしまいますが、ここは「まりこ」です。「鞠子」と表示することもあるようですが。

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