由比の宿場を過ぎてからJR由比駅までけっこう距離がある。
「由比」は、「桜エビ」がウリの町。ぜひ食してみようと思ったが、あまり食堂が見当たらない。そうこうしているうちについに駅前に。駅前には食堂一軒あるのみ。時間も中途半端なのでそのまま「薩埵峠」方向へ進むことに。コンビニのおにぎりもまだあるので。
道沿いにあった大きなおうち。

せがい造り
軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし垂木を置いたもの。
民家建築に美観を添えたもので、由比町の町並みに特に多く見られる。
下り懸魚
平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを彫り込み装飾も兼ねている。
稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物である。
平成4年3月 由比町教育委員会


せがい造り。 下り懸魚。

この付近を歩いていると、間口が狭く、奥行きがある家並みに気がつく。


通りに面して家を建てるケースと家の前を駐車スペースにして奥に建てるケース・・・。新旧問わず、そんな建て方が気になった。家と家の間も、狭い! 京都ではないが、古い町並みには多く見かける。ここまでの道中で見たような、通りに間口を広くどんと開けて建っている家は少ないように感じられる。それとも、この一角だけなのか?

「由比太郎左衛門」家は、代々由比・今宿の加宿問屋職を務めた家。由比で生産された塩の販売権を持っていて、由比家は、塩を敵方の武田家にも売ることにできる「半手商売」で繁栄した、らしい。
「敵に塩を送る」という「逸話」とは、ちょっと違う? ←これは信州の上杉と甲斐の武田との関係で、商売上手だったのだ、由比氏は。

その手前。こんな立て札が。

いくら禁止し、鎖を取り付けても壊されてしまい、線路を渡る人がいるのだ。
昔、子どもの頃、近所にもこんな場所があった。踏切に回るのはめんどくさくて、つい、線路を渡っていく。何度も禁止の立て札やフェンスが取り付けられるが、いつか壊されて、線路脇に立てられた枕木と枕木とのすきまから渡れるように。
けっこう電車の本数が増えて来た頃で、危険きわまりない行為だった。
それも、簡単に壊されないようなごついフェンスに代わり、いつしか高架線になり、遠い昔の話になってしまった。ついそんなことを思い出して、パチリ!
線路の向こうは、由比漁港。


何だか雲行きが怪しくなってきた。
駅前を過ぎ、来た道を振り返る。


歩道橋を渡り、狭い曲がった道に入って行く。

ここ寺尾には、昔、南方寺という真言寺があり地名の起源になったと伝えられている。
昔の家並みは海沿いにあったが、たびたび津波の被害をうけ、そのため天和3年(1682)高台に新道を改さくし東海道とした。
現在の街道は当時のままの道幅、所々に格子戸、蔀戸の古い家をみることができる。
平成4年3月 由比町教育委員会



「小池邸」。
「国登録有形文化財 小池邸」
小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾の名主を代々務めていました。名主は年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でももっとも重要な役割を担っていました。
この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、なまこ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成10年に国の登録有形文化財に登録されました
静岡市
庭には、「水琴窟」があり、小石の上に水をたらし、備え付けの竹筒を耳にあてがうと爽やかな澄んだ響きが聞こえる。
すぐ向かい側にある「あかりの博物館」。

「小池邸」は、じっくり見学させてもらったが、ここには入らずじまい。
・由比宿 東海道 あかりの博物館
暮らしを支えてきた"あかり"を観賞
提灯、油あんどんなど、なたね油、ローソク、石油のあかりの点灯展示を観賞しながらあかりの歴史が学べる博物館。東海道の旧宿場町由比の街中、大正8年に建てられた民家を移築した趣のある建物です。
たき火からかがり火へ。ローソクから電灯へ。さまざまに姿を変えながら、いつの時代も変わることなく暮らしを支えてきた"あかり"。
古灯具を中心に1000点以上が展示され、日本の古今のあかりの様子がわかります。火おこしの実演も見学できます
(以上、「myたび 静岡 shizuoka.mytabi.net」HPより)
・「静岡新聞NEWS」より
夫の遺志継ぎ「あかりの博物館」再開 静岡・由比 (2015/1/ 5 16:14)
亡き夫の遺志を継ぎ、博物館を再開した片山嘉子さん=昨年12月18日、静岡市清水区の由比宿東海道あかりの博物館
昨年9月に亡くなった「由比宿東海道あかりの博物館」(静岡市清水区由比寺尾)の片山光男館長の遺志を継ぎ、妻の嘉子さん(72)がこのほど、館の運営を再開した。オープン以来、夫婦二人で切り盛りしてきた施設。嘉子さんは「主人が情熱を傾けた博物館。自分が元気なうちは頑張りたい」と語る。
同博物館は電気関係の会社を営んでいた光男さんが「明かりの文化を後世に残したい」と、1996年10月に開いた。全国各地を回って集めた照明具など3千点以上の中から、厳選した約千点の“明かり”を紹介している。たいまつ、燭台(しょくだい)、ガスランプ、LED(発光ダイオード)照明−。人々の暮らしとともに変化した明かりの文化が一目で分かる。
展示以外に、器具の解説や火打ち石を使った火おこし体験などを行い、来場者をもてなした。これまでに5万人以上が来館し、旧東海道由比宿の名物スポットに定着した。
光男さんが亡くなり休館したが、嘉子さんは「家でじっとしていたら、主人に怒られてしまう」と昨年12月、再開を決意した。開館以来ほとんど休まずに光男さんが育てた博物館について、嘉子さんは「主人の意思でこれだけのものを集めた。多くの人に見に来てほしい」と話す。
開館時間は午前10時から午後3時。入館料は高校生以上が500円。中学生以下は200円(大人同伴なら無料)。月曜定休。臨時休業あり。問い合わせは同館<電054(375)6824>へ
こういう小橋を何度か渡る。

道沿いは、古い家並みが続く。新築の家もこの地域の伝統を損ねないようにつくられている。

ここ西倉沢は、薩埵峠の東坂登り口に当たる「間の宿」で十軒ばかりの休み茶屋があって、旅人はここでお茶を飲み、疲れをいやし、駿河湾の風景を賞で旅だっていった。
ここ川島家は、江戸時代慶長から天保年間凡そ230年間代々川島勘兵衛を名乗り、間の宿の貫目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣とも呼ばれ、西倉沢村名主もつとめた旧家である。
平成4年3月 由比町教育委員会


江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶店を営んできた。
明治元年及び11年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。
明治15,6年頃、静岡県令大迫貞清(おおさこさだきよ)が療養のため柏屋に逗留された際、倉沢の気候風土が郷里の九州ににているところら、田中びわの種子をとりよせ栽培をすすめ、当地に田中びわが普及するところとなった。
平成4年3月 由比町教育委員会
これから先、ミカンに混じって、ビワの木が植えられていることに気づく。
「薩埵峠」への上り坂の左手前にあるのが、「山岡鉄舟ゆかりの家 望嶽亭 藤屋」。


間の宿 藤屋
薩埵峠の東登り口に位置しているところから一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶茶店を営み、礒料理、あわび、さざえのつぼ焼きを名物にしていた。
ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称し、文人墨客が好んで休憩したといわれている。
平成4年3月 由比町教育委員会
また、「藤屋」には幕末、官軍に追われていた山岡鉄舟が座敷の地下から舟で清水に逃げたというエピソードもあり、鉄舟の残していったピストルも展示されている、らしい。
上り坂の右手にあるのが「西倉沢一里塚」跡。

日本橋から数えて40番目の一里塚。「薩埵峠」東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。


「ふるさとを見なおそう」
戦国時代、足利尊氏が弟直義と合戦せし古戦場として知られ、又東海道随一の難所「親知らず子知らず」の悲話が伝えられている。
峠は磐城山・袖崎ともいい万葉集に「磐城山ただただ越えきませ磯崎のこぬみの浜にわれ立ちまたむ」と詠まれ、江戸時代安藤広重の東海道五三次のうち、ここ薩埵峠より見た富士山、駿河湾の景観を画いたものはあまりにも有名です。
山の神 薩埵峠の風景は 三行り半にかきもつくさじ 蜀山人
昭和48年4月 倉沢区倉和会