いよいよ「薩埵峠」。
最初は、急な上り道。そのうちゆるやかになり、山肌を巻くように進む。
はるか目の下には、駿河湾と「東名」、「国道1号線」、「東海道線」が見えてくる。
少し上り坂が続いて、しばらくすると、駐車場。
そこまでは、両側がたわわに実ったミカン畑やビワの木々に囲まれた山道。
時折、上り下りする自動車、軽トラには要注意。軽トラは農作業らしいが、タクシーは通るし、マイカーは通る。
のんびり景色を眺めながら歩いていると、クラクション! 観光目的ならそんな長い距離でも標高差もあるわけでもない。景観をじっくり楽しみながら歩けばいいのにねえ。


右も左も急な斜面にミカンの木がたくさん植えられている。今がちょうど収穫期のはずだが、人の気配はほとんどない。
運搬用のレールがあちこちに。収穫するのは人の手だからたいへんな農作業。使われなくなり、すっかりさび付き、使用されていないようなレールもけっこう見かける。




薩埵山合戦場
古来、ここで二度の大合戦があった。まず観応2年(1351)室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義(ただよし)が不仲になり、ここ薩埵峠から峯つづきの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直義軍は敗退した。
二度めは永禄11年(1568)から翌年にかけてで、武田信玄が駿河に侵攻したので今川氏真が清見寺(せいけんじ)に本陣を置き、薩埵峠に先鋒を構えたが敗退した。
そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、今度は武田が敗れて一旦甲州に引き上げたが、永禄12年12月に三たび侵攻し、このとき蒲原城を攻略した。
平成17年12月 由比町教育委員会
しばらく上ると、見晴らしの良いところへ。


これまで、薩埵峠には4つのルートがあった。
①薩埵地蔵道/由比、蒲原の人が北西にある東勝院にある地蔵へお参りに行くための道。
②上道/1654年幕府が朝鮮通信使を迎えるため開いた道。参勤交代の大名も通った。
③中道/1682年東海道として整備した道。朝鮮通信使のために整備したともいわれている。現在の峠道として歩いているルート。
④下道/古来より使われていた「親知らず子知らず」(潮の満ち引きのあいまに岩伝いに進む、という難所中の難所)の道。安政の大地震(1855年)で2m程隆起してからは常時通行できるようになり、のち、国道1号線(東海道)となる。現在、JR東海道線の線路付近。
こうみると、「薩埵地蔵道」という道標の本来の位置は、もう少し北西側にあったものではないかと思われる。
また、この「薩埵峠道」(中道)も、海沿いの「下道」が危険なく通行できるようになった以降(江戸末期から)は、「中道」は廃れ、近隣の人々が利用する農道になった。特に、明治以降はミカン畑などの整備、拡張に伴い、道幅も狭くなったり、改修が進んだ。
その後、「国道1号線」が拡充整備されたり、「東名」が出来たりなどで、国道を歩いての通行が困難になってしまい、再び、歩行者用として「中道」が整備、復活され、さらに、広重の浮世絵効果も手伝って、観光客用にいっそう歩きやすい道になった。
かつては峠西の下り坂などは、木も生えていない「はげ山」を下る、コンクリートで固められた道だったが、木々も植えられ、階段や手すりも整備されたため、ずいぶんとかつてとは趣を異にしているようだ。
ところで、「薩埵」とは、
サンスクリット語で、菩提薩埵の略。菩薩のこと。仏教において一般的に成仏を求める(如来=仏になろうとする)修行者のことを指す。
「薩埵地蔵」は、「地蔵菩薩」と同意?
ようやく、駐車場に到着。

晴れていれば、富士山も見えて、絶景なのに。かすかに頭だけが雲の向こうに。無人販売所で100円玉を缶に入れて、「ミカン」を食べ、おにぎりを食べる。たくさんの人がいて、いずれも残念そう(でもないか)。
駐車場の先の遊歩道を進む。西への下り道。


展望台から。 正面には富士山が(見えるはず)。眼下には、東海道線。国道1号線。東名。
これが、有名な広重の絵とほぼ同じで、富士山が見えれば、感動的な「構図」。


目の前には、駿河湾が広がる。


何とか富士山を撮ろうと2,30分待ったが、晴れ間はあっても、富士山にはいっこうに雲がかかったまま。時折、頂上付近が見えるだけだった。
しかたなく、下ることに。
途中の道標。

薩埵峠
薩埵峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関ヶ原の戦から間もない慶長6年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
薩埵峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。
風光明媚な絶景の地
その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。
田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ
不二の高嶺に 雪は降りける
また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(太田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った狂歌が薩埵峠の名を有名にしました。
山の神 さつた峠の風景は
三下り半に かきもつくさじ
この「狂歌」に関連して、
① 薩埵という名称が「去った」と読めて語感が悪いという理由で、江戸時代末期の和宮の徳川家茂への婚儀の行列はここを通らず、「中山道」を通過した、という。
② 「山の神」は、女神として信仰され、また恐ろしいものの代表的存在であったことから、中世以降、口やかましい妻の呼称として「山の神」と用いられるようになった。
③ 「三下り半(三行半)」は、離縁状の俗称。 離縁状の内容を3行半で書く習俗があったことから、このように称される。 もっとも、必ずしも全ての離縁状が3行半であったわけではない。離縁まではしなくても、愛想をつかしたという意思表示程度でも「三行半をつきつけた」といわれるようになる。
④ 「かきもつくさじ」は、「書き尽くせない」の意。
さて、狂歌全体の解釈は?


もともと旧道は4㍍ほどの幅があったらしい。ところどころにかつての道幅に沿って石垣が残っている。


眼の真下には、道路、線路。目がくらみそうなほど下の位置に。

この辺りは、「地すべり危険地帯」。大規模な土砂崩れが発生すれば、そのまま交通網を直撃する地帯。今後予想される大型台風や東海大地震の備えはどうか?
※ 昨年の10月のようす。「静岡新聞NEWS」(「静岡新聞」HPより)
<台風18号>静岡県内横断 東海道線土砂崩れ
(2014/10/ 6 14:50)
大型で強い台風18号の接近に伴い、静岡県内は6日未明から暴風域に入り、午前8時すぎに台風の中心が浜松市付近に上陸した。静岡市の山間部付近で1時間110ミリの「記録的短時間大雨」を観測するなど各地が激しい雨に見舞われた。20市町が約35万世帯計約83万人に避難勧告・指示を出し、県と静岡地方気象台は25市町に土砂災害警戒情報を発表した。
・・・
雨の影響で、土砂崩れも多発した。静岡市清水区の薩埵峠西側付近では、JR東海道線の上下線が土砂にふさがれた。

JR東海道本線の線路がふさがれた土砂崩れの現場=6日午前10時40分ごろ、静岡市清水区
・・・
交通機関にも大きな混乱が生じた。東名高速道は高波と雨量規制により豊川インターチェンジ(IC)―沼津IC間が、新東名高速道は全区間が通行止めになった。
JR東海静岡支社によると、東海道新幹線は午前6時15分ごろ、静岡―掛川間の雨量計が規制値に達し、午前10時半現在、品川―静岡の上下線で運転を見合わせている。東海道線と身延線、御殿場線はそれぞれ始発から運転を見合わせた。伊豆急行も始発から、静岡鉄道は午前7時半から、運転を見合わせた。
この地域一体では、現在、大がかりな地すべり対策事業が行われている。
しばらく山道を進む。

薩埵峠は、古くから美しい眺めの場所として受け継がれてきた。薩埵峠からの富士山への願望は、前面の東名高速道路とバイパスにより近代的な構成となっているが、駿河湾と富士山は不変の景観財産として存在し、時代を超えて共有できる眺望景観として、将来にわたり大切に守っていくべき重要な場所であることから、眺望地点として指定する。
ずいぶんと大仰なモニュメントではある。この先の方が眺望はよさそうだが。
岬の端を回るような地点に記念碑。正面は青々と広がる「駿河湾。」を一望する絶好の地点。

振り返って望む。

途中にあった二つの説明板。


これは右手のもの。左手には「薩埵峠の合戦」の説明板。
薩埵峠の歴史
鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩埵山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
(岩城山ただ超え来ませ磯埼の不来海の浜にわれ立ち待たむ)
ここに道が開かれたのは1655(明暦元年)年、朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。
興津地区まちづくり推進委員会

この先、急な階段を下ってゆく。
結局、富士山の全貌は見ることが出来なくて、残念!
