ここからが「由比宿」の核心部。直線の街道沿いに旧本陣などが並んでいる。「由比」宿は、「蒲原」よりもこじんまりとしているが、かつての街道筋の面影をよく残している。
「田子の浦」といわれた由比から興津にかけての浜辺では塩浜、塩田が広がり、塩の大生産地だった。ここでは海水を濃縮して、これを煮詰めて塩を得るという方式。そして、塩を中心とした駿河の物産を富士川の水運や峠道を利用して、甲州に運んだ。だから、昔から海の幸によって栄えた土地でもあった。東西往還は「東海道」が主なルートだが、物品の輸送というよりは、人の移動が中心。
明治以降、静岡・清水と富士・沼津などとの往還は、海岸寄りにつくられた「国道1号線(東海道)」、東海道線、昭和30年代後半につくられた「東名」、あるいは山寄りの新幹線が主流。一方、ここは、北西には崖崩れの恐れもあるそうな、山の急斜面が迫る土地に、長い間に亘って形成されてきた街並み。
そのため、幹線道路や鉄道線路に挟まれながら、「薩埵峠」東下の「間(の)宿」付近を含め、明治以降も昔のままの雰囲気が残されてきたのだろう。「旧国道1号線(現・県道396号線)」が宿場の町中を迂回し、山側を回りこむようにつくられたのも幸いだった(反対運動があったか)。
左手のおうち。

昔の商家(志田氏宅)
江戸から京へ上がる旅人が、蒲原から由比へ入る時、ここは当初の由比宿の東木戸で、枡形道路の形態をとどめている。
志田宅は家歴も古く、屋号「こめや」を名乗り、家のたたずまいも昔の商家の面影を残している。
入口(どまぐち)を入ると帳場、箱階段等が残っている。
平成十六年三月 由比町教育委員会
ご不幸があったようで、そのしるしが置かれていた(説明板の下にあるもの)。
右手の壁に大きな説明碑。

御七里役所之址
江戸時代西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つものがあった。
此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。同家では江戸和歌山間584キロに約七里28キロ毎の宿場に中継ぎ役所を置き5人1組の飛脚を配置した。
主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。これには剣道弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。
普通便は毎月3回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発道中八日を要した。特急便は4日足らずで到着した。
幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などとあるのは、由比駅における紀州家お七里役所のことである。
この裏手に大正末年まで七里衆の長屋があった。
昭和46年 静岡民俗の会

その右隣にある木造住宅。実に立派。上の記事とは関連はないが。
その先には、



ここは由比宿の本陣屋敷跡で、屋敷の広さは約1300坪もあり、そのまま今日に伝えられました。
大名等が休泊した母屋は、表門を入った正面にありましたが、明治初年に解体されました。
向かって左手奥の日本建築は、明治天皇がご小休された離れ館を復元したもので、記念館「御幸亭(みゆきてい)」といいます。付属の庭園は「松榧園(しょうひえん)」といい、山岡鉄舟が命名したものです。
右手奥の洋館は広重見術館で、もとこの位置には土蔵が建ち並んでいました。
静岡市
「静岡市東海道広重見術館」。
さっそく見学したが、中身は大変充実していて、時間があればじっくり見て回る価値が充分にある。
特に、今回、特別展として展示されていた「めいしょにかほ 浮世絵筆くらべ」は、圧巻。
東海道や江戸の風景を描いた歌川広重と歌舞伎役者や美人を得意とした三大・歌川豊国という、幕末を代表する二人の絵師が一つの絵に筆を振るった「雙筆五十三次(そうひつごじゅうさんつぎ)」「東都高名會盡(とうとこうめいかいせきつくし)」の肉筆浮世絵が展示されてあった。
宿場にぞらえての美人絵、江戸の名高い料亭などにかこつけての歌舞伎の演目と役者絵。・・・筆づかいはもとより、演題の面白さ
など、見飽きない。
この他、館内は、木版画の制作過程、浮世絵の歴史、広重などの浮世絵師の系図など、興味深いものが展示され、また木版画の実演などもできるようだ。
旅の途中にちょっと寄ってみる、程度ではもったいない内容。ぜひ、また訪れたいところ。

「東海道広重美術館」 沿革・概要
平成6年、東海道の宿場町「由比宿」の本陣跡地である、由比本陣公園内に開館した東海道広重美術館は、江戸時代の浮世絵師・歌川広重(1797-1858)の名を冠した、日本で最初の美術館です。
収蔵品は、広重の代表的な東海道シリーズ『東海道五拾三次之内』(保永堂版東海道)、『東海道五十三次』(隷書東海道)、『東海道五十三次之内』(行書東海道)の他、晩年の傑作『名所江戸百景』など、風景版画の揃物の名品を中心に約1,400点を数えます。
常に新しい視点で、浮世絵芸術の素晴らしさを満喫していただけるよう、毎月展示替えを行い、所蔵品を中心にバラエティーに富んだ企画展を開催して参ります。
また講演会やギャラリートークなど、関連事業も随時実施致します。
館内には「大展示室」「小展示室」の他、「浮世絵の基礎知識」「ガイダンスルーム」があります。 エントランスホールには、浮世絵版画摺りの技術をやさしく理解できる「版画体験コーナー」を設置するなど、“広重”や“東海道”をキーワードに、江戸文化への理解を深めて頂ける工夫がされています。 また「ミュージアムショップ」では、オリジナルグッズの販売もしております。
(以上、「静岡市東海道広重美術館」公式HPより)


明治天皇御小休止碑。常夜燈。 馬の水呑み場。

その本陣の向かいにあるのが、由比正雪の生家と言われている「正雪紺屋」。

表に蔀戸を残すこの紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より四百年近く続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。
慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれともいわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。
平成6年3月 由比町教育委員会
ところで、「慶安事件」とは
慶安4年(1651年)、由井正雪が首謀者となって、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を集めて幕府転覆を計画した事件。「慶安の変」「由比(由井)正雪の乱」とも。
由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより将軍家からも仕官の誘いが来ていた。しかし、正雪は仕官には応じず、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた。
この頃、幕府では3代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以来、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていた。そうした浪人の一部には、自分たちを浪人の身に追い込んだ「御政道」(幕府の政治)に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた。
正雪はそうした浪人の支持を集めた。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった。
そのような情勢下の慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子徳川家綱が継ぐこととなった。次の将軍が幼君であることを知った正雪は、これを契機として幕府転覆、浪人救済を掲げて行動を開始する。計画では、まず丸橋忠弥が江戸を焼討し、その混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ち取る。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川将軍を討ち取るための勅命を得て、幕府に与する者を朝敵とする、という作戦であった。
しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまう。慶安4年(1651年)7月23日にまず丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その前日である7月22日に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、7月25日駿府に到着した。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。その後、7月30日には正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害、8月10日に丸橋忠弥が磔刑となり、計画は頓挫した。
また、駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。
江戸幕府では、この事件とその1年後に発生した承応の変(浪人・別木庄左衛門による老中襲撃計画)を契機に、老中阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、奇しくも正雪らの掲げた理念に沿った世になっていった。
(以上、「Wikipedia」参照)

脇本陣とは、副本陣という意味です。
由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が3軒ありました。そのうち江戸時代後期から幕末にいたるまでつとめたのが、この温飩屋です。
東海道宿邑大概帳(天保12年、1841、幕府編集)に、脇本陣壱軒、凡そ建坪90坪、門構え、玄関付きとあるのがここだと思われます。
平成8年3月 由比町教育委員会

その先には、「脇本陣羽根ノ屋」。

脇本陣とは、副本陣という意味です。
由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が三軒ありまし た。そのうち江戸時代後期になるころ、徳田屋に代わって、つとめたのがこの羽根ノ屋とおもわれます。
この羽根ノ屋は、江尻宿脇本陣羽根ノ屋の分家で、寛政5年(1793)幕府に脇本 陣を願い出たことが史料にあります。
平成7年1月 由比町教育委員会
この他にも興味深い(面白い? )建物がいくつか。


「由比宿おもしろ宿場館」。弥次喜多にあやかった人形がお出迎え。

江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、由比宿では現在の由比薬局の位置で朝日麟
一氏によってその業が行われ、飛脚屋と呼ばれていた。
明治4年3月、郵便制度の創設により、飛脚屋は由比郵便局取扱役所となり、さらに明治8年1月由比郵便局と改称された。
明治39年5月、平野義命氏が局長となり自宅に洋風の局舎を新築し、明治41年1月より郵便局を移転した。この局舎は昭和2年7月まで使用され、現在は平野氏私宅となっている。
平成17年1月 由比町教育委員会


「清水銀行由比支店」店舗。
[国の登録有形文化財]平成9年9月3日登録
・・・
この建物は、西洋の古典様式を基調とする意匠で、その正面には4本のイオニア式の柱頭を飾る柱を据え、水平に3つの帯で分けている。・・・簡素ながらも、典型的な新古典主義の様式である。こうした昭和初期の銀行デザインは日本の資本主義の台頭を示すものであろう。
清水銀行
去年、北九州市に行ったときに見た銀行(旧「安田銀行八幡支店」)の外装、デザインとよく似ている。煉瓦つくりならば、見間違うほどである。
ここにもあるとおり、資本主義の発展には銀行が大いにその役割を果たした、地域にあってもその存在が目立つものであったに違いない。由比には、日本資本主義の草創、発展期の「郵便」と「金融」の二つの大きな足跡が残されている。


「江戸後期 由比宿 宿割地屋号」の一覧表。1軒1軒の屋号や商いの種別など細かく復元されているのには、ビックリ!
しばらく行くと、宿場の西のはずれ。

天保12年(1841)に江戸幕府が編集した東海道宿村大概帳によると、由比町の町並みは東西5町半(約600㍍)とあります。その宿場の西の木戸(通行人の出入口)が、この先の桝形(曲がり角)の所あたりだったと思われます。
旧東海道は、その桝形を左折して坂道を下って由比川の河原に出ると、仮の板橋が架けられていて、それを渡りました。雨が降って水量が増すと、この仮板橋は取りはずされました。このように由比川は徒歩で渡りましたので、歩行(かち)渡りといっています。
歌川広重の版画の行書版東海道の「由井」には、この情景がよく活写されいます。また狂歌入り東海道には結城亭雛機(ゆううきていすうき)という人が、
ふみ込めば 草臥(くたびれ)足も直るかや 三里たけなる 由井川の水
という狂歌をのこしています。
平成8年3月 由井町教育委員会
脇にはこんな行き先表示。

橋の脇には、常夜燈。遠く左前方には、「薩埵峠」付近が見えてくる。
