年明け。暇に任せての、その程度の読書姿勢で果たしていいのか? と自問自答しつつ、最近読み進めている辺見庸さんの作品、あれこれ。
そのうちの一つ。
「小人閑居して不善を為す」。せめて精神だけは退廃のそしりを免れたい、と思いつつ。・・・
それにしても、脳出血から二度に亘るガン闘病(たしかそのはずだが)。不自由な肉体を自らむち打って理不尽な、不感症な世間(政治や体制批判等と大向こうを狙って声高に叫ぶ(一見、そんな風にも見られがちだが)のではなく、まず己にその批判の矛先を向け、徹底した自己否定の姿勢。そこから読者に「闘い」を挑む姿に、己の惰弱を恥じるのみ。
輯録された作品は、1990年代の終わりから2000年代の初頭にかけてのもの。おそらく大病と不自由な肉体との闘いを余儀なくされていたころの作品群。「死」という括り方にご本人の意志が働いていたか、極めて具象的なものになっている。
死刑制度。永山則夫の死刑執行に関する発言。彼との具体的な関わりの中から、それに自らの身体状況を重ねながらの。抽象性、あるいは客観性を排除しながらの肉声による発言。かえって、普遍性を獲得することができる、そんな文章の力を否応なしに感じる。
マスコミ状況。当時の政治状況。新ガイドラインによる法整備、国旗国歌法、・・・、それらをめぐるマスコミの表現手法を戦前の「ペン部隊」になぞらえ、厳しく将来を突く姿勢。今まさに、選挙報道、その後のアベへの追従ぶりなど、現実的なものになっている。
評論。特に時事評論は、その時々の、時代の奥底、急所を的確に「打ち抜き、えぐり出し」つつ、その後の時代の転換点においてもなお予言的な意義を持つものこそ、本物の文章だろう。
近年、発表される評論は、ますます先鋭になりつつある。それは、筆者の心身がともにますます先鋭化しつつことにあるだろう。筆者の、「否定」しつつ、閉塞するばかりの自他を取り巻く環境に打って出るその志を共有できることは、なまやさしいものだはないが。
「この国でものを書くということは、といま再び私は考える。そう意識しようとすまいと、戦前、戦中の物書きたちの途方もない背理と、どこか深いところで関係することを意味する、と。」《業さらし》