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Channel: おやじのつぶやき
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西本陣跡。西木戸。蒲原宿あれこれ。・・・(富士から新蒲原まで。その5。)

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 「蒲原宿」の核心部。小川に沿って左手を入ると、大きな「蒲原夜之雪」記念碑。

   

 その脇には、広重の「蒲原 夜之雪」。
                       


説明板。

 「蒲原夜之雪」の絵は、歌川(安藤)広重が、天保3年(1832)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京に上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれています。。
 昭和35年、「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念して、広重がこの絵を描いたと思われるこの場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。
    静岡市

 しかし、場所的には構図の上からおかしな印象。この辺りが宿の中心に近い地だから建設したとも思える。

旅籠「和泉屋」(鈴木家)。

 この建物は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠でした。天保年間(1830~44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。
 今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。
 弘化2年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2間の二軒に仕切られています。
   静岡市

 そしてその向かいには「西本」陣跡。その門前で、ここまで、車にもすれ違わず、行き来する人にも会わなかったのに、バイクと軽自動車が停まっていて、人だかりが。いったい何が起こったのか?

 写真を撮るのをためらっていていたところ、会話のやりとりからどうもバイクと軽トラが出会い頭でぶつかったらしい。そこに関係者らしき人が寄ってきた、といっても、5,6人だったが、という次第。

 ちょうど門前でのやりとりだったので、写真も遠慮しながら。 

説明板。人に少し移動してもらって。

 本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていました。
  静岡市

  

 そのうち、車が1台停まって、小耳を立てると、どうも郵便局のバイクが事故ったらしい、と。・・・落ち着いた風情の町がここだけちょっとにぎやかに。この後も誰にも会わなかったのだから。
 
「ようこそ蒲原へ。案内版」。


 その先には、

手作りガラスと総欅の家(磯部家)。

 明治42年(1909)に建築された当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとです。
 二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。
 日本における板ガラスの生産開始が明治40年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。

  静岡市



 右手にある高札場跡。

 左手の路地入口にある「御殿道」跡。

 かつてこのあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備されて規模も大きくなりました。
 御殿の正確な位置はわかりませんが、このあたり一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。ちなもいに、寛永11年(1634)家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました。
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大正時代の洋館「旧五十嵐歯科医院」。

 「国登録有形文化財」。
 旧五十嵐歯科医院は、蒲原にいくつかある大正時代の洋館の中で代表的なものです。
 大正の初め、帝国ホテルに代表される西洋風の建築が移入され、洋館造りが流行しました。
 南側がガラス窓、下見板張り(羽目の板が横に張ってある)の白いペンキが眩しい洋館でしたが、内部はほとんど和室で、水道がなかった時代に井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残っています。名医として知られ、田中光顕伯爵も患者の一人でした。
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                         蔀戸のある志田家
 「国登録有形文化財」。
 蔀戸(しとみど)のある志田家の住宅主屋等が国登録文化財となっている。安政元年(1854年)に建てられたもの。
 志田家は山六(やまろく)の屋号を持つ味噌や醤油を醸造する商家であった。
 蔀戸とは、日光や風雨を遮る戸のことで、上下2枚に分かれており、上半分を長押(なげし)から吊り、下半分は懸金(かけがね)で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは、下の戸は取り外せるようになっている。
 昼は上に吊り上げて目隠しにし、夜は下ろして戸締りの役を果たしていた。

 格子の美しい家。


 西の枡形。振り返って望む。

 西木戸・茄子屋の辻。

 蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。
 もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄12年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。
 この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこりました。
 承応2年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒しました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。
 当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。
  静岡市

上の記事にもある、当初の宿場だったところはどうなっているか? 「新蒲原駅」へ戻る途中、県道396号線(旧国道1号線)沿いにあった「古屋敷」という標識。
 右に折れる細い道は、駅の南側に通じる道。旧道で、その先には、旧宿場の痕跡が残っているかも知れない。東海道からはずれてひっそりと。あるいは再開発ですっかり無くなっている? 新蒲原駅南口側は、公共施設や大型店舗などで賑わっている様子だが。

「古屋敷」。

 というわけで、足早に通り過ぎてしまった。出先からの回り道。ちょっと時間が遅かった!

 ・・・

 次の16番目の宿場・由比宿まで約4km(1里)の道のり。

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