千葉公園〜競輪場〜千葉経済大学。
大正時代。○が「鉄道材料廠」、→が「綿打池」。
昭和40年代。↓「国鉄貨物線」となっている。
現在。上から「千葉経済大学」、「競輪場」、「千葉公園」。線路は道路となっている(「今昔マップ」より)。
「千葉けいりん」入口。
壁絵がずらり。
この脇を直線で進む道が線路跡。
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少し左にカーブしていきます。
振り返って「千葉公園」方向を望む。
↓の道が線路跡(の一部)。このあたりでは、材料廠内に縦横に線路が敷かれていた。現存する道路が旧線路跡と思われる。
モノレール「作草部(さくさべ)」駅付近。
「千葉経済大学附属高校」付近から千葉公園方向を望む。
「千葉経済大学」キャンパスを回り込んだ一番北の駐車場。そこにお目当ての建物がありました。
「旧鉄道連隊材料廠煉瓦建築」
●指定区分 県指定有形文化財(建造物)
●所在地 千葉市稲毛区轟町3-59-6
●所有者 千葉経済学園
●指定年度 平成元年
明治41年、鉄道連隊材料廠の建物として建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、木造トラスの小屋組みで、南北にそれぞれ幅2.7mの下屋を付設し、面積695.6?である。煉瓦構造の主要部分は、54.4m(約30間)×7.3m(約4間)と細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積みと呼ばれる技法を用いている。
県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築であり、特に南北の両壁にみられる10連の雄大なアーチ構造はこの建物の特徴で、全国的にも他に例がない。我が国の初期の煉瓦建築の構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。(千葉県教育委員会・千葉市教育委員会設置説明板より)
この煉瓦建築は、鉄道連隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、終戦後、1945(昭和20)年、旧国鉄が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、廃止後、1985(昭和60)年から千葉経済学園の所有となりました。
現在、建物周辺は「立ち入り禁止」区域になっていて、残念ながら近づくことはできません。現在も使用されているようすです。
北側(駐車場側)。
南東の角(建物入口付近)。
右に建物の説明板あり。
南側。
東側外壁。
この建物の前に残っている当時の線路。
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線路が何カ所か残っていました。
内部のようすはうかがい知ることはできませんでした。
この建物も立ち入り禁止。関連がある施設か?
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1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)貨物線は廃止されたが、まだ建物は残っている。中央上の白い屋根の建物が「材料廠」。
軍用線路は「材料廠」からしばらく北上し、西に転じて「鉄道第二連隊」のあった習志野(JR「津田沼」駅付近)方向に進んでいました。約16.7kmの路線が完成したのは1911年(明治44年)10月のことです。





この脇を直線で進む道が線路跡。






「千葉経済大学」キャンパスを回り込んだ一番北の駐車場。そこにお目当ての建物がありました。

●指定区分 県指定有形文化財(建造物)
●所在地 千葉市稲毛区轟町3-59-6
●所有者 千葉経済学園
●指定年度 平成元年
明治41年、鉄道連隊材料廠の建物として建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、木造トラスの小屋組みで、南北にそれぞれ幅2.7mの下屋を付設し、面積695.6?である。煉瓦構造の主要部分は、54.4m(約30間)×7.3m(約4間)と細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積みと呼ばれる技法を用いている。
県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築であり、特に南北の両壁にみられる10連の雄大なアーチ構造はこの建物の特徴で、全国的にも他に例がない。我が国の初期の煉瓦建築の構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。(千葉県教育委員会・千葉市教育委員会設置説明板より)
この煉瓦建築は、鉄道連隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、終戦後、1945(昭和20)年、旧国鉄が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、廃止後、1985(昭和60)年から千葉経済学園の所有となりました。
現在、建物周辺は「立ち入り禁止」区域になっていて、残念ながら近づくことはできません。現在も使用されているようすです。













軍用線路は「材料廠」からしばらく北上し、西に転じて「鉄道第二連隊」のあった習志野(JR「津田沼」駅付近)方向に進んでいました。約16.7kmの路線が完成したのは1911年(明治44年)10月のことです。