「京急生麦」駅下車。「生麦事件発生現場」から旧東海道を北に向かい、「八丁畷」駅まで歩きました。京急線「生麦」〜「花月園前」〜「京急鶴見」〜「鶴見市場」〜「八丁畷」。駅と駅の距離は短いので、歩数にして約13,000歩くらい、所要時間にして、約2時間15分(昼食時間を含み)。薄曇り、日差しも強くなくて、まあまあ。
(先に報告しておくと、これで、断続的ながら旧東海道の「品川宿」から「川崎宿」、「神奈川宿」間は「歩き」でつながったことになります。)
ここが出発点。
「生麦事件発生現場」碑。
道幅は当時よりは広くなっているようだが。
「正泉寺」付近から神奈川宿方向を望む。
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1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓↓当時の「正泉寺」は鶴見川河口・海岸付近にあったが、現在は海とはほど遠い位置にある。生麦事件の現場は○付近。南が神奈川・横浜方面。南北に続く道が「旧東海道」。左上部、斜めの線が鉄道(新橋〜横浜)の線路。
「生麦魚河岸通り」。最盛期よりもぐっと数は少なくなったが、今でも魚屋・問屋さんが軒を連ねる。
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我が店が店を構える‘生麦魚河岸通り’は、横浜市鶴見区にあります。この通りは旧東海道でもあり、江戸時代は大名行列が通るなど交通の拠点として栄え「薩英戦争」のきっかけとなる有名な生麦事件もこの通りで起こりました。
生麦の漁業の歴史は江戸時代までさかのぼると、言われています。江戸時代、生麦であがった魚は定期的に幕府に献上され珍重されていました。そのほか、お江戸日本橋にも送られていました。
明治時代に入ると、工業地帯の埋め立て工事が開始され、地元漁師は新しい漁場を求め、東京湾全体で漁を行い、この頃から海苔やカキの養殖がおこなわれました。
第二次大戦後、東京湾でイワシの豊漁が続き漁師たちは、それを生麦に押し寄せてくるヤミ業者に売りさばき、生活をしていました。この「ヤミ市」こそが、現在の魚河岸通りの起源となり、この頃、沖買いされたサバや三崎、小田原、伊東から買い集められた魚も販売されるようになりました。
昭和三十年代頃になると、戦後の復興、経済発展、生活向上の社会状況の変化に応じて、取り扱う魚介類も高級、多様化し、すし屋、料理屋がたくさん集まるようになりました。しかし、埋め立ての拡大、水質の悪化により、漁師の数は年々減り、昭和四十年代半ばで姿を消してしまいました。しかし、魚河岸通りだけは残り、今も存在しています。
現在、旧東海道の一部分約300メートルにかけて40ほど店舗が並び、そのほとんどが生鮮魚貝類店または関連の商品を扱う店舗であります。地元横浜、川崎を中心にすし屋、料理屋といった食のプロが仕入れに来ます。しかし、一般の方も利用でき少量でも買うことができます。
午前8時頃に荷物が到着し、10時をすぎると業者の仕入れがおおかた終わるので一般の方はゆっくりと買い物ができます。スーパーなどにはない変わった魚や高級魚などを買うことができます。
年末には一般の方を対象にした売り出しをしていて毎年多くの買い物客で賑わいます。さながら、横浜のアメ横といったかんじです。あなたもおいしい魚を求めて、この通りに遊びに来ませんか?
(
HPより)
上にもあるように、業者の仕入れも終わったお昼前なので、人通りも少なく、どのお店も少しのんびりとした雰囲気でした。
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来た道を振り返る。たしかに商店の数は少なくなっているようだが、何とか頑張って欲しい「魚河岸通り」。
JR「国道」駅の高架。
JR鶴見線「国道」駅
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相対式ホーム2面2線を有する高架駅で、ガード下の通りには昭和初期の風情が漂う。無人駅で自動改札機も未設置だが、簡易Suica改札機の設置駅。ホームがカーブしており、電車との間に隙間が発生するほか、電車の進入時に警報音が鳴る。
歴史
1930年(昭和5年)10月28日 - 鶴見臨港鉄道の駅として開業(旅客営業のみ)。
1943年(昭和18年)7月1日 - 鶴見臨港鉄道線の国有化により、国鉄鶴見線の駅となる。
1971年(昭和46年)3月1日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道の駅となる。
2002年(平成14年)3月22日 - ICカードSuica供用開始。
駅名の由来
鶴見線と京浜国道との交点にあることから命名された。京浜国道とは、現在の国道15号(第一京浜国道)の前身である当時の国道1号である。
1949年(昭和24年)の黒澤明作品『野良犬』をはじめ、2007年の木村拓哉主演テレビドラマ『華麗なる一族』最終話など、しばしば映画・ドラマのロケ地として使用される。高架下が異様なムードを醸し出す駅として、紹介されることもある。駅構内は建設当初から、全く改築されていない。
建物正面右の角の中段(ちょうど歩行者信号の右側あたり)の外壁の凹凸は、第二次世界大戦中の米軍による空襲においての機銃掃射の銃弾の痕である。
○で囲ったところ。
(以上「Wikipedia」参照)
商店を営業している雰囲気はない。
看板だけが妙にリアルに掲げられてある。
左の階段は、ホームに向かう階段。
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高架下は、ドーム状。
「旧東海道」から国道駅のホームを見上げる。駅構内から外に出ると、異空間にいたような気分になる。
「旧東海道」に架かる高架橋。「旧国道架道橋」という表示。
(先に報告しておくと、これで、断続的ながら旧東海道の「品川宿」から「川崎宿」、「神奈川宿」間は「歩き」でつながったことになります。)
ここが出発点。









我が店が店を構える‘生麦魚河岸通り’は、横浜市鶴見区にあります。この通りは旧東海道でもあり、江戸時代は大名行列が通るなど交通の拠点として栄え「薩英戦争」のきっかけとなる有名な生麦事件もこの通りで起こりました。
生麦の漁業の歴史は江戸時代までさかのぼると、言われています。江戸時代、生麦であがった魚は定期的に幕府に献上され珍重されていました。そのほか、お江戸日本橋にも送られていました。
明治時代に入ると、工業地帯の埋め立て工事が開始され、地元漁師は新しい漁場を求め、東京湾全体で漁を行い、この頃から海苔やカキの養殖がおこなわれました。
第二次大戦後、東京湾でイワシの豊漁が続き漁師たちは、それを生麦に押し寄せてくるヤミ業者に売りさばき、生活をしていました。この「ヤミ市」こそが、現在の魚河岸通りの起源となり、この頃、沖買いされたサバや三崎、小田原、伊東から買い集められた魚も販売されるようになりました。
昭和三十年代頃になると、戦後の復興、経済発展、生活向上の社会状況の変化に応じて、取り扱う魚介類も高級、多様化し、すし屋、料理屋がたくさん集まるようになりました。しかし、埋め立ての拡大、水質の悪化により、漁師の数は年々減り、昭和四十年代半ばで姿を消してしまいました。しかし、魚河岸通りだけは残り、今も存在しています。
現在、旧東海道の一部分約300メートルにかけて40ほど店舗が並び、そのほとんどが生鮮魚貝類店または関連の商品を扱う店舗であります。地元横浜、川崎を中心にすし屋、料理屋といった食のプロが仕入れに来ます。しかし、一般の方も利用でき少量でも買うことができます。
午前8時頃に荷物が到着し、10時をすぎると業者の仕入れがおおかた終わるので一般の方はゆっくりと買い物ができます。スーパーなどにはない変わった魚や高級魚などを買うことができます。
年末には一般の方を対象にした売り出しをしていて毎年多くの買い物客で賑わいます。さながら、横浜のアメ横といったかんじです。あなたもおいしい魚を求めて、この通りに遊びに来ませんか?
(

上にもあるように、業者の仕入れも終わったお昼前なので、人通りも少なく、どのお店も少しのんびりとした雰囲気でした。




JR鶴見線「国道」駅

相対式ホーム2面2線を有する高架駅で、ガード下の通りには昭和初期の風情が漂う。無人駅で自動改札機も未設置だが、簡易Suica改札機の設置駅。ホームがカーブしており、電車との間に隙間が発生するほか、電車の進入時に警報音が鳴る。
歴史
1930年(昭和5年)10月28日 - 鶴見臨港鉄道の駅として開業(旅客営業のみ)。
1943年(昭和18年)7月1日 - 鶴見臨港鉄道線の国有化により、国鉄鶴見線の駅となる。
1971年(昭和46年)3月1日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道の駅となる。
2002年(平成14年)3月22日 - ICカードSuica供用開始。
駅名の由来
鶴見線と京浜国道との交点にあることから命名された。京浜国道とは、現在の国道15号(第一京浜国道)の前身である当時の国道1号である。
1949年(昭和24年)の黒澤明作品『野良犬』をはじめ、2007年の木村拓哉主演テレビドラマ『華麗なる一族』最終話など、しばしば映画・ドラマのロケ地として使用される。高架下が異様なムードを醸し出す駅として、紹介されることもある。駅構内は建設当初から、全く改築されていない。
建物正面右の角の中段(ちょうど歩行者信号の右側あたり)の外壁の凹凸は、第二次世界大戦中の米軍による空襲においての機銃掃射の銃弾の痕である。

(以上「Wikipedia」参照)






