みなとみらい地区は、横浜都心部の一体化と強化をめざしたウォーターフロント都市再開発として建設されている街区 。再開発が行なわれる以前は、当地に三菱重工業横浜造船所、国鉄高島線の東横浜駅(貨物駅)・高島ヤード(操車場)、高島埠頭などがあった。
2004年にはみなとみらい線が開通し、「新高島駅」、「みなとみらい駅」が開業した。
「21世紀にふさわしい未来型都市」を目指して開発が進められ、電線・電話線(光ファイバー)は共同溝により、上下水道などと一緒に埋設され、さらに共同溝によるごみ集積、地域冷暖房を導入しており、省エネにも配慮している。
企業誘致にも積極的で、2000年代半ばには日産自動車グローバル本社等、多くの企業法人の立地が進んでいる。
2012年12月時点の就業人口は89,000人(前年比約11,000人増)と増加傾向、さらに首都圏における観光地、行楽地としての人気が高く、同年の来街者数は約6,700万人(前年比約800万人増)と増加を続けている。
(以上、「Wikipedia」参照)
というわけで、平日にもかかわらず人出でにぎわうこの地区へも足を向けました。


「汽車道」は、1911年(明治44年)開通の旧横浜駅(現桜木町駅)と新港埠頭を結ぶ臨港線(通称税関線とも)の廃線跡を利用し、その一部にあたる約500mの区間を緑地として整備したもの。
この臨港線は新港埠頭内の横浜港荷扱所(横浜港駅)を経由して岸壁や倉庫の前、さらに横浜税関構内の荷扱所まで結んでいた。
1920年(大正9年)からはサンフランシスコ航路の出航日に限り、旅客列車(ポートトレイン)の運行が行われるようになった。戦後は米軍により一時接収されたが、1952年(昭和27年)に返還され、以降1961年(昭和35年)の氷川丸の最終航海時まで旅客運送が行われていた。
その後、貨物支線としては1986年(昭和61年)に廃止となり、1997年(平成9年)に汽車道として整備されるに至った。(以上、「Wikipedia」参照)
汽車道は「日本丸」側と「新港地区」を2つの人工島並びに3本の橋梁で結んでいる。












この日は、未曾有の大災害、「東日本大震災」からちょうど3年目の日。福島原発事故の収拾もままならず、いまだに避難者が20万人近く。この日、その発生時刻を機に避難訓練もあったようだが、それとも分からぬままに。・・・。横浜も「関東大震災」で大きな被害を受けた地域だった。





※「ナビオス横浜(横浜国際船員センター)」
データ/概要
竣工年:1999年
高さ:10階
延床面積:11,667?
建築主:日本船員厚生協会
設計:アール・アイ・エー
施工:安藤建設など
所在地:神奈川県横浜市中区新港2-1-1
日本船員厚生協会による船員とその家族のための福利厚生施設。一般人も利用可能。 客室数は135室でこれは全国各地にある同協会運営の宿泊施設の中で最大規模。
第1回「横浜・人・まち・デザイン賞」 受賞、第45回神奈川県建築コンクール優秀賞受賞
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1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。活況を示している当時のようすが分かる。右手が「横浜港」駅方向。左手上のドックが現在の「日本丸メモリアルパーク」。