古河橋。
古河橋は、足尾銅山施設の近代化の一環として渡良瀬川に架設されたもので、明治23年に竣工した。ドイツ国ハーコート社製の鋼製のトラス橋で、工場であらかじめ製作した部材を、現場でボルト接合のみで短期間で簡易に組み立てられる工法が用いられている。
古河橋は、足尾銅山において近代最初期に整備された施設の中で、ほぼ完存する唯一の遺構であり、歴史的に価値が高い。日本でも数多く架設されたドイツ国ハーコート社製のボルト接合による橋梁の中で、原位置に残るわが国現存最古の遺構であり、西洋の異なる国々から先端技術を導入し、短期間で近代化を成し遂げたわが国橋梁分野の技術的展開を示す遺構として重要である。
(この項、「文化遺産オンライン」HPより)
旧足尾本山駅があった本山地区は、足尾銅山の操業の中心地であった。その本山地区と社宅などが立ち並んでいる赤倉地区の間には松木川が流れているため、両区を結ぶために1884年(明治17年)に木造の直利橋(なおりばし)が架設されたが、1887年(明治20年)4月8日に松木村の大火で消失してしまった。そのため、足尾銅山から足尾製錬の精錬所までの鉱石運搬用として、直利橋の跡にドイツ人の設計により本橋梁が架設されている。
1891年(明治24年)には、鉄道道路併用橋として日本初となる実用化された単線の電気鉄道が施設されている。
その後は、道路橋にそのまま転用されており補強工事も行われていたが、本橋梁の老朽化に伴い、南側に新古河橋が1993年(平成5年)に架設されたため、現在は歩道橋として整備・保存されている。なお、現在は橋の入り口に柵が設けられ立ち入り禁止となっている。
本橋梁は日光市指定文化財に指定されたのち、2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定された。また、土木学会による「近代土木遺産2800選Bランク」にも選出されている。
間藤からの鉄橋跡。右手の建物内に。
左の建物内に向かっていました。
この奥一帯が「足尾製錬所」跡。建物内にあったのが「足尾本山駅」。
対岸から足尾製錬所跡。
新古河橋から下流を望む。
通りの反対側に、
日本の国語教育に大きな影響を与えた「倉沢栄吉先生」解説板。
上流に向かいます。
かつて聞いた話では採掘や煙害などによって、周囲の山々はまったくの不毛の地になってしまった、と。
1970年代のようす。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
緑の部分と茶色の部分が識別できないほど。上流は、地肌がほとんど丸出しで、草木の生えている様子はなさそう。
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足尾銅山は昭和48年(1973)に閉山しましたが、坑内等廃水処理は中才浄水場で続けられ、処理の段階で発生する廃泥はポンプにより簀子橋堆積場に送られています。銅山で用いる各種機械を製造・修理してきた間藤工場は、現在特殊鋳物製造工場として稼働しています。
また、煙害により荒廃した松木地区の治山・緑化事業は、本山製錬所に自熔製錬技術が導入された昭和30年代より徐々に治山工事と緑化工事の効果が現れ、現在では広範囲に緑が蘇りつつあります。さらに国民の環境に対する意識の高揚から、植樹に対する関心が高まり、平成8年(1996)に足尾に緑を育てる会の活動開始、平成12年に足尾環境学習センター開設が行われ、多くの人が当地を訪れ、植樹活動が行われています。
(この項、「日光市」HPより)
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50年ほど経過して、今はどうなっているか?