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Channel: おやじのつぶやき
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足尾銅山跡を訪ねて。その5。間藤水力発電所跡。上間藤。旧本山小学校。赤倉。足尾銅山本山跡へ。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

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水量発電所跡。

                解説板の奥に当時の導水管が保存されています。

            

間藤水力発電所は、坑内排水用動力として坑内に設置した蒸気ボイラーの排煙問題解決のために導入されたのが契機とされています。ドイツのシーメンス社の提案に基づき、明治23年に完成しました。水源は久蔵沢、深沢とし、2.9kmに及ぶ水路を木銿で通し、落差318mの水力によってトルピン式水車を回転させた。400馬力の電力は、坑内排水、竪坑捲揚機、電灯などに利用、銅山近代化を強力におしすすめる力となった。

しかし、渇水期には安定した電力を得ることが難しいため、その後、足尾地内に小規模発電所を相次いで建設されました。明治39年に細尾発電所(出力2000キロワット)が完成した後、間藤水力発電所は足尾電燈株式会社に払い下げられて、町民に電燈電力を供給しました。その後、間藤水力発電所がいつまで使われていたかは定かではありませんが、現在、落下部の水圧管の一部と渡良瀬川河床に発電所の基礎構造物が残されています。

                

                   (「解説板」及び「日光市」HPより)

渡良瀬川。背後は急峻な崖に。

先に進みます。

         「旧本山小学校(1907~1966」。 

「割烹旅館暢和館」。

         行き交う車はありますが、住民の姿は、ほとんど見かけません。 

「足尾一の賑わい 上間藤」。

                    右の写真は、往時の「城崎屋」と「家並み」。  

江戸期寛永6年(1853)に二宮尊徳が足尾郷を廻村したときの間藤村は、僅か19戸90人が静かに農耕を営んでいたが、明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山の再開発に着手し、近代の技術と設備の導入によって飛躍的な発展を遂げるに至り、全国から坑夫達や商人等の集まるところとなり、上間藤が活気づいた街へと形成しつつあったとき、同20年の松木からの大火が上間藤も焼き尽くした。しかし、足尾銅山の勢いとともに驚異的な復興により、足尾随一の商業を中心とした最も賑わう街並みに変貌した。やがて足尾銅山は東洋一を誇り、名山足尾は「鉱都」と称され、最盛期の大正5年(1926)の人口は38,428人で宇都宮市に次ぐ市制が期待されたが潰えた。その時の上間藤はの人口は、不明であるが、昭和10年(1935)は330戸1,488人を有していた。同45年188戸591人、現在(平成11年10月)166戸、359人となった。昔日の夢は泡沫となったが、道筋は往時のままである。

           廃屋? 

        対岸左手奥には、「旧本山小学校」。 

       渡良瀬川に合流する支流のようす。

「足尾銅山学校」。

          大勢の子ども達の姿が写っている。 

横道にも低い屋根の家が並ぶ。

「足尾一の賑わい 赤倉」。

・・・明治40年には約140軒の店が軒を連ね、中でも料理屋15軒、酒屋13軒、質屋6軒等は鉱山街を際立たせている。一般住宅も80軒余あった。時恰も、同年に坑夫達による大暴動事件が発生し、本山で鉱業所や社宅60数棟が焼失するなどして、銅山木ノは本山から通洞に移り、商店街の陰りがでるが、大正5年(1916)の足尾町の総人口は38428人と最高になり、その頃の北部は社宅約300棟飯場20棟に達し賑わいの最盛期であった。以後徐々に商店は減少した。昭和48年(1973)に足尾銅山は遂に閉山、栄枯盛衰は鉱山街の宿命であり、現在(平成11年10月)の赤倉は92戸188人となった。

足尾銅山本山跡に着きます。


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