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Channel: おやじのつぶやき
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宮本町蔵広場。韮塚製糸場。富岡製糸場・世界遺産。その光と影。『女工哀史』・『あゝ野麦峠』。

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「お富ちゃん」  周辺案内図。

「世界遺産センター」。

富岡市役所東に富岡製糸場と絹遺産群のための【群馬県立世界遺産センター】が誕生いたしました。本施設は上州富岡駅と市役所の間にある歴史的な倉庫群を再利用・再開発されて設立いたしました。

1号(れんが積み)、2号(大谷石積み)、3号(土壁)の3棟の倉庫と、乾燥場(木造)の4つの建造物から構成されています。この内1号(れんが積み)を世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」のガイダンス施設として生まれ変わりました。

世界遺産センターでは、世界遺産の価値を伝えるとともに、日本遺産などの本県の豊かな絹遺産を総合的に発信し、調査研究を行います。

「富岡製糸場」へ向かう道。

                   「宮本町蔵広場」。

「富岡ふれ愛ホール」。

            

   「旧韮塚製糸場」。

         

韮塚製糸場は、韮塚直次郎氏が明治9年10月に創立し、明治12年頃まで操業していた民間の器械製糸場です。富岡製糸場を模範として明治初期から宮本町蔵広場前期に建てられた製糸場は全国に約20カ所ありますが、地下の遺構も含めて、現存する唯一の貴重な建造物であると考えられるため、当時の建物の大部分や、繰糸機を並べた跡などの遺構を保存・整備しました。                                             

HPより)

「富岡製糸場」正門入口。

「富岡製糸場と絹産業遺産群」として「世界遺産」に。

富岡製糸場で作られた品質の高い生糸や養蚕技術は海外に広まり、世界規模で絹産業の発展に繋がったといわれています。世界遺産に登録されたのは、このように世界の絹産業発展や絹の大衆化に貢献したことが理由としてあげられます。

明治政府は他にも国の管轄で工場を作っていますが、富岡製糸場のほど完全な保存状態で残っているのはありません。また日本だけでなく、世界的にも19世紀後半の工場は珍しいと言われています。建物が創業当時のまま、ほぼ完全な状態で残っていること。それが評価につながりました。

富岡製糸場設立の目的とその背景  江戸時代末期、鎖国政策を変えた日本は外国と貿易を始めます。その当時最大の輸出品は生糸でした。生糸の輸出が急増したことにより需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられる粗製濫造問題がおきました。諸外国から生糸の品質改善の要求、外国資本による製糸工場の建設の要望が出されました。
 明治維新後、富国強兵を目指した政府は、外貨獲得のため、生糸の品質改善・生産向上を急ぎます。しかし当時の民間資本による工場建設は困難な状況であったため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくることを決めました。
この模範工場の基本的な考え方は主に3つでした。1つ目は洋式の製糸技術を導入すること、2つ目は外国人を指導者とすること、3つ目は全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り、器械製糸の指導者とすることでした。
 こうした考え方をもとに雇い入れられたフランス人、ポール・ブリュナの指導のもと、西洋の技術を取り入れた官営模範器械製糸場(富岡製糸場)が設立されたのです。   設立の地に富岡が選ばれた理由  富岡製糸場の設立計画を担当した政府の役人の一人、尾高惇忠とポール・ブリュナらが武蔵・上野・信濃の地域 を調査し、次の理由により上野(こうずけ)の富岡に場所を決定しました。

1.富岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料である良質な繭が確保できる。
2.工場建設に必要な広い土地が用意できる。
3.製糸に必要な水が既存の用水を使って確保できる。
4.蒸気機関の燃料である石炭が近くの高崎・吉井で採れる。
5.外国人指導の工場建設に対して地元の人たちの同意が得られた。   富岡製糸場の変遷  富岡製糸場は、国が建てた大規模な器械製糸工場で、長さが約140mある繰糸所には300釜の繰糸器が並び当時の製糸工場としては世界最大規模でした。
 富岡製糸場の建設はフランス人指導者ポール・ブリュナの計画書をもとに明治4年(1871年)から始まり、翌年の明治5年(1872年)7月に主な建造物が完成、10月4日には操業が開始されました。繭から生糸を取る繰糸所では、全国から集まった伝習工女たちが働き、本格的な器械製糸が始まりました。
 外国人指導者が去った明治9年以降は日本人だけで操業されました。官営期を通しての経営は必ずしも黒字ばかりではありませんでしたが、高品質に重点を置いた生糸は海外で高く評価されました。
器械製糸の普及と技術者育成という当初の目的が果たされた頃、官営工場の払い下げの主旨により、明治26年(1893年)に三井家に払い下げされました。その後、明治35年(1902年)には原合名会社に譲渡され、御法川式多条繰糸機による高品質生糸の大量生産や、蚕種の統一などで注目されました。昭和13年(1938年)には株式会社富岡製糸所として独立しましたが、昭和14年(1939年)には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併されました。第二次世界大戦後は自動繰糸機が導入され長く製糸工場として活躍しましたが、日本の製糸業の衰退とともに昭和62年(1987年)3月ついにその操業を停止しました。操業停止後も片倉工業株式会社によってほとんどの建物は大切に保管され、平成17年(2005年)9月に建造物の一切が富岡市に寄贈され、その後は富岡市で保存管理を行っています。
平成17年7月には国の史跡に、平成18年(2006年)7月には主な建造物が重要文化財に、平成26年(2014年)6月には「世界遺産一覧表」に記載されました。さらに、同年12月には繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「国宝」となりました。   現在の富岡製糸場  現在、富岡製糸場は、富岡市が所有し保存修理や整備活用等の管理を行っています。
 活用の一環として一般公開をしており、富岡製糸場の歴史や文化財としての価値を伝え、貴重な遺産として後世へ残すことの意義を理解してもらうことを目的としています。富岡製糸場の見学は外観見学が中心であり、外観を見てもらうだけでは115年間の操業の歴史や産業遺産としての価値が分かりにくいことから、解説員によるガイドツアーや音声ガイド機による解説案内を行っています。
保存修理及び整備活用については、2008年と2012年に策定した保存管理計画及び整備活用計画をもとに、専門家からなる委員会の指導助言を受け、関係機関と協議をしながら今後30年計画で保存修理工事に併せて整備活用を行っていく予定です。 (この項、「」HPより)

製糸工場、繊維工場というと、戦前の劣悪な労働条件の下で働く女工の実態が、「女工哀史」「ああ野麦峠」などの作品によって描かれています。

この富岡製糸場が「建物が国宝に指定」「世界遺産登録」によって、華やかな面ばかりが強調されてしまっているのでは、という危惧の思いがありました。

※『女工哀史』」1925年大正14年)、改造社より刊行された細井和喜蔵著。

紡績工場で働く女性労働者の生活を克明に記録したルポルタージュ。

※『あゝ野麦峠』山本茂実1968年に発表したノンフィクション文学。副題は「ある製糸工女哀史」。

明治から大正にかけて、岐阜県飛騨地方の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて長野県諏訪岡谷の製糸工場へ働きに出た。吹雪の中を危険な雪道を越え、懸命に就業した。大日本帝国富国強兵の国策において、有力な輸出貿易品であった生糸の生産を支えた女性たちの姿を伝えた。

製糸工場が最も過酷だったとされる明治40年代を中心に取り上げている。山本は執筆に当たり数百人の女工・工場関係者からの聞き取りを行っている。

書籍出版後、高等学校国語教科書(角川書店)で取り上げられ、彫刻家の佐藤忠良の絵による絵本(ポプラ社)も出版された[1]。また劇団民藝によって舞台化され日本全国で公演も行われた。

1979年6月に映画化され、野麦峠には1991年に野麦峠の歴史を紹介する資料館「野麦峠の館」が開館した。映画では過酷な環境にスポットが当てられたが、資料館ではより多面的に、勤続10年で長野県生糸同業組合連合会から送られた感謝状、岡谷の写真館での集合写真、青年が工女に宛てて書いた恋文等も展示された。しかし、資料館は老朽化等により2022年3月末に閉館することになり、資料の一部は隣接する観光施設「お助け小屋」に移して展示されることになった。

原作では、工女の賃金にばらつきがあったことや、「我が家は貧乏だったので、工女に行けなかった」「実家の農家で働いていた方がきつかった」といった、複雑な背景も描かれている。 そのほか、気温40度にのぼる劣悪な職場環境で1日に15時間以上働き、結核が蔓延するなど、感染症対策や公衆衛生社会保障が充実していなかった当時の労働事情や、糸値に翻弄される製糸家の厳しい実情などにも言及し、詳細な聞き取り調査のもと、日本の貧しく苦しい時代を懸命に生き抜いた人々を、その時代背景と共に浮き彫りにするように描かれている点が、多くの読者に評価されている。

(この項、「Wikipedia」より)

工場の変遷がパネルによって紹介されていますが、『女工哀史』や『あゝ野麦峠』のような過酷な労働実態はほとんど触れられてはいません。勿論、富岡製糸場が舞台ではありませんが。

当初は伝習工女の技術習得の場として、労働時間も7時間45分が守られ、当時世界一を誇る製糸工場に相応しい模範工場だったようです。
しかし、明治18年には利益優先へと大きく舵を切り、労働時間も延長されてゆくことに。
官営工場が三井家に払い下げられたのが明治26年。以後、三井から明治35年に原合名会社へ、昭和13年に片倉工業株式会社へと経営が移り、昭和62年に操業を停止しました。

世界遺産、国宝に認定されたのは、草創期・官制工場時代を中心とした歴史的建造物。

東置繭所。解説板。

     外観(裏手)。


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