この先、突き当たりがクランクが残っています。右・左・右に折れる。
1880年代のようす。
2010年代のようす。
解説板。 成田山道標。
江戸時代、将軍の日光東照宮参拝などに大名たちが使用した日光街道の脇往還。クランク脇の道六神(どうろくしん)には、成田山と刻まれた道標がある。
来た道を振り返る。右折する。
県道に戻り、「運河駅」を右手にして進むと、
利根運河。
運河上には、鯉のぼりがたくさん泳いでいます。右が利根川側、左が江戸川側。
「利根川」歩き(分岐点)、「江戸川」歩き(合流点)に続いて、3回目になります。
利根運河を渡った先には、「東京理科大理工学部」野田キャンパスが広がります。
右上が理科大の校舎。
東京理科大は葛飾にも大きなキャンパスがあります。
(「東京理科大」HPより)
もう一駅進むことに。
「ガスト」の先、左手を入った先に「山崎貝塚」跡があります。
野田市山崎交差点。
このあたりが「山崎宿」の入口で、手前のゆるやかなS字カーブは枡形の名残りと言われています。
※「山崎宿」が「日光東往還」の最初の宿場。
振り返る。緩やかにカーブする坂道。
右手には、門塀をめぐらせた大きな旧家が。
野田市まめバス・「山崎宿」バス停。
交差点左手に、「日光東往還 山崎宿」と記されている
「常夜灯」のモニュメント。
山崎宿は、日光東往還(水戸街道から分かれて現在の栃木県宇都宮市勧めの宮で日光街道に通じる)の最初の宿場です。野田市内には、山崎宿の他に中里宿、関宿宿がありました。将軍による日光参詣や大名の参勤交代の時に、日光街道は大名・旗本など多数の通行がありました。東往還では、将軍が参詣をする時に警護の諸大名が山崎宿に休憩・宿泊した記録があります。江戸時代には三十数戸の家がありました。特定の本陣(大名や幕府の役人が泊まる宿)がなく、そのつど名主・問屋との協議によって本陣・脇本陣を定めました。明治二十二年(一八九九)四月一日、山崎村・今上村・花井新田・堤根新田が合併し、梅の五弁になぞらえて東葛飾郡梅郷村が誕生しました。山崎宿の絵図(文化三年・一八〇六年)には道路の中央に秋葉夜灯(常夜灯)が記されています。常夜灯は昭和の初期に地元の人々によって復元さ老朽化により南部梅郷公民館に移設・保存するとともに、梅郷駅西口交差点に改めてそのモニュメントを設置し、山崎宿を後世に伝えようとするものです。
左へ行く流山街道と分かれて、右側の旧道へ進みます。
歩道橋から。右へ進むのが旧道。
来た道を振り返る。
この付近の今昔。
1880年代のようす。町場が形成されている。
2010年代のようす。旧道は線路方向に進む。
今回は、ここまで。「梅郷駅」に向かいます。