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Channel: おやじのつぶやき
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流鉄「流山駅」~京成本線「国府台駅」その8。里見公園。国府台貝塚。古代東海道。京成本線鉄橋。(「江戸川」を歩く。第3回目。)

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左に国府台の森が迫り、川沿いの細い道になります。

ずっと江戸川の流れからは離れた土手上を歩いていましたが、ここで水面がぐっと近くなります。

スカイツリーが遠くに。

        

水面まで階段が。

左手は里見公園の高台。

里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、このあたりは国府台と呼ばれ、ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。

 その後、室町時代天文7(1538)年10月、足利義明は里見義堯等を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と戦いました。しかし北条軍が勝利をおさめ義明は戦死し、房総軍は敗退しました。続いて永禄7(1564)年正月、里見義堯の子義弘は再度国府台城で北条軍と対戦しましたが、この合戦も北条軍の大勝で終わり、以降この土地は北条氏の支配するところとなりました。
 江戸時代に徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。明治から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えました。

 昭和33年、市川市はこの由緒ある古戦場を記念するために、一般の人々の憩いの場として里見公園を開設しました。

歌川広重「鴻の台利根川風景」(※この「利根川」は江戸川の旧称)。崖の高さに誇張があるが、里見公園付近を描いたものとされる。(「Wikipedia」より)

国府台 下総台地の最西端、江戸川を隔てて東京都に向かい合うこの地域は、市川市でも古い歴史をもち、国府台には法皇塚古墳(ほうおうづかこふん)が現存しています。国府台の地名は、下総国府が置かれたところから付けられたもので、この国府台と並んだ国分の台地には、聖武天皇の国分建立の詔(みことのり)によって国分僧寺と尼寺が建立されました。このようにして市川市の西部地域は、下総国における政治と文化の中心地になったのです。  平安時代の中ごろには、平将門の乱をはじめ、平忠常の乱などによって国守の力が衰退していきました。源頼朝は治承4年源氏の再興を願って下総国府に入り千葉常胤、平広常などの援助のもと兵を集めて鎌倉に向かいました.いわば、国府台は源氏再興の出発点となったところなのです。  戦国時代には太田道灌が国府台に城を築き、その後、この城は里見、北条両氏の古戦場として知られる所となりました。   (この項、「市川市」HPより)  

※昭和30年台前半の小学生の頃、国府台駅から北に歩いて行くと、「貝塚」があって、土器や貝殻をたくさん拾ってきたことがありました。どの辺かは全く記憶がありません。現在はどうなっているのでしょうか?

もしかしたら現在の「須和田公園」付近?

東国の国府と国府を結ぶ道筋が「古代東海道」。墨田区鐘ヶ淵から葛飾区小岩までその道が残っています。このBlogでも取り上げたことがあります。

その①

「古代東海道」は隅田河畔から東武鐘ヶ淵駅付近を通り、荒川を越え、四つ木橋の北詰、「レンバンサイクル」という自転車屋さんの脇の道から、水戸街道を越えて、四つ木駅の商店街を通り抜け、「立石大通り」から中川を渡り、小岩へと続き、江戸川付近までのほぼ直線道路。

「水戸街道(国道6号線」から荒川(西)方向を望む。


水戸街道を渡ったところにある「案内板」。上が北。

その②

「葛飾区立奥戸小学校」脇に設置されている説明板。上が南。

 「古代東海道」(武蔵の国府―府中市―・平城京―奈良市―~下総の国府―国府台―、常陸の国府)の跡。大化の改新以後、国内の道路整備の一環として、宝亀2(西暦771)年に制定された道路だという。現在も隅田川・東武線鐘淵駅付近から、葛飾区内を東西に貫く道として江戸川・京成小岩駅付近まで、その跡をたどることができます。

・・・

対岸の小岩地区を望む。

上流方向。

京成本線鉄橋。

中央奥にスカイツリー。

高台に和洋女子大。その奥に千葉商科大学。

「海から14.0㎞」。

            

今回はここまで。

京成本線「国府台駅」に向かいます。

ホームから江戸川鉄橋を望む。

次回は、いよいよ河口まで歩きます。


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