木下(きおろし)の町に入ってきます。「川魚料理 銚子屋」の看板が見えてきます。
「←JR木下駅」・「木下河岸跡→」。
2010年の11月末、「木下街道」歩きでここに着きました。曇り空で寒かった!
「木下河岸跡」解説板」。
江戸時代から明治時代にかけて木下河岸は、利根川水運の要衝の地として栄えた。安政5年(1858)、赤松宗旦は、「利根川図志」のなかで「木下といえば江戸にも隠なく・・・古この地僅に十軒ばかりなりしが、寛文のころ此処に旅客の行舟を設けたるに因りて、甚だ繁栄の地と為れり。そは鹿島香取息栖の三社に詣し、及び銚子浦に遊覧する人多かればなり」と述べている。利根川の渡し場として成立したが、明暦の頃(1655~57)から河岸場として発達していく。直接手賀沼へ船が航行できた寛永年中(1624~42)には、木下に寄港する船も少なかったが、寛文の頃(1661~72)、のちに「木下茶船」の名で知られる乗合船が発着するようになり、利根川下流へ向かう旅客や銚子・九十九里方面からの鮮魚荷物などで賑うようになった。最盛期には50軒余りの旅籠屋や飲食店が軒をつらねていた。文化・文政期(1804~29)に盛んとなってきた江戸近郊への寺社参詣を兼ねた遊山の流行とともに、利根川を下って香取・鹿島・息栖の三社を参詣し、銚子の磯巡りを楽しむ木下茶船の旅が江戸町人の人気を集めた。同船は貸し切り遊覧船で、8人乗りの和船である。寛政の初め(1789)頃には年間4500艘ほどの出船が見られ、1万7000人程度の乗客があった。木下河岸は、明治期に入っても蒸気船の発着場として地域経済の中心的役割を担っていたが、明治34年(1901)の木下駅の開設に加え、大正初めの利根川堤防の改修工事により、河岸の家並みの多くが移転を余儀なくされ、次第に衰退していった。
1880年代のようす。木下河岸付近。渡船場も。
2010年代のようす。かつての街道がそのまま。
「木下街道」(現「市川・印西線」)は、江戸時代初期に行徳河岸(現市川市)と木下河岸(現印西市)を結ぶ往還として、行徳、八幡、鎌ヶ谷、白井、大森、木下の6か所に宿がおかれました。人の行き来だけでなく、銚子方面から江戸日本橋の魚市場へと鮮魚を送る道としても重宝されました。貞享4年(1687)、松尾芭蕉は「鹿島紀行」の旅で木下街道を利用しました。
※「きおろし」は、伐採され河川で運ばれた材木を下ろしたことに由来するらしい。
現在の河岸のようす。
左手、布佐方向。
※「布佐」は松戸に向かう「鮮魚街道」の河岸があったところ。
上流方向。
そこから土手を望む。
「銚子屋」の看板がてっぺんだけ見えます。
駅方面には歩かなかったので、「木下街道」歩きの記事を再掲。
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宿場らしい雰囲気は感じません。
風情のあるおそば屋「柏屋」が左手に。
「川魚料理 銚子屋」。
「印西郵便発祥之地」碑。
その奥に土蔵があります。
吉岡家の土蔵。
吉岡家は歴史的にみて木下の原点であり、吉岡家の歴史はそのまま木下の歴史でした。
今回、二回目の修復により再生した土蔵は明治24年建造のもので、往時の木下の繁栄を伝える数少ない歴史建造物で、現状のままでは早晩、取り壊される状況下にありました。しかし、この木下を象徴する吉岡家の土蔵の消失は単なる建物が無くなるだけではなく木下の歴史と文化」、「愛着と誇り」の、つまり今後の木下を考える上でアイデンティティーの喪失に繋がりかねないという意識がありました。
かつてここを起点に木下街道を通じて遠く江戸・日本橋の河岸まで物資が運ばれていたにぎやかな時代がありました。
(この項、「木下まち育て塾 まちかど博物館」HPより)
かつて、奥には母屋等があったようですが、取り壊され、集合住宅になっています。
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ところで、木下は印西市に属しています。
かつては印西の中心地(印西市役所の最寄りの鉄道駅は「木下駅」。)でしたが、今や「千葉ニュータウン」にお株を奪われた印象です。
印西市
古くから印西市木下地区は利根川水運の宿場町「木下河岸 (きおろしがし)」と呼ばれ、銚子から江戸への中継地点として栄えており、銚子沖で獲れた魚貝類は、馬で木下街道を通り本行徳河岸で舟に乗せ替えて日本橋・小網町の行徳河岸に運び入れていた。近年では、千葉ニュータウン地区が関東平野の中で活断層が無く下総台地上の岩盤が強固とされることから、災害へのリスクヘッジとして日本中から注目を集めており、大企業のデータセンターが次々と建築計画がされるなど、大規模開発が目覚ましい地域の一つである。また、東京と成田国際空港の中間に位置し、都心へのアクセスの良さから多くの物流系企業が同地区に進出している。特に千葉ニュータウン鹿黒地区に進出した世界的企業グッドマン・グループ(グッドマンジャパン)は、商業施設や企業を集約した「グッドマンビジネスパーク」を開発し、充実した電力インフラと優れた事業継続計画(BCP機能)により今後更なる発展が期待されている。なお、日本初となるGoogleのデータセンターも同パーク内に建設予定となっている。
市内にはジョイフル本田千葉ニュータウン店、ビッグホップガーデンモール印西、牧の原モア、イオンモール千葉ニュータウンなどの大型ショッピングセンターが林立しており、準商業中心都市から商業中心都市に商圏を広げている。
市制施行直前には全国で最も人口の多い町となり、印西市文化ホール(市役所隣)前には全国町村人口日本一の記念碑が建てられている。2018年(平成30年)5月29日には人口10万人を突破した。2011年(平成23年)に、印西市のマスコットキャラクターが、いんザイ君に決定する。
(この項、「Wikipdia」参照)
北総線「千葉ニュータウン中央」駅前のようす。