対岸(茨城県北相馬郡利根町)の工場地帯。
ところで、「相馬郡」というと、茨城県よりも北に位置する福島県の相馬郡を思い浮かべます。どうして「北相馬」なのかという疑問が。
そこで、「Wikipedia」によって。
歴史
1871年(明治4年)11月以来、全域が印旛県、次いで千葉県に属していたが、1875年(明治8年)茨城県および千葉県の再編に合わせて千葉県管下の下総国のうち利根川以北の区域が茨城県に移管された。葛飾郡と相馬郡のうちの利根川以北の区域が茨城県となった。
1878年(明治11年)の郡区町村編制法により茨城県管下の相馬郡が北相馬郡となった。一方、千葉県管下の相馬郡は南相馬郡となり、1897年(明治30年)に東葛飾郡に併合されて消滅している。
なお福島県の相馬郡は、中世から明治維新までの大名である相馬氏に由来するものである。相馬氏の発祥は下総国の相馬郡であり、千葉県の旧東葛飾郡地域を含めて福島県の相馬郡とは現在でも交流が続いている。
というわけでした。こういう歴史があったのですね。
振り返る。信号のない直線道路。車が多く行き来しています。
上空に「大利根飛行場」から飛び立った飛行機の姿。さてどれか?
中央上の白い点。
川面にフェンスが張られています。
印旛郡栄町から印西市木下(きおろし)へ。しだいに市街地になってきます。
整備が進む河川敷。
「木下東」交差点。
安食付近で分岐し、「将監(しょうげん)川」沿いに進んだもう一つの「国道356号線」は下り、ここで再び合流します。
将監川
千葉県印西市・印旛郡栄町の境に位置する利根川の旧派川である。かつては「枝利根川」とも呼ばれた。栄町西付近にて利根川より分派し、栄町和田の長門橋下流にて長門川に合流する河川であった。1912年(大正元年)に洪水対策の一環として、利根川の第二期改修工事において将監川締め切り工事が行われ、以降は長門川にのみ接続している。現在は名称上「川」として親しまれているものの、利根川水系の指定河川には含まれておらずさながら「湖沼」として扱われている。
(この項、「Wikipedia」より)
「将監川」の今昔。
1880年代のようす。
利根川と将監川がつながっている。
2010年代のようす。
利根川と締め切られている。川というよりは「沼」という表現がふさわしいか。
※「将監」=近衛府の将官名。四等官の判官(ジョウ)に相当し、六位上の官位に相当。現場指揮官で護衛、警護の体制を組み立てる役目。近衛将監は六位蔵人・式部丞・民部丞・外記・史・衛門尉などと同様に正月の叙位で叙爵枠があり、毎年1名ずつ従五位下に叙された(巡爵)。五位でこの官職に就くと、左近大夫(さこんたいふ)将監あるいは右近大夫(うこんたいふ)将監。将監を略して、左近大夫あるいは右近大夫と称された。
葛西臨海公園近くに「将監の鼻」があります。かつてブログで紹介しました。
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「旧海岸堤防」。碑の正面。
由来と潮干狩りの写真。
《碑文》
昔、この地は、”将監の鼻”と呼ばれ、海の玄関口として知られていました。
葛西海岸は遠浅の海岸をなし、海の宝庫として、沖にはのりひびが立ち並び、あさりや、しじみを採る舟が舳を競い、春には汐干狩、夏には海水浴など、レクリエ-ションの場としても親しまれていました。
この堤防は、昭和22年のカスリーン台風、続く昭和24年のキティー台風による被害を経て、昭和26年に高潮から内陸部を守る目的で建設に着手され、約4.5kmに及ぶ工事が昭和32年に完成しました。
以来、幾多の自然の試練からこの土地を守ってきました。
しかし、一方では先祖伝来の土地を海の中に追いやってしまうというつらい役割も担って来ました。昭和47年からの東京都の埋立て事業ねにより、見事に陸地として甦り、新たな堤防の築造により無事にその役割を終えました。
海と親しみ、海と共に生きてきた先人達の姿を永く記憶にとどめるため、堤防の一部を残し記念とします。
昭和61年8月 江戸川区長中里喜一●のところ。
このあたりがかつては岬で、「将監の鼻」と呼ばれたとのこと。向井忠勝の官位である左近衛「将監」に由来しているようです。
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「海から74㎞」。
振り返り、下流を望む。