「中央区立城東小学校」校舎。旧校名「京橋昭和小学校」。この校舎は、復興小学校の一つとして、昭和3(1928)年に建てられ、今も現役の校舎として使われている。
震災後、1930(昭和5年)度まで7年間のあいだに117の「耐火耐震」コンクリート製校舎が建設された。中央区(旧日本橋区・旧京橋区)には24の「復興小学校」が建設され、この二校とも1929(昭和4)年に完成した。
1962(昭和37)年4月 日本橋区立日本橋城東小学校(明治8年創立)と京橋区立京橋昭和小学校(昭和3年創立)が統廃合の結果、合併し、旧京橋昭和小学校校舎に「中央区立城東小学校」として新設された。
旧「日本橋城東小学校」は、東京駅八重洲口の北東、「タカシマヤ」と中央通りを挟んで西側、「丸善」の裏手にあった学校で、跡地は現在、「日本橋プラザビル」となっている。こうして、「城東小」の校舎のみ残った。
1896年ころのようす(「今昔マップ」より)。東京駅がまだない頃(東京駅の開業は、1914《大正3》年12月20日)。皇居(江戸城)の外堀がある。上から「呉服橋」「八重洲橋」「鍛冶橋」。赤丸が「京橋昭和小」の前身の学校で、南槙町にあった。場所は現在地と変わらない。
1975年ころのようす(「同」より)。Aが「日本橋城東小」Bが「京橋昭和小」。青い線が「外堀通り」。
2000年ころのようす(「同」より)。Aが「日本橋プラザ」になっている。Bが「城東小学校」。
八重洲口駅前の外堀通りの信号を渡り、小道を一本入れば、この小学校がある。うっかりしていると通りすぎてしまいそう。こんなところに小学校が、という印象。
今でこそ、東京駅に最も近い場所にあって高層ビルに囲まれた小さな存在になってしまった小学校だが、この校舎が竣工した昭和はじめは、東京駅の八重洲口東には幅広い外堀があり、東京駅からはその堀をはさんだ場所にあった。(当時、京橋の繁華街・中心はもっと東側の地域で、小学校は町のはずれの住宅地にあった。)
他の復興校舎と同様、建物の特徴は、当時のヨーロッパのモダンデザインが多く用いられていること。玄関や門柱のデザインはアールデコ風で、半円形の窓などはドイツ表現派の影響がみられる。
壁面。窓枠が大きい。
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正面玄関。両脇の門柱や玄関の庇などに特徴。
裏手の玄関。
門柱。
庇下のデザインに注目。
校章。
半円柱。復興校舎の特徴の一つ。
ビルの谷間にどっしりとした存在感。
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学校脇の道路から東京駅八重洲口を望む。
外堀通りからの八重洲口。
1学年1クラス 男女合計80名の小規模校。学習面、生活面。さらに運動会、学芸会でも、学年をこえて全校で協力して作り上げているようす。きめ細かな指導ができそう。都会のど真ん中にある本当に「小」小学校。
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(「城東小」HPより)
震災後、1930(昭和5年)度まで7年間のあいだに117の「耐火耐震」コンクリート製校舎が建設された。中央区(旧日本橋区・旧京橋区)には24の「復興小学校」が建設され、この二校とも1929(昭和4)年に完成した。
1962(昭和37)年4月 日本橋区立日本橋城東小学校(明治8年創立)と京橋区立京橋昭和小学校(昭和3年創立)が統廃合の結果、合併し、旧京橋昭和小学校校舎に「中央区立城東小学校」として新設された。
旧「日本橋城東小学校」は、東京駅八重洲口の北東、「タカシマヤ」と中央通りを挟んで西側、「丸善」の裏手にあった学校で、跡地は現在、「日本橋プラザビル」となっている。こうして、「城東小」の校舎のみ残った。



八重洲口駅前の外堀通りの信号を渡り、小道を一本入れば、この小学校がある。うっかりしていると通りすぎてしまいそう。こんなところに小学校が、という印象。
今でこそ、東京駅に最も近い場所にあって高層ビルに囲まれた小さな存在になってしまった小学校だが、この校舎が竣工した昭和はじめは、東京駅の八重洲口東には幅広い外堀があり、東京駅からはその堀をはさんだ場所にあった。(当時、京橋の繁華街・中心はもっと東側の地域で、小学校は町のはずれの住宅地にあった。)
他の復興校舎と同様、建物の特徴は、当時のヨーロッパのモダンデザインが多く用いられていること。玄関や門柱のデザインはアールデコ風で、半円形の窓などはドイツ表現派の影響がみられる。












1学年1クラス 男女合計80名の小規模校。学習面、生活面。さらに運動会、学芸会でも、学年をこえて全校で協力して作り上げているようす。きめ細かな指導ができそう。都会のど真ん中にある本当に「小」小学校。

